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不登校は病気なのか?

(※)メルマガから来てくださった方は、「今、考えていること」パートよりお読みください。


本日の問い

昨日、以下のYAHOOニュースが挙がっていました。
本日はこちらのニュースをもとに、教育について考えてみましょう!

〈要約〉
島根県出雲市に、日本初の不登校専門クリニック「出雲いいじまクリニック」が開設されました。院長の飯島慶郎さんは、不登校児に対する医療的アプローチの必要性を感じ、2018年に開業。自身の子どもも不登校を経験した飯島さんは、「不登校は医療の対象であり、社会全体でサポートする必要がある」と強調しています。不登校児は精神的な問題を抱えるケースが多く、医療と心理的なサポートが不可欠です。飯島さんは今後、全国各地に不登校専門クリニックを設立し、社会全体で不登校児を支える仕組みを構築することを目指しています。

「不登校は医療の対象であり、社会全体でサポートする必要がある」

この飯島さんの意見に対し、あなたはどう感じるでしょうか?

「その通りだ!」
「これはおかしいんじゃないか?」

など、きっとあなたなりの感じ方があると思います。

こうした自分なりの意見を持つ時に大切にしたいのは、「“よい教育”の定義をもとに、条件解明的に思考する」ということです。

何か意見を持つ時に私たちは二項対立で問いを捉えてしまいがちですが、より大切なのは「Aって観点だったらこれは大切で、Bって観点だとこれがよくないかな」などという切り口で物事をとらえることです。


このYAHOOニュースは、8/19午前中時点で賛否ある790件のコメントで溢れています。
いろいろな観点(立場)から投稿されているこのコメントを見るだけでも、きっと条件解明的に思考する習慣を身につけるための大切な時間になります。

ということで、本日の問いは以下です。

☆本日の問い☆
「不登校は医療の対象であり、社会全体でサポートする必要がある」という意見は、どんな観点では“よい”と言えて、どんな観点では“よくない”と言えるんだろう?

不登校を「医療の対象」だと捉えることによる、自由・自由の相互承認の実質化という観点での“よい”といえる側面はあるでしょう。(救われる人が0人ということはきっとないのだと思います。)

ですがその一方で、「学校に行かない/行けない」こと自体を問題とし、医療の対象とするという私たち大人の姿は、本当にこども達に見せていきたい姿なのでしょうか?

少し時間をとって、ぜひあなたなりの考えを深めていただけますと幸いです。

考えてみたパート

その前にいつもの注釈

このnoteは、僕の配信しているメルマガのおまけパートです。

メルマガの大切にしていることから考えると、言ってしまえばこれ以降の文章は蛇足です。

ここからは、ただ僕自身が書きたいことを綴ります。
気の向くままに言葉を綴っていきますので、よろしければお付き合いください。

〈いつもの注釈 : メルマガで大切にしていること〉
“よい教育”について考える時、「問いを立てるという行為」にこそ価値があります。
AIなどの発展により、「問い」があれば「答え」を見つけてくれる存在が私たち人間のすぐそばに現れました。今はまだ「答え」が不正確なこともあるかもしれませんが、この精度はどんどん高まっていくでしょう。そして近い未来にはまるで「ドラえもん」のように、私たちの欲求を叶えてくれる存在になっていくでしょう。

このような未来を想像する時、人間にとって大切なのは「そもそもの問いを見つけること」だということが分かります。「自身の欲求に向き合い問いを見つけること」こそ人間にできることであり、人間にとって自由に生きる営みの土台となるものです。問いが見つかれば、あとは「ドラえもん」と一緒にその問いと向き合い、つくりたい未来をつくっていくことができます。

のび太のように、「助けてドラえもん!」「〜したいよドラえもん!」と表現できる存在。
そんな存在こそ、きっとこれから求められる人間像です。
これは社会的にという観点でもそうですし、一人ひとりが自由に生きていくためという観点に立っても北極星となる人間像だと思います。

この「求められる人間像」を踏まえ、本noteでは「仮の問い」を発信するにとどめています。「仮の問い」から、ぜひ「あなただけの問い」を発展をさせてください。そして「あなたのつくった問い」から、素敵な未来をぜひつくっていってください!

そんな風に、当メルマガをつかっていただけますと幸いです。素敵な物語があなたを起点に紡がれていくことを、私自身心から願っています。

今、考えていること

条件解明的に考えた時、自身の医療関連の解像度の低さを実感している。

不登校は「医療の対象」だと捉えることによる、自由・自由の相互承認の実質化という観点での“よい”といえる側面はあるでしょう。(救われる人が0人ということはきっとないのだと思います。)

とは書いているけど、本当はもっとよい点があるのだろう。
考えることもできるけど、そこからでた意見は「背景を無視した薄っぺらいものになってしまう」という感覚がある。「医療的介入が過剰になると、こどもの意志や自己決定が尊重されない場合が多くなり、その結果個々の〈自由〉が制約されるのでは…」など、考えたりもするけど、実際はわからない。考えるために知識の枠組みが弱い。

もっと教育に関する知見を深めていきたいな…なんて考えながら、「消費社会」について頭が考えだす。
今の消費社会では、いわゆるサービス提供者が「消費者の需要」を喚起する。と考えるならば、僕の言葉も含め、ただのポジショントークに思えてくる。僕たちは「記号」を無意識に消費している。

このニュースにおける記号ってなんなんだろうか?「不登校 = 病気」は、わかりやすい記号。この記号から消費を喚起することもできるし、この記号を否定することでもまた、消費を喚起することもできる。

「こどもの欲求を大切にした関わりが大事だよ!」って思っていても、その子の欲求が「記号」を起点にしたものの可能性は大いにある。(よし、あしとかは関係なく。)

そこに向き合っている僕たち大人もきっと無意識に「記号」を消費しているし、その在り方こそが「こどもにとっての記号」の形成に少なからず影響を与えているとも思える。そんな私たち人間が、今の消費社会をつくっている。ここ、ループになってる。

これ、明日のテーマにしたいなって思ったり。
「記号の消費」に向き合うって考えると、自分が大切にしているものについてのメタ認知も働きやすくなる。
一旦、自分の中で試してみようって思う。
今僕は、何を消費しているのかって。


さいごに

本日もnoteをお読みくださりありがとうございました!
ではまた、お会いしましょう!

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