無敵の仮面ライダー
※この記事はネタバレを含みます。映画未見の方は、読むのをご遠慮いただくよう願います。
お久しぶりしか言ってないな、片山順一です。
シン・仮面ライダーを見てきました。
この映画は賛否両論になっているようです。
そして私もそう思いました。いえ、私の中で確実に賛否両論だったんです。
仮面ライダーとの出会い
少々、思い出話にお付き合いください。
この記事でも書きましたが、私と仮面ライダーの出会いは、六歳か七歳のころです。小学校の夏休みにやっていた再放送でした。1994年か1993年。その頃の毎日放送では、午前中に初代の『仮面ライダー』を再放送していたと記憶しています。今調べると、おそらく第72話『吸血モスキラス対仮面ライダー』というお話だったようです。
確か、私と同い年くらいの少年が両親と離れて山の中に迷い込んだところでした。歩いていると、怪人に追われた青年が森の中から取り乱した様子で現れるのです。
助けてくれー!とものすごい形相で叫ぶ青年に怪人が追いつき、白骨化するまで血を吸って、あっという間に殺してしまいます。
少年も、なすすべがありません。見られた怪人は少年をも手にかけようとします。
そこに、仮面ライダーが現れるのです。
子供からすれば力も強く、頼もしくも思える大人の青年をなすすべもなく殺した怪人。理解不能な桁違いのバケモノです。ほとんど災害や事故といっても過言ではありません。
ですが、仮面ライダーはそんな怪物に立ち向かい、戦って退けてしまうのです。
雄々しい掛け声とともに繰り出される拳や蹴り、炸裂するような効果音。その力強さ、そして目に焼き付く異形ながら凛々しい姿。
人間を殺す怪物と命がけで戦い、自由と平和を守る“正義のマスク”。それこそが、まぎれもなく私の仮面ライダーという体験だったのです。
『とう! ライダーキック!』が、ない仮面ライダー
そんな、仮面ライダーとしてのヒロイックな側面が、この映画においては描かれるのか。“昭和ライダー”と呼ばれた旧シリーズでは、製作にかかわったスタッフの方たちからも、子供たちのためのヒーローを作るという誇りが感じられました。世代的に間違いなく最初の仮面ライダーファンであろう庵野監督ならばきっと――という思いを私は持っていました。
この混とんとした世界と現代に力強く挑み、忘れられようとしている人間の自由と平和のために戦う、新しい仮面ライダーというヒーロー像が提示される、なんて。
でも、実のところ、多分そうじゃないだろうなあ、とも思っていました。
そんなことが出来るやつなんて居ないし、そんな奴を心から信じている人もいないというのが、現代だからです。
実際問題、これを読んでおられる方々にとって、魂が殺されるような残酷な経験の最中、誰か助けに来てくれたことがあったでしょうか?
そもそも、故石ノ森章太郎が萬画で描いた仮面ライダーは、正義のヒーロー一辺倒なんかじゃなかったんだから。
だけど、そうあってほしいとどこかで考えていました。最強最高最善、37歳の大人が少年のころに見たヒーローに感じた安心感を取り戻させてくれるような、なにかを。
それなのに、描かれた仮面ライダーはそうではなかった。でも、その姿にはあまりにも現代に通ずる説得力があった。
だから私の中でこの作品は、賛否両論なのです。そうして、想像力のない私は、見た人みんなに自分の考えを適用します。だからきっと、この映画は賛否両論になるという、雑な一般化を口走ってしまうのです。
シン・ウルトラマンでもそうだったのですが、庵野監督という方は、アニメや特撮を描きながら、現代の現実を描くことに力を入れているように思います。私の解釈では、シン・ウルトラマンで描かれていたのは、現代のオタク達が真なる危機を前にした時の姿でした。
ある者は命がけで戦い挑み、ある者は格好をつけて自分を守りながら逃げ出し、ある者は挑む者を助ける。確かそんなような考察だったと思います。
ではこの、シン・仮面ライダーでは誰が描かれているのか。それは、人間を信じられない孤独な人間たち、俗にいう“無敵の人”に近い者たちです。
私の中の無敵の定義
かのひろゆき氏は、無敵の人に関する有名な定義をしているようですが。
