第21節 優しい復讐者
「……」
自宅マンションの階段で、達也はもう何度もスマートフォンの時計を確認していた。
買い物に行ったブーディカの帰りが遅いのだ。
彼女は、自動車を見るのが辛くて外出を避けるようになった達也に代わって、もう何度もお使いに行っている。今さら道に迷うことも、買い物に難儀することもないはずだった。
それに彼女は、達也の家族に見られないよう、荷物の受け渡しはマンションの階段で行い、部屋には霊体化して出入りしている。入れ違いになるというようなことも普通ならあり得ない。
達也はなんだか胸騒ぎがして、落ち着かなかった。
恋人の、羽斗夢通実の事故の報せを聞いた時の記憶がまざまざとよみがえる。胸騒ぎが止まらない。
「……はぁー」
達也は深く息を吐き出して、なんとか気分を紛らわそうとスマートフォンをいじる。
と言っても、ほとんどのアプリが夢通実のことを思い出させるため、大部分はアンインストールしてしまっている。残されたアプリも最近はほとんど起動していないため、出来ることは限られていた。
「……」
ふと、安倍総理の辞任 に関するネットニュースが達也の目にとまった。
――総理大臣が変わったって、何も変わらない……――
達也は胸の中に渦巻く黒い感情が、誰かに向いてしまうことを恐れるように、スマートフォンの画面を消してその場を離れた。
――ランサー……――
何かとてつもなく悪い予感がする。
右手の“愛怨に燃える車輪の令印”は三画とも健在だが、なにかとてつもない違和感がある。
達也は右手を握りしめ、階段を急ぎ下りていく。そんな達也の耳に、階下からはっきりと声が聞こえた。
「そうなんだ。よかったね」
「うん!」
それは、ブーディカと幼い女の子の楽しそうな話し声だった。達也は声のする方へ向かう。
「ああ、マス、……い、け西君。ごめん、遅くなって」
「いや、構わん……。荷物だけ、預かろう」
「ああ、そうだね。……はい」
ブーディカから荷物を受け取った達也は、まだ完全に収まり切らない動揺を隠すように視線をそらした。
そんな達也に、女の子の母親が控えめな挨拶をする。
「どうも、こんにちは……」
「こんにちはー!」
女の子も達也を見上げ、元気に挨拶する。
達也はその親子と特に交流はなかったが、同じマンションの住人だろうということはすぐにわかった。ブーディカの性格を考えれば、仲良く立ち話をしている経緯もなんとなく想像がつく。
「こんにちは……」
達也は静かに挨拶を返した。ブーディカが、そんな達也を見て微笑む。
それは、とても優しく穏やかな時間だった。
女の子が、無垢な瞳を達也に向けて、無邪気な質問をする。
「おにいちゃん、おねえちゃんのかれしぃ?」
「……」
達也は目を見開き、すぐに女の子たちに背を向けた。
「ちょっと! ――ごめんなさい。この子ったら、変なこと言って」
「えー。なんでー?」
「なんでじゃないの!」
「ああ、そんな。大丈夫ですから、怒らないであげてください。――残念。お兄ちゃんもお姉ちゃんも、それぞれ大切な恋人がいるから、あのお兄ちゃんはお姉ちゃんの彼氏じゃないよ。ただ、とっても仲のいいお友達」
「ふーん。だんじょのゆうじょうもせいりつするんだねー」
「やだ、この子ったら。どこでそんな言葉覚えたの」
ブーディカが笑う。
微笑ましいやり取りを繰り広げる、ブーディカと親子。その輪の外で、達也だけが笑っていなかった。
「……先、戻ってる」
「あっ。うっ、うん。」
「おにいちゃん! ばいばーい!」
「……」
達也は無言で階段に消えていく。
「ねぇ。あのお兄ちゃん、ばいばいいわなかったよぉ?」
「ごっ、ごめんね。お兄ちゃん、今日ちょっと体調悪いみたいで。それで、お姉ちゃんお買い物頼まれてたの」
「あら、ごめんなさい。それなのにお引き止めしちゃって……」
「いえ、全然大丈夫です。暑いから、ちょっとバテちゃったのかな」
「おにいちゃーん! おだいじにー!」
マンションの廊下に女の子の元気な声が響き渡る。
その声は、達也の耳にもしっかりと届いていた。その声は、達也の心を激しく揺さぶった。
――おにいちゃん、おねえちゃんのかれしぃ?――。
無邪気な女の子の悪意のない言葉は、達也の心を残酷なまでに抉っていた。
女の子が悪くないのはわかっている。近所の住人は達也の不幸を知らない。女の子は何も悪くない。そんなことは痛いほどわかっていた。
それでも、達也の心には強い憤りが噴き出していた。抑えられない激情がわいて仕方がなかった。女の子に怒りが向くのを止められなかった。それどころか、女の子たちに愛想よく接していたブーディカにさえ怒りの感情が向いてしまっていた。
