見出し画像

アミティ・ビレッジ

 彼女に別れを告げられたとき、僕はいつか見た遠い世界の家族を思い出した。ずっと幼い頃、電車の窓から見た、両親と子供が静かに食卓を囲む何の変哲もない光景だ。僕はそれを見たとき強い違和感を感じた。僕と関わりのない世界で誰かが人生を送っていることが、ただただ不思議だった。目の前の彼女もその家族のように僕と関わりのない世界に行ってしまうのだと、そう感じてたまらなく悲しかった。彼女はずるく泣いていて、僕は思ってもないのに幸せになってねと言った。

 彼女は夢があって大阪に来ていた。しばらく今の会社で働いて、お金を貯めたらユニバに就職するんだと彼女は言っていた。私のこと毎日見に来てね、と笑う彼女に、その時はきっと仕事で忙しいよと僕は言った。でもなぜだか本当にそんな未来が来るように思えていた。無邪気になりたいとのを追いかける彼女を近くで見ていたかった。僕の21歳はそんな不可逆な岐路を不本意に通過していた。

 僕は大阪の大学を卒業して東京の企業に就職した。そこで出会った受付の女の子と28の時に結婚し、新婚旅行で久しぶりに関西に行った。仕事が忙しくて近場になってしまったことを申し訳なく思っている僕に、あなたの過ごした場所を私も見たいと妻は言ってくれた。

 朝早くに家を出て、まずユニバに行くことになった。新幹線で新大阪に着き、そこからユニバーサルシティに向かった。到着したのは大体10時ごろだった。左側から回っていき、ジョーズに着いたのは18時ごろだった。
「これは怖くない?」と妻は言った。散々怖いアトラクションに乗ってきたせいで少しばかり疑心暗鬼になっていた。
「1番怖いよ、だって人喰いザメが出てくるんだ」
「作り物でしょ?」
「いや本物だよ」
妻は僕の腕を軽く叩いた。

 40分ほどで僕たちの番が来た。僕たちの席は左側後ろの席だった。ここが1番水がかかるんだ、というと妻は無言で僕をその席に押しやった。全員が席に着いた頃、前の方からとても聞き覚えのある声が聞こえた。少し高くて透き通った声だった。それは紛れもなくあの日別れた彼女の声だった。彼女はキャストとして、アミティビレッジの説明をしていた。サメが現れれば、全力で驚き、最後は銃でそれを倒した。彼女はあの日からも、自分のなりたいものをちゃんと追っていて、今も夢の中にいるんだと思うと、僕はなんだかとても嬉しかった。彼女は最後の挨拶をし、僕は妻と席を立った。少し歩いてから振り返ると、彼女は少し気まずそうに僕を見ていた。僕は彼女に笑って手を振った。  

 僕はまたあの家族を思い出した。彼らも僕と同じように時間を経て、子供たちはきっと大きくなり、夢を追ったり、結婚したりしてるのかもしれない。きっと彼らとも、そして立派なキャストになった彼女とも、これからの人生において交わることはないのかもしれない。それでもどこかで歩いている彼らを思って、僕も懸命に歩こうと、そう思った。
「あのキャストさんよかったね」と妻が言った。
「ジョーズはキャストが決め手なんだよ」と僕は答えた。それは昔、彼女が教えてくれたことだった。そしてそれは本当にその通りだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?