私の中で、無敵とは、≒孤独です。
もっというと、人間と社会に頑なな態度を取り続けて、それゆえに人を信頼できない、健全な人間関係を築くことができない人を、私は無敵の人だと思っています。
絶対に~が悪い、絶対に~が良い、あるいは人間は自分を利用して消費してくる最低最悪の醜悪な生物と思っている。あるいは、その逆で自分にとっていいことをなんでもやってくれる、最高最善の最も美しく尊重されるべき生物、とかなんとか。
とにもかくにも、迷惑なほどに頑なな信念を絶対に崩さず、人間関係を断絶させる孤独な何者かになってしまって、もはや戻れないし戻るつもりもない人というのが、私の中の無敵の人なのです。
そのままやけくそになって社会を破壊しにかかるかどうかは、あまり関係ありません。そんなことをせず、上記のような精神状態のままで、ある程度お金のある正常な社会人に“偽装”していれば、私の中では無敵の人です。
そして、罪を犯していない人は、善良な市民です。年収が多く、比例して税金も多ければ、きっと模範的な国民でもあるでしょうね。これは単に私の定義上ですけど。
現代資本主義社会とは、べつに無敵の人でも生きていける社会のことなのです。
だからこそ、ひろゆき氏のいう『無敵の人』の犯罪が防ぎにくいとも言えますけれど。
だって、何かをやる『無敵の人』と、やるつもりのない『無敵の人』をどうやって分けるっていうんだ、ということになるわけですね。
あちこち無敵の人だらけなんだから。
ショッカーという『無敵』の集団
この映画のショッカーは、べつに世界征服を狙っているわけではありません。昔のやつのように、世界中の人間を脳改造して自分の支配下にしたいとも思っていません。
その目的は、すごい金持ちが作ったすごいAIが出した人間にとっての幸福な結論の実行。つまり、絶望して孤独になった(この文章での私の定義では『無敵の人』となった)人間に力を与え、彼らの持つ心の奥底の願いを叶える。ただそれだけです。
ショッカーに力を与えられた改造人間である『オルグ』たちは、それぞれの願いを叶えるべく邁進します。これだけだと、なんだか戦う必要のないやつらにも見えますが、彼らの目的は控えめに言って無敵の人によるローンウルフ型のテロリズムそのものなのです。
殺人ウイルスを作ってばらまこうとしたり、女軍隊と毒ガスで大量殺戮の世直しをやろうとしたり、全員洗脳都市を作ったり、果ては人類補完計画モドキをやらかそうとしたり。
こんなの放っておけるわけがありません。だから、仮面ライダーの出番、という構図になるんですね。
仮面ライダーもまた『無敵』
本作における仮面ライダー、本郷猛もまた、そんなショッカーに改造された怪人バッタオルグです。もっとも彼の場合は特に改造される望みはなく、ショッカーに下ったわけでもありません。
自らの境遇に絶望して力を望んではいましたが、怪人になりたかったわけでもないのです。彼はショッカーを抜けたい緑川博士によって勝手に改造されてしまいます。そして戸惑いながらも、自分を改造した緑川博士と、自分をショッカーから逃がした緑川ルリ子の望みをかなえるために、日本政府のエージェントたちと共にショッカーと戦うことになるのです。
“無敵の人”による“無敵の人”殺し
冒頭、一番最初の戦闘で、仮面ライダーはクモオーグの部下の戦闘員たちと戦います。圧巻なのは、その攻撃の威力でした。ただの拳、ただの蹴り。改造を施され人知を超えたその力は相手の骨を砕き、肉をつぶして瞬く間に返り血に染まっていくのです。
「とう!」という掛け声も、「ライダー、変身!」もなく、向かってくる戦闘員たちを文字通りの肉塊に変貌させる、おぞましい戦闘マシーン。少年の味方どころか、成長途上の精神の柔らかい児童に、決して見せてはいけない存在。
それがシン・仮面ライダーの第一印象でした。
このおぞましさは、仮面ライダーの裏モチーフでもあった、“同族殺し”の比喩でもあると思います。
じつは昔の仮面ライダーでも、仮面ライダーとなる本郷猛は、脳改造前に逃げ出せただけの改造人間、“バッタ男”でした。悪意をもっていえば、そのバッタ男が、正義ぶって同族であるショッカーの改造人間と戦うという構図でした。