―――あの子は、悪くない……――
必死に階段を上りながら、達也は自分に言い聞かせるように心の中でそう言った。
――あの子は、悪くない……。悪いのは……、悪いのは……――
「はぁっ、はぁっ……」
――全部、全部……!――
達也の額に大量の汗が噴いていたのは、決して暑さのせいだけではなかった。
*
人は死んだら生き返らない。
だから命は大切だ。
――幼い頃からそんな風に教わって生きて来た。
Fateシリーズに出てくる万能の願望器“聖杯”でも、完全な死者の蘇生は不可能らしい。
もちろん、この世界はFateの世界じゃないから、世界の法則が全く同じとは限らない。
だとしても、この世界より神秘的な法則が存在しているFateの世界で不可能なことが、Fateの世界の神秘を使ってこの世界でなら可能になるなんて、そんな都合のいい話、きっとないだろう。むしろ、Fateの世界でなら可能なことでも、この世界では不可能になるという方が自然だ。
じゃあ、疑似的な死者の蘇生ならどうだろうか。
それなら、Fateの世界では割りとありふれている。
もちろん、本当にありふれているわけではないだろう。きっと、特異な出来事にスポットを当てた物語としてしかFateの世界を知らない、プレイヤーや視聴者たちにとってはそう見えるだけなんだと思う。
いずれにせよ、この聖杯戦争に勝利して聖杯を手にすれば、既に火葬が終わって肉体すら残っていない夢通実でも、疑似的に生き返らせることが出来る可能性は十分にある。
『Fate/Grand Order』でだって、似たようなことをして特異点まで作り上げた男がいたんだ。この世界でだって、何らかの方法はあってもいいだろう。
でも。既に誰にとっても、法律上でさえも死者になっている夢通実が生き返ったとして、今まで通りの日常生活が送れるだろうか? きっと難しいだろう。
それに、疑似的に生き返った夢通実がどんな特性を得るのかだってわからない。最悪の可能性を考えれば、鏡にも写真にも映らなかったり、太陽光で致命傷を受けてしまったりするような、怪物みたいな体質で蘇ってしまうかもしれない。そこまでいかなくたって、常にどこかが疼くだとか、子供が産めないだとか、そういう体になってしまうかもしれない。
そんな体で勝手に疑似的に生き返らせられて、夢通実は幸せだろうか? 普通に一命をとりとめて、後遺症が残るのとはわけが違う。人知を超えた力で、それも他人の意思で勝手に生き返らせられるのだ。そんなの、俺のエゴでしかないんじゃないだろうか?
しかも、Fateの聖杯は、漠然とした願いでも過程をすっ飛ばして結果を用意してくれる代物だったはずだ。
この聖杯戦争に勝利して得られる聖杯というのがどんなものかはわからないが、その聖杯に夢通実の蘇生を願ったとして、どんな形で叶うのかはわからない。例えば「今まで通りの日常が送れる」という条件を付けて願ったとして、それが無理だった時、なんの断りもなく可能な範囲で願いを叶えられてしまう可能性だって十分あるだろう。
それでもし、夢通実が苦しむことになったら……。そんなの俺のエゴでしかない。いや、エゴですらない。
それに何より、夢通実は生に執着のない女性だった。
いつ死んでもいいなんて言っては、よく俺を怒らせていた……。
それこそ、きっと死の間際に聖杯が手に入ったとしたら、彼女は迷わず「死ぬ前に好きな漫画を最後まで読みたい」とか、そんなことを願うだろう。作品で迷うことはあっても、きっと願いの方向性で迷うことはない。少なくとも死にたくないなんて願わないだろう。
そんな彼女だからこそ、俺は彼女に生きる意味を感じて欲しくて、俺と過ごす中で「生きたい」と思って貰えたらと思って、夢通実と付き合っていた。いつか、自分の人生に、自分の命に価値を感じて貰えたらと、そう思ってたんだ。
もし仮に、今まで通りの日常が送れる状態で生き返らせることができたとしたって、夢通実はそれを望むだろうか? そんなの、俺のエゴなんじゃないだろうか?
そうやって得た命で、一度死んで生き返った夢通実に、自分の人生に、自分の命に価値を感じて貰えるだろうか? 特別な命を得てからそれを感じたとして、それでいいのだろうか?
そもそも、死んだ人間を生き返えらせるだなんて、許される行為だろうか? そんなことをしてしまっていいのだろうか?
何より、夢通実はそんなことを望むだろうか? 単なる俺のエゴなんじゃないだろうか? どうしたら夢通実は幸せになれるだろうか?
どうしたらいいんだ? どうするべきなんだ? どうするのが正解なんだ?
