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日記 椅子は人数分あれば足りてる

2019/05/24

 5月下旬になった。
信じられないくらい暑い!氷とアイスばかり口に入れる。

今日の日記だけど昨日の話をする。

 昨日は2限始まりの曜日だった。この時間帯、恐ろしい日差しを日傘で遮断しても道中にある"白い何か"からの照り返しで目が潰れる。
さらに、最寄り駅から教室にたどり着くまでの約15分の登山で体の内側が融解して蒸発していく。家の周りで度々見かけるカエルの干からびた死骸が頭に浮かぶ。
 カスカスカラカラの干からびた状態で授業を受けたく無い。とりあえず購買でアイスボックスとソルティライチを買う。
そして、アイスボックスとソルティライチを合体させて飲む。復活する。
 効果の効き目が凄いので慎重に飲む様に。もし、アイスに罪悪感を感じる人がいたらタンブラーを持参すれば解決するだろう。見た目は大事。

以上、終了。

日差しと暑さに弱すぎる私にとって厳しい季節が来てしまったのだ。

 この時期に使う時候の挨拶では 薄暑の候、さわやか、過ごしやすい、夏への移ろいを感じる季節 等の表現が使われているらしい。 以下参考サイト

 いやしかし近年は気候の変動が大きいから、季節の速度が変わっている風に感じる。もう少し先の日本の季節は夏と雨季と冬の三季になっていたりして。

 毎年毎シーズン変わるたびにニュースで、日本の異常気象、過去最高気温、記録的豪雨、昨年のn倍の花粉飛散の声とテロップが流れている気がする。
 こういう異常気象と呼ばれるものは、たしか環境問題と深く関連している。気温と環境問題の話を小学校の社会の教科書で見た記憶がある。
環境問題にも様々な種類があって、引き起こす原因も色々あったと記憶しているけど、工場から有害物質が流れ出るみたいなのが多かった気がする。それから、日本で四大公害が起こった時代は終戦後の復興による産業の発展が盛んだった高度経済成長期だったはず。
 
 自分たちは常に目に見える問題にしか気付けないけど、目に見えない問題もあるし、そういうのに限って放置したらマズいことになる。
いつか地球の環境が変わってきているのが原因で、深海に住む怪物がキレてシン・ゴジラみたいに陸に上がってきて暴れまわったりしたらめっちゃ怖いな。よくわからないことを架空の生き物とかに全部丸投げしたくなる気持ちが今少しわかった。

 そういえば、星新一のショートショート『ボッコちゃん』の中に「穴」という話がある。人間ってこういうとこあるよな〜って描写があったり、話の意味に気付くとゾクっとする面白いお話だ。
また、出版された時代背景がこちらも高度経済成長期なのだ。そして本が出版された数年後には四大公害が起こっている。すごい皮肉!

 私は星新一がどんな人間なのか知らない。だから、星新一が「穴」に当時の日本の取り組みに対して冷ややかに思うメッセージを込めているのか、今は姿の見えない大きな問題が未来の世界に起こって激ヤバプラネットになってしまうのではないかと危惧するメッセージ、当時の人々に人間には世界を動かす力を持っている代わりに責任やそれ以上のリスクを抱えてもいるのだというメッセージを伝えようとしているのか、自由に考察するけど実際のところはわからない。
 だけど、あの前向きな時代に未来へ希望を馳せる話ではなく、世界の問題は人間が引き起こしているのだ(人間が関与しているという意味で)というニュアンスを含んだ話を書いた人間がいることにす語彙〜!【意味:すごすぎて自分の語彙力消える】と思った。

 少し話が逸れた。(少し、?)

 要は「何かをつくるということは、良い結果を生みだすだけでなく、また何かの問題やリスクを生む可能性がある」ということを私は感じる。
 ポール・グレアム『画家とハッカー』にも社会と技術に触れた内容が書いてあったけど、これ以上の話の脱線は私が許さない。日記で2000字を越えたくない。

 自分の部屋、中学生の時に壁に黒の油性マジックで落書きをした。未だに視界の端に入るとデカイ虫に見間違える。こんなことが起こるとは。

 父親が日曜大工でつくる木製の椅子と足置き、邪魔。残酷な言い方だけど、何故か父は木の椅子と足置きをつくることをやめない。だから不必要の態度を取らなければ木の椅子と足置きが増えてしまう。
椅子以外も作ったり修理したりしているけど、ガレージにいる時は木の椅子と足置きを作っていることが圧倒的に多い。私は自分の部屋の椅子が欲しいけどIKEAで買って自分で組み立てるつもりだ。

 なかなか先に起こる問題を予想して回避することは難しい。だけど木の椅子と足置きはもう十分以上に足りている。家は小さく、座る人は3人しかいないというのに。足をぶつけるとかなり痛い。私も母も椅子か足置きかわからん台をつくるなというオーラを出している。
ヘッダー画像を見ればわかるだろう、今日もガレージで何かやっていた。椅子かもしれない。

 この日記、一体なんの話をしているのかよくわからなくなってしまったけど、何かをつくる時に人を意識するようにした方がいい、みたいなことを言えばそれらしく話を終わらせることができるのではないだろうか?
日記だから許されるというのが救済ワードだ。

 このエッセイもどきの日記を読んだ人は、くれぐれも木の椅子と足置きの作りすぎはしないように。椅子を沢山作りたい人は部屋数の多い広い家に住むことを勧めておく。