それは人ではなくなった生物兵器が、自由と平和という大義名分があるとはいえ、同じ生物兵器を次々に殺していくというおぞましい蟲毒ともいえるのです。
言ってしまえばライダーの戦いは、「とう! ライダーキック!」なんて言っていられる正義の戦いであるはずがないのです。でもそんなものは、全国のテレビで流せる子供のヒーロー番組ではありえない。だからテレビ版仮面ライダーは、人間の自由と平和のために戦う正義のヒーローでした。
国民的に有名な“ヒーロー番組”である仮面ライダーにおいて殺された、裏テーマである同族殺しという要素。それが本作においては、たまたま改造されバッタ男になった、絶望を抱える無職のバイク乗り本郷猛という無敵の人。そしてそれぞれの絶望をそれぞれの手段で社会と人間にたたきつけてくるショッカーのオルグたちという無敵の人。その二者の同族殺しの物語として復活しているのです。
だからこの映画において、おぞましい殺戮と破壊を行う仮面ライダーの両手足は血に染まり、決して砕けなかった正義の仮面は壊れ、醜い顔から血を吐き出すのです。
孤独にまみれた登場人物たち
この映画においては、オルグたちだけでなく、登場するあらゆる人が孤独、つまり“無敵”といえると私は考えます。
父を失い、兄との間に絶望的な断絶を抱え、組織を裏切って誰も信じられない状態から始まる緑川ルリ子。
口にした旧作へのオマージュじみた苗字すらも、果たして本名が疑わしい滝と立花。(たとえば現実の日本警察において一部の危険な事件に対応する特殊急襲部隊員は、ふだんは家族や同僚すらもその正体を知らない別の階級役職の警察官だそうです。それよりはるかに高等な治安維持任務を抱えた彼らが、まともな身分のはずがない。つまり信頼できるだれかと任務の辛さ苦しさを、誰かと分かち合えるとは考えにくいでしょう。)
あるいは、どこか虚無を抱えた明るいジャーナリスト、仮面ライダー二号こと一文字でさえも、絶望を感じないためにショッカーの改造人間になっていました。作中で詳細は語られませんでしたが、その絶望の深さは洗脳が解かれて覆い隠していたなにかが溢れたときの慟哭で十分ではないでしょうか。
自分の人生、絶望という経験を、この作品の主要登場人物たちは、決して誰とも分かち合えないのです。つまり誰も信じられず頼れない孤独、私のいう“無敵”ということです。
孤独な彼らは、誰にも顧みられません。ショッカーのすべての改造人間は、機密保持のために死亡すると泡となって跡形もなく消えますが、まるで社会と人間を見捨てあげくセルフネグレクトに陥って孤独死した者の住居が、いつの間にか清掃され、建て替えられ、誰が何をした場所なのだか分からなくなる。そうやって、全て忘れられていくこの社会のようではありませんか。
無敵の闘争の果て
私が作中で最も好きなセリフは、立花からルリ子を失った本郷へのものです。
『お前が感じる絶望くらいは、誰もが抱えている。だがその絶望の乗り越え方が一人一人違う』
うろ覚えで申し訳ありませんが、趣旨は異なっていないはずです。
同じ孤独を抱えて、ようやく信頼し合うことができたルリ子を失った本郷に、かつて仮面ライダーを支えたおやっさんと同じ苗字を名乗る男が、かけた言葉。
それが、本作において絶望のままに他者を加害するショッカーの改造人間と、仮面ライダーの違いといえるのでしょう。
ルリ子を失った本郷は信じていた彼女の意思を継ぎ、また同じく孤独な一文字と協力してルリ子の兄こと仮面ライダーゼロ号との戦いへと赴きます。そして自らも泡と消えながらも、そのプラーナは彼を信じた一文字の仮面の中に宿っていくのです。
決戦の果て、もはや本郷も、本郷の命がけの説得に仮面を脱した一郎も、自らの絶望と願いに溺れた“バッタオルグ”と“チョウオルグ”ではありませんでした。二人はお互いを認め合いながらも、泡となって消えていきます。
彼らは死して無敵のオルグを脱した。それは、Kという人ならぬAIにすら理解できるこの物語の一つの結末だったのです。ショッカーのオルグの死に花を手向けていたKが、彼らの死には胸の花を増やしませんでした。
“ロンリー仮面ライダー”
まことに、何も信