「金曜の私にふれる読書会」を終えて
はじめに
6月から新しい試みである、「金曜の私にふれる読書会」を開催しました。
伊藤亜紗さんの著書「手の倫理」を通じて、触覚の豊かさを知ることができました。
私の中には、まとまらない言葉が渦巻いているのかもしれない。そして、それを人に伝えることも必要なのかもしれない。
これからが始まりのなのかもしれないと。
触覚を通じて感じた自分の中にあるまだ知らない未知の感覚。
その気づきの過程を書き綴っておきたいなと思います。
心に残っていること
一番気になったのは、終わったあとの満ち満ちた感覚でした。
これは一体なんなんだろう?
安心して「私はこう感じた。」と言える場だからだったのでしょうか。
私はメジャーなものも好きなのですが、一方でけっこう人と違うと感じることも多く圧倒的な少数派になることがあります。
勝手に疎外感を感じてしまったり、この相反する自分に混乱します。
自分が自分をわかっていないのでしょう。最近でこそ、そのすべてが自分なんだと思えるようになった気がします。
自分を構成する要素ってたくさんあって、ひとつひとつ、容量もかたちも違う気がしています。
今回読書会を通じて、そのうちの一つが溢れるほどに満ちた感じがしました。
知的好奇心が満たされるのか?
新しい自分に出会う感覚なのか?
何か謎が解明されていくような心地よさがあります。これがこの読書会のタイトルである「私にふれる」ということ、なのかもしれません。
本を読むことについて
実は私は本を読みたいけれど、読めないことが多いです。本を読んでいてもいまいち活字が入ってこないのです。脳があんまり動かない。動かしたくても動かない。読んでいるのに読めていない。
読むというより、そこにあるエネルギーを必死に感じ取ろうとしていた感じがします。そして、人をリアルに感じられる距離感で、リアリティのある言葉を感じることで、自分に必要なエネルギーを拾いながらパズルを埋めてくように自分を認識していくように感じました。
お店でも取り扱っている手仕事を通じて、触覚から感じとって動く「何か」。その「何か」は得体が知れず、なぜ惹かれるのかもわからなかったのです。織りを実際にやることでそこを感じ取ろうとしていた気がしますが、途方もない作業。
今までは想像することしかできなかったけれど、他者と触覚について話すことで、その輪郭がぼんやりと見えてきました。そして、それは未知の自分の輪郭でもあるのです。
他者の触覚
触覚とはとても主観的な感覚で、その人にならない限り、その微細な違いや感触は感じられないでしょう。
でも、なぜか知りたい。私は人の感覚や感情というものがすごく好きなのかもしれないなぁと思いました。
けれど、今まで信頼している相手とさえ、細かいニュアンスで触覚の話をしたことはなかったように思います。
今回の読書会は、そんな未知との出会い。話さない限り知り得ることのない、みなさんの触覚の断片を見せてもらったような気がしています。
本のタイトルに「倫理」とついてるように、触覚には、羞恥心や危うさというものが付随しています。
ただ、そんな危うさのあることさえも、冷静に話せる時間でした。この回数がもっと重なれば、もっと普段話せないことを話せる気がしてきます。
ただ、思ったこと、感じたことを話す。他者の少し心の奥の入口にふれるような気がして、それぞれの人間が存在しているという不思議な安心感を感じることができました。
改めて、金曜の夜、こんなに豊かな時間を共にしてくださった皆さんに感謝です。ありがとうございました。
また8月にも企画をしています。
次は鷲田清一さんの著書「「待つ」ということ」を読みます。
どんな変化が訪れるのか、楽しみで仕方ありません。
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