50歳のリアル② 親父のこと
地震、カミナリ、火事、親父。
怖いのものの例えの一つにある昭和のお父さん。
1942年生まれのうちの親父も、よその家のお父さんと同じように、厳しく怖い存在だった。
高校卒業とともに九州の田舎から出てきて、鉄工所で1年ほど働いたあと、自分の居場所がないことに気がついて、一念発起して大学へ行った。
祖父と大喧嘩して勘当同然で田舎を飛び出した彼は、当然仕送りなどあるはずはなく、いつもお金がなくて腹を空かせていたそうだ。
空腹を満たすために思いついたのが飲食のアルバイト。個人経営の寿司屋で配達や皿洗い、雑用はなんでもやった。
学費と生活費を稼ぐためアルバイトに精を出したが、2年3年と進むうち工学部での研究や授業の負担が重くなり、2年間の留年を経て中退してしまった。
プラスティックという素材の登場に感動した彼は、工学部では新素材の開発に夢を抱き続けたが、夢はここで潰える。
「俺が子供の頃はプラスティクなんて無かったんや。軽くて、丈夫で、低コストで作れる夢の素材やで。俺はもっと進んだ新素材を開発して、BIGマネーを掴むんや」
大学を中退した彼は行く当てもなく各地を彷徨い・・気づけば東京にいた。
「俺に大阪は狭すぎる。いざ帝都へ」とはいえ、東京ではタコ部屋労働、日雇いなど、生きるためにお金になることはなんでもやったそうだ。
だけど、そこにも彼の居場所はない。
ある程度の教養を積んだ人間が馴染めるわけがなかった。
大阪に戻った彼は、以前お世話になった寿司屋の大将に弟子入りを志願して、見習いとして働きだすことになった。
28歳になっていた。
それから4年後、ボクが誕生することになる。
ボクの物心がついた頃には、店を構える経営者になっていた。
とにかくボクが知る親父はよく働いた。
早朝市場の買い付けから始まり、週末は宴会で深夜になることもよくあった。包丁を握り続けた職業病は四十肩、五十肩だと言っては辛そうにした。
仕出しをメインにしたことが功を奏したのか、安定した売上がたって店は繁盛した。2度ほどTV取材を受けた記憶がある。
厳しい経営者としての親父の背中を見て、ボクは育ったのだった。
親父はボクよりもずっと頭がよく、雄弁で、力強く、なよなよした子供だったボクにとってはヒーローだった。
そんな親父が70を過ぎた頃から体調を崩しがちになり、背中の痛みを訴えるようになった。
長年の職業病、五十肩の痛みを和らげるために毎日、背中に鎮痛剤入りの湿布を貼っていたことが発見を遅らせることになった。
胃がんだった。
その当時、転勤で地元を離れていたから、親父の闘病生活を間近で見ていたわけではない。いつも母からの電話だった。
入退院を繰り返して一命を取り留めたが、気づいた頃には、あれだけ饒舌だった親父は人格が真逆に転換されたかのように、寡黙な人間へと変わった。
いつ頃からだろう。
もう10年近く、親父とまともに会話していない。
胃がんを克服してからも糖尿病や高血圧、メニエール病等を併発して薬漬けの毎日。今も20種類以上の薬を毎日飲んでいる。
薬の副作用が思考を低下させているのかどうか、それもわからない。
週に一度だけデイサービスで家を出る他、外出できないほど弱ってはいるが、意識ははっきりとしているのだと母は言う。
こちらが「おはよう」と挨拶すると、「おはよう!!」と、
びっくりするほど大きな声が返ってくるが、その後は一言も発さず黙りこくってしまう。
「元気そうやね」というと、ボクの顔をちらりと見て、ゆっくりと静かにほほ笑む。
挨拶以上の会話が成立したことなど、この10年ほどは一度も無い。
地震、カミナリ、火事、親父。
あれほど厳しく怖かった親父の姿はもう無いのだ。
ボクの知っている親父は、もう10年前にはいなくなっている。
まもなく82歳になる。最近は血色がよく元気そうだ。
そんな親父は今、何を思っているんだろう。
週に一度、訪ねてくる息子の顔を見て、何を思うんだろう。
これが50歳のリアル。
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