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あやしい親戚

Rおじさんに初めて会ったのは僕が9才の頃だった。鹿児島県の海沿いにある、桜島が綺麗に見えることが数少ない取り柄の、父の実家に訪ねてきたのだった。おじさんはまだ40そこそこだったが、髪には既に白いものが混じり、杖をついていた。そして傍らには、かなり歳下の美しい奥さんを連れていた。このとき、父はおじさんを幼馴染の同級生だと紹介した。Rおじさんの実家はもうなかったが、この町で一緒に育ったのだと言った。まだ存命だった祖母とも気安く話していた。

Rおじさんは父と違い、能弁で明るい性格だった。僕が学校で使っていたハーモニカを取り上げると、授業では習わない息や舌の使い方をして、実に巧みに吹いてみせた。一方で、無遠慮な言い方をしたり、他人と極端に間合いを詰めるようなところがあって、子供だった僕でさえ、母や祖母とRおじさんのやりとりを見てそう感じた。

僕が二十歳になり祖母が亡くなったとき、胸に大きなカメラを下げたRおじさんがやってきて、葬儀の間中、写真を撮っていたことがあった。祭壇や供花はもちろん、祖母の遺体や泣いている父を、執拗、という表現がふさわしいくらい撮影していた。

僕は違和感を父に伝えたが、父は大して気にしていないどころか、むしろ好意的に捉えているようなところがあり、Rおじさんから後日送られてきた祖母の亡き骸の写真を、アルバムに貼り付けたりしていた。「アイツは戦争のとき、台湾で育ったからな。すこしだけ、こっちの感覚と違うところがあると思うんだよ…。でもいいやつなんだよ…。」そう言っていた。

そのうち、父もRおじさんも70を超えた。父は鹿児島の海沿いの町に戻り、先祖代々の土地に桜島を臨む小さな家を建てた。Rおじさんが父を訪ねたこともあったそうだが、一緒に酒を呑むとか、泊まっていくことはなく、ごく短い時間の滞在だったと母から聞いた。また、父とRおじさんが実は従兄弟だと言う事をこの頃はじめて聞いて驚いた。

Rおじさんに再び会ったのは父の葬儀だった。
80歳になったいたはずだが、40そこそこでついていたはずの杖はもう持っておらず、例によってカメラを首に下げていた。そしてこれも例によって、父の葬儀を撮影して回った。後日、「旅立ち」と題された父の葬儀の模様をまとめたアルバムが送られてきた、と母が言った。そしてRおじさんがあなたと話したがっている、とも付け加えた。

僕も少しずつRおじさんと話をしたいという気持ちが生まれてきていた。父の葬儀で、父のエピソード…たとえば高校時代に留年した話だとか、就職と転職にまつわる話など…、を聞く機会がありもっと何か聞いてみたい気がしたのと、僕自身が歳を重ね、親戚とのやり取りにかつてほど億劫さを感じなくなっていたというのがその理由だ。

それから何度か電話と手紙でやり取りをすることがあった。何通目かの手紙でおじさんは、体調がすこぶる悪い、もうすぐ死ぬだろうと言い、死んだら魂だけでも鹿児島に帰りたい、とへたくそな桜島の絵を描いてよこした。そうして実際、しばらくしておじさんは亡くなった。

海沿いの鹿児島の家には、しばらく母がひとりで住んでいたが、やがて我々が住む東京に来ることになり、すぐに売るわけではないが、家の中を整理しに何度か通った。

そんなある日、その家の二階の窓を開けて桜島を眺めていたら、Rおじさんの手紙を思い出した。へたくそな桜島の絵には、麓の海岸線の部分に染みのような拙い塊を描いた線があった。

いま見ると、確かに、桜島の手前に小さな島があり、おじさんの書いた塊はこの小島だったのかと確信した。植民地で育ち、故郷ではない街で亡くなったおじさんが焼き付けたかったものは何だったのか、すこしの間、考えた。


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