悩んだ。俺は悩んだ。悩む時間だけはいくらでもあった。今は大学が夏休みだし、そもそもコロナでリモート授業や休講も多くて、外出自粛を促されてる今、いくらでも時間があった。自動車を見るのが辛くなった俺は、外に出るのが怖くなってしまった俺は、ほとんど自分の部屋に籠ってずっと悩み続けた。
聖杯戦争の参加者に選ばれる前から、ランサーを召喚する前から、夢通実を生き返らせることが出来るかもしれない状況になる前から、夢通実のことで、たくさん悩んだ。悩んで、悩んで、悩んで、悩んだ。
それで、ふと気づいたんだ。なんでこんなに悩まなくちゃいけないんだって。
だって、夢通実の歳で普通は死なないじゃないか。平均寿命は右肩上がりだし、女性の方が男性よりも長いし、ほとんどの人はこんな若くに死なないじゃないか。
なのに、なのに、なんで夢通実は死んだんだ? なんで夢通実は普通におばちゃんになるまで生きられなかったんだ? なんで俺は、こんなに悩まなくちゃいけないんだ? 苦しまなくちゃいけないんだ?
……でも、それは俺だけじゃない。夢通実の家族も、友達も、苦しんでる。他にも、若くして命を失う人も、割合で見れば少なくても、一人一人で見ればたくさんいるはずだ。理不尽な理由で苦しんでる人は、いくらでもいるんだ。
なんでだ? なんで、理不尽に苦しむ人がいなくちゃならないんだ? なんで? なんでみんなが幸せになれないんだ? なんで? なんでだ?
こんな世界、そんな世界、間違ってる……! そんな世界、こんな世界……、こんな世界……。こんな世界が、俺は許せない。許せない、許せない、許せない、許せない……。
なんでだ? なんでだ!? なんでみんなが幸せになれないんだ!?
夢通実の両親たちは、加害者を恨んで訴訟の準備をしてるらしい。でも、加害者が悪いのか?
俺も、車を運転するのが好きだからわかる。
――ヒヤリハット。
結果的には大きな事故にはならなくても、そういう事故になりかねないような、ヒヤリとしたりハットしたりするような事が、事故の数よりも圧倒的に多く存在していると言われている。
俺も心当たりがある。運転するのが好きだから、たくさんドライブした中で、そういう経験はあった。
実際に自動車事故の原因も、一番多いのは、油断や疲れなんかが原因でのちょっとしたミス、小さな違反らしい。
人間は完璧じゃない。ミスもするし、ズルもする。ミスったとか、仕方がないとか、このくらいはとか……。誰だってそんなの、心当たりがあるはずだ。なのに、加害者が全部悪いのか? 管理者や責任者や、そういう誰かが悪いのか? 人間は完璧じゃないのに? 完璧じゃなかったから悪いのか? そんな人間たくさんいるのに、たまたまそれで大事になったら、そいつは悪者なのか? みんな完璧じゃないのに? 運が悪い奴が悪者なのか?
……俺は夢通実を失って、こんなに辛くて、こんなに辛くて、どうにかなってしまいそうなのに。辛い思いをしてる人が、それで歪んで犯罪者になったら、そいつが悪いのか?
こんなに辛い日々が続いて、平気でいられる方が普通じゃないだろ? 道を踏み外さない方がどうかしてるだろ? そうならない人は立派かもしれないけど、そうじゃない奴は悪いのか? 弱い奴が悪いのか? 全部、そいつが悪いのか? 全部、誰かが悪いのか?
なんで、なんでみんなが幸せになれないんだ?
それは誰かが悪いのか? 誰かの所為なのか? 必ず誰かが悪いのか? 誰かが悪じゃなきゃいけないのか?
そんなの……、そんなのっ……!
誰も、誰も悪くないだろ?
人間は完璧じゃないし、この世界だって完璧じゃないし。
なのに、なのに、誰が悪いって言うんだ? 誰が、誰が悪いんだ? 違うだろ!?
誰も、誰も悪くなんかないだろ?
悪いのは、この世界だ。誰もが幸せになれない、この世界が悪いんだ。
だから、俺は決めたんだ。だから、俺は誓ったんだ。
俺はこの聖杯戦争に必ず勝利する。
そして、この世界に復讐する。
それが、どういうことなのかはわからない。
でも、聖杯は漠然とした願いだって叶えてくれるはずだ。過程はいらない。ただ結果をくれる。明確なビジョンなんていらないんだ。
だったら、そんなことはどうだっていい。
俺は許せない。この世界が許せない! 夢通実が死ななくちゃいけなかったこの世界が許せない! 誰もが幸せになれないこの世界が許せない! そんな世界の在り方が、そんな世界そのものが、そんな世界の全てが俺は許せない!
だから……! だから!
俺はこの世界に、復讐をする。