不登校は病気なのか?
(※)メルマガから来てくださった方は、「今、考えていること」パートよりお読みください。
本日の問い
昨日、以下のYAHOOニュースが挙がっていました。
本日はこちらのニュースをもとに、教育について考えてみましょう!
「不登校は医療の対象であり、社会全体でサポートする必要がある」
この飯島さんの意見に対し、あなたはどう感じるでしょうか?
「その通りだ!」
「これはおかしいんじゃないか?」
など、きっとあなたなりの感じ方があると思います。
こうした自分なりの意見を持つ時に大切にしたいのは、「“よい教育”の定義をもとに、条件解明的に思考する」ということです。
何か意見を持つ時に私たちは二項対立で問いを捉えてしまいがちですが、より大切なのは「Aって観点だったらこれは大切で、Bって観点だとこれがよくないかな」などという切り口で物事をとらえることです。
このYAHOOニュースは、8/19午前中時点で賛否ある790件のコメントで溢れています。
いろいろな観点(立場)から投稿されているこのコメントを見るだけでも、きっと条件解明的に思考する習慣を身につけるための大切な時間になります。
ということで、本日の問いは以下です。
不登校を「医療の対象」だと捉えることによる、自由・自由の相互承認の実質化という観点での“よい”といえる側面はあるでしょう。(救われる人が0人ということはきっとないのだと思います。)
ですがその一方で、「学校に行かない/行けない」こと自体を問題とし、医療の対象とするという私たち大人の姿は、本当にこども達に見せていきたい姿なのでしょうか?
少し時間をとって、ぜひあなたなりの考えを深めていただけますと幸いです。
考えてみたパート
その前にいつもの注釈
このnoteは、僕の配信しているメルマガのおまけパートです。
メルマガの大切にしていることから考えると、言ってしまえばこれ以降の文章は蛇足です。
ここからは、ただ僕自身が書きたいことを綴ります。
気の向くままに言葉を綴っていきますので、よろしければお付き合いください。
今、考えていること
条件解明的に考えた時、自身の医療関連の解像度の低さを実感している。
とは書いているけど、本当はもっとよい点があるのだろう。
考えることもできるけど、そこからでた意見は「背景を無視した薄っぺらいものになってしまう」という感覚がある。「医療的介入が過剰になると、こどもの意志や自己決定が尊重されない場合が多くなり、その結果個々の〈自由〉が制約されるのでは…」など、考えたりもするけど、実際はわからない。考えるために知識の枠組みが弱い。
もっと教育に関する知見を深めていきたいな…なんて考えながら、「消費社会」について頭が考えだす。
今の消費社会では、いわゆるサービス提供者が「消費者の需要」を喚起する。と考えるならば、僕の言葉も含め、ただのポジショントークに思えてくる。僕たちは「記号」を無意識に消費している。
このニュースにおける記号ってなんなんだろうか?「不登校 = 病気」は、わかりやすい記号。この記号から消費を喚起することもできるし、この記号を否定することでもまた、消費を喚起することもできる。
「こどもの欲求を大切にした関わりが大事だよ!」って思っていても、その子の欲求が「記号」を起点にしたものの可能性は大いにある。(よし、あしとかは関係なく。)
そこに向き合っている僕たち大人もきっと無意識に「記号」を消費しているし、その在り方こそが「こどもにとっての記号」の形成に少なからず影響を与えているとも思える。そんな私たち人間が、今の消費社会をつくっている。ここ、ループになってる。
これ、明日のテーマにしたいなって思ったり。
「記号の消費」に向き合うって考えると、自分が大切にしているものについてのメタ認知も働きやすくなる。
一旦、自分の中で試してみようって思う。
今僕は、何を消費しているのかって。
さいごに
本日もnoteをお読みくださりありがとうございました!
ではまた、お会いしましょう!
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