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第25節 水いらずのおちつき

 白く平たい陶器のお皿に、夏野菜がたっぷり使われたカレーライスが盛られている。
 そのカレーは汁物というよりあんかけのような水分量で、豚肉とナスとともに入れられた赤と黄色のパプリカが鮮やかに食欲をそそり、添え物のローストされたカボチャやオクラ、ミニトマトがさらなる彩りを演出している。
「……これは、とても美味しそうですね」
「ほんとですか? 一応味見はしたんで、味も悪くはないと思うんですけど。マシュさんのお口に合うかどうか……。」
 そう言って直輝が座布団に座る。
 今、二人分のカレーライスと麦茶が卓袱台ちゃぶだいに並べられ、直輝とマシュの昼食が始まろうとしていた。
「それでは、いただきます」
「はい。」
 直輝が見守る中、マシュはさっそくカレーを一口、スプーンですくって口へと運ぶ。
「……」
「……。」
 無言でカレーを味わい、のみ込むマシュを、直輝は静かに見守った。
「……木村さん。これは……」
「……はい。」
「とても美味しいです」
「本当ですか?!」
「はい!」
 笑顔でもう一口、マシュがカレーを口へと運ぶ。
 すると口の中に、カレーの濃厚な味わいとともに、酸味を伴う鮮烈な旨味が広がる。
「普通のカレーではないとおっしゃっていましたが、確かにこの味わい、わたしの知っている日本の一般的なカレーとは異なっています。かといって、この旨味はスパイスの味わいともまた違うように思われますが。いったい、これはどのようなカレーなのでしょうか?」
「無水カレーです。」
「無水……カレー……」

 ――無水カレー。
 それは文字通り、水を使わないカレーである。
 本来日本のカレーは、水にカレールーを溶かして作るものである。それは、市販のルーではなくスパイスを使った本場風のカレーでも変わらないだろう。水はカレーの基本的な材料。それは日本のみならず、国境を越えた共通認識ではないだろうか。
 しかし、無水カレーはあえてその水を加えずに作る。では、どうするのか。焼きものにするのか? 炒めものにするのか? いな、素材の水分を使うのである。これによって、旨味がぎゅっと凝縮された味わいに仕上がるという寸法である。
 それは日本において王道の人気メニュー“カレー”。の作り方でありながら、その王道レシピを逸脱した邪道。水道から得た無機的な水分を使うのではなく、有機物由来の、生き物の、命の水だけを使うという恐ろしい発想。悪魔的所業。しかして、その味もまた悪魔的。一言でいって、美味である。

「なるほど。それでこのような、フレッシュな旨味があるのですね。…………ですが、この酸味。ナスのものでもパプリカのものでもありません。…………いったい、なんの味なのでしょう?」
「トマトです。」

 ――トマト。
 それはかつて、その真っ赤な見た目から毒を持つと考えられていたという悪魔的果実。
 好みは分かれど今や日本でもポピュラーなこの食材は、多量の水分を含むとともに熱で崩れやすいため、邪道にして悪魔的な美食“無水カレー”のメインにぴったりの食材なのである。
 トマトが嫌いな理由として多く挙げられる触感も、ぐずぐずに溶けてしまえば気にならず、青臭さもスパイスの香りで消えてしまう。カレーとトマト、その相性は抜群なのである。
 さらには熱することでトマトの主要な栄養分リコピンの吸収効率が上がるほか、トマトの酸味がカレーに欠かせない食材である肉の臭みを消してくれ、中でも豚肉と合わせることで疲労回復効果のある栄養素のオンパレードを巻き起こすことが出来るなど、その相性の良さはとどまるところを知らない。

「……この酸味は、トマトによるものだったんですね。たしかに言われてみれば、ミネストローネのようなトマトの風味があるように思えます。ですが、言われなければピンときませんでした。これなら、トマトが嫌いな方でも美味しく味わえるかもしれませんね。とても食べやすいです」
 マシュはそう言い終えると、すぐに新しい一口を頬張った。
 形がなくなるまでじっくりと煮込まれたトマトがカレールーと溶けあい織り成す味わいは凄烈せいれつで、口の中を満たすカレー本来の濃厚さはそのままに、フレッシュな味わいがそこかしこで炸裂する。
 すっかり溶けてしまったとろけるチーズの風味も、トマトの酸味と相性がよく、時々その旨味を爆発させる。
「よかったです……。」
 直輝は静かにそう言うと、付け合わせのローストした野菜にスプーンを伸ばした。

 ――ほくほくとした食感で甘みのあるカボチャ。歯ごたえがあり粘りのあるオクラ。そして、熱により甘みが強まったミニトマト。どれも塩などの調味料は一切使わず、素材の味をそのままに魚焼きグリルでローストされている。
 カレーをソースのようにして味わえば、その特徴的な味わいと食感がアクセントとなって、濃厚な無水カレーを飽きさせることなく楽しませてくれる。全くもって口に楽しい付け合わせたちである。
 そして何より、どれも旬の夏野菜。栄養たっぷりで、旨味もたっぷりである。

「……すごいですね。木村さんにこんな特技があったとは」
「いえ。普段は料理なんかしないので、このカレーも、ビギナーズラックです。」
 しばらく前にたまたま漫画 *1 で見て、ずっと食べてみたかった“無水カレー”。それを、今日は胃の調子が比較的よかったので作ってみたのである。
 普段は料理なんかしない分、思いっきり楽しもうと奮発してカレーに合いそうな旬の夏野菜を買い込み、いくつかのレシピを参考に作ってみたところ予想以上に上手く出来たため、直輝自身も驚いていた。
「あっ。麦茶、おかわりしますか?」
「はい。お願いします。それと、その……。カレーのおかわりは、あるのでしょうか?」
「カレーのおかわり、ですか? ありますけど……。食べてくれるんですか?」
「はい! ぜひ、いただきたいです」
 マシュの言葉に、直輝はうれしそうに微笑んだ。
 それは、円卓を囲んで交わされる、悲愴な戦いの合間の平穏なひと時――。

     *

「木村さんは、ご家族と とても仲が良いのですね」
 実家に持っていくカレーのおすそ分けをタッパーに詰めていた直輝に、マシュが部屋から声をかける。
「……まあ……今は……、そうですね……。」
 昨日も直輝は家族と一緒に、としまえんの花火を見るため、少しばかりマシュを残して出かけていたのだ。
 そして今晩も、手作りのカレーを少しばかりタッパーにつめて持って行こうとしている。
「なのに、なぜ木村さんは、一人暮らしをしているのですか?」
「……殺しちゃいそうだったから、ですかね。」
「……」
 マシュは耳を疑った。
 そんなマシュのもとへ戻って来た直輝は優しく微笑んだが、冗談を言っているというような顔ではなかった。
「色色あって――。」
 そう切り出した直輝は、微笑みを絶やさず語り出した。
「別に、家族が嫌いとか、そういうわけじゃなかったんですけど。家族が家にいるだけでイライラして、いつ家族が帰って来るかわからないってだけで落ち着かなくて。最後の方は、家にいたくなくて、よく電車で定期圏内を行ったり来たりしながら、読書したりうとうとしたりしてました……。寝つきもとても悪くて……。
 それで、このままじゃいつ何かの拍子に殺しちゃうかわからないなと思って。例えば、寝不足で眠いのに眠れない夜なんかに、もし隣でいびきをかいて寝てる母親に寝相で蹴られたりでもしたら、衝動的に殺しちゃいそうだと思ったんです。それで、一人暮らしを早めたんです。
 もともと、妹が大学を卒業したらもう、家のことは全部妹に任せて家を出る予定だったんですけど……。」
「……」
「後、体も限界で。実家、高校三年生の夏から、ガス通ってなかったんですよ。それまでもガス代滞納して止まることはたまにあったんですけど、一カ月以上止まっちゃうと復旧するのに点検が必要で。
 でも、うちゴミ屋敷級の散らかり具合で、とても業者さんを呼べるような状態じゃなくて。しかも、古いのもあってお風呂場とかも色色壊れてたんで。家賃滞納して出ていかなきゃいけないかもしれないようなトラブルになったこともあったから、もし修理になってもめても困るし、そのままになってたんです。なんだかんだ、ずっとそういう生活だと慣れちゃいますしね……。
 で、割高だけど、料理とかはカセットコンロを使ってて。でも、体洗うのにカセットコンロでちまちまお湯を沸かすのも面倒で、俺は真冬もよく水浴びしてたんですよ。そしたら、去年の冬に、ついに心臓とか肺が酷く痛むようになっちゃって。
 その防犯ブザー *2 も、そういう理由で置いてあるんです。一人だから、もし急に倒れた時のために。まあ、鳴らせたとしてもまず助からないとは思いますけど。夏場とか、発見が遅れて腐っちゃったらと思うと、まあ、ないよりはマシかなと思って……。」
「……」
「まあでも、俺が一人暮らし始めて割りとすぐ、実家のマンションが建て壊しになったんで引っ越して、今はもう実家も普通にガス通ってるし、ちゃんとした布団で寝てるんですけどね。ちょっとなんていうか、腑に落ちないんですよね」
 そう言って直輝は、冗談でも言ったみたいに笑ったが、マシュは予想外の直輝の過去に言葉を失って愛想笑いすら返せなかった。
「……ごめんなさい。マシュさんが優しく聞いてくれるから、つい、喋り過ぎちゃいましたね。」
「いえ、そんなことは……」
「いやぁ、出だしがよくなかったですね。」
「たしかに、驚きはしましたが……。よくなかったということはありません」
「ほんとですか? じゃあ、もう一個聞いてくれます? 俺、家族ネタには事欠かないんですよ。」
「家族ネタ……ですか?」
「はい。俺、もともとは大学進学を目指してて、頭も悪いから、浪人しながらアルバイトしてお金貯めてたんですね。でも、けっきょく色色あって、大学進学は辞めて。で、そのお金を一応貸しってことで妹に貸して、大学の入学金を俺が出したんです。」
「すごいですね。大学の入学金というのは、かなりの額だと思うのですが……」
「まあ、俺も大学行きたくて、貯金してたんで。あの頃は、頼まれるだけシフトに出続けて、最高三十四連勤とかもしましたし、そういう感じだったんで。」
「三十四連勤ですか? 木村さんは、普通のアルバイトだったのですよね?」
「はい。まあ、人理修復とかしてるカルデアに比べれば、大したことないですよ。」
「いや、日本の一般的な就労活動とカルデアの人理修復は比べるものではない気がしますが……」
「ふふ、その通りですね。カルデアにもゲーティアにも失礼ですね。
 ――でまあ、その時に、例え中退することになってももう俺は学費は出さないから、後はアルバイトなり奨学金なりで全部自分で払いなさいって言ってたんですよ。
 でも、二年生の春くらいに学費が足りないって言ってきて。まあ、一応そういう可能性も考えてお金は貯めてたんで、いくらっていたら八十万って言われて。いつまでって訊いたら明後日までって言うから、めちゃめちゃしかったんですね。」
「それは……そう、ですよね……」
「はい……。で、訊いたら、大学に待って貰えないか掛け合ったりとかも何もしてないって言うんで、とりあえず一日猶予があるんだから、まずは人に頼む前にそういうことをやれって言ったんですよ。
 そしたら、母親と二人して書類を見ながらヤバいとか騒ぎだして。明日までだったとか言い出して。もっと叱ったんですけど、まあ、けっきょく俺が出したんですよ。」
「それは、その……、色々と、すごいですね……」
「ふふ……、そうですね……。
 で、そんなことがその後も二、三回あって。まあ、二十五万ぐらいの時とかもあったんですけど。毎回明日までって言うから、段階を踏んで言葉を強めたりして叱ってたんですよ。そしたら、流石に学習したみたいで……。」
「おお、それはよかったですね……」
「……。三年生の夏にまた、出来たら七十五万出して欲しいって言われたんですけど。」
「それはまた、けっこうな額ですね……」
「そうなんですよ。で、いつまでって訊いたんですよ。そしたら、今月中って言われて……。その日、八月三十日だったんですよ。」
「それは、つまり……」
「けっきょく明日までじゃん! って言う。」
「……」
 今度は一応、笑ってくれたマシュに直輝が言う。
「ごめんなさい。ちょっと長過ぎましたかね。しかも、最初の空気が重かったから、余計イマイチだったですかね……。」
「いえ、そんなことはありません。家族ネタ、というのはそういう意味だったのですね……。
 わたしはてっきり、つらい思い出を溜め込んでいらっしゃって、それを聞いて欲しいのだと思っていたので、かなり身構えていたのですが……。まさか、最後にオチがつくとは思っていませんでした」
「いや、あんまり面白い話とか言ってハードルを上げたくなくて。マシュさんなら最後まで根気強く聴いてくれるかなぁと思って、このネタにしてみました。」
 そう言って笑う直輝に、マシュもつられて笑ってしまった。
「それで、その後はどうなったのですか?」
「ああ。流石に貯金もギリギリで、脅しじゃなくて出したくてももう出せないって話は何度もしてたんで、その時は完全に突っぱねました。まあ、年度末に間に合えば退学にはならないっていう猶予もあったんで、放置してたんですけど。その後も全然切羽詰まった様子がなくて……。
 結局、年が明けてからまた頼ってきて、額もあまり変わってなかったんで、その時は過去最大に叱って。必死さを見せろ、とか、でも安易な道には逃げるな、とか、具体的なことも含めて色色言って……。
 俺としては必死さはほぼ感じられなかったんですけど、まあ額はある程度減ったので。最終的には最後の一年間を俺に頼らずに学費を払う目途を立てさせて、それを紙に書いて提出させた上で、残り三、四十万くらいだったかな……を出しました。
 で、今はもう就職してるんで、初任給で何万か返して貰った後は、俺はもう家には一銭も入れないから後回しでいいって言って、定期的には返して貰ってないですけど。俺はクレジットカードを持ってないんで、現金払いだと手数料の高い買い物をする時とかに、ちょこちょこ妹に貸してる分から出して貰ったりしてます。そんな感じですかね。」
「……木村さんは、とても優しいのですね」
「俺がですか? 衝動的に人を殺しかねないような奴ですよ、俺は?」
「それは……」
 言葉につまるマシュに、直輝は笑顔のまま言う。
「ごめんなさい。今のはイジワルでしたね。まあ、でもだから、俺は優しくはないです。」
「……そうですね。木村さんはひねくれ者です。身をもって実感しました」
「わかってくれたようで何よりです。なんせ俺は、頭の外側も内側もくるくるぱーの糞天パですから。」
「ふっ! なんですか、それは……」
「俺の持ちネタです。今日一番、笑ってくれましたね。――あっ、じゃああれ! あの竜の絵!」
「あの絵がどうかしたんですか?」
「はい。あれは、俺の母親が大昔に通販で買った風水の竜の絵なんです!」
「……それは、非常にご利益のなさそうな感じがしますが……。ネタとしては、イマイチですね。なんと言うか、蛇足感があります」
「……竜頭蛇尾、ってことですか?」
「それも蛇のことわざですが、それはまた別の……いや、はい。そういうことですね。普通に話しをしていてあの絵の話題になった時に、その話をされたら面白かったかもしれませんが、今のように冗談を連ねた流れで聞かされても笑えるほどには面白くありませんでした。まさしく竜頭蛇尾でした」
「ですよねぇ……。普通に話してていきなり足の生えた蛇の絵を見せられたらちょっと面白くなっちゃうかもしれませんけど、面白いものを見せますよって言われて足の生えた蛇の絵見せられても、よっぽどの絵じゃないと笑えないですもんねぇ……。」
「そんなところです……」
 かくして、一時は直輝の言葉に凍りついたマシュであったが、気づけば場も心もおちついていた。
 親しい者同士、水いらずであればつくものである。

 
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*1:漫画:ここでいう漫画とは、萩原天晴・上原求・新井和也らによるスピンオフ漫画『1日外出録ハンチョウ』のこと。原作は福本伸行による青年漫画『賭博黙示録カイジ』で、原作者も「協力」という形で著者名に名を連ねている。
*2:その防犯ブザー:「第3節 ひとり暮らしにただいま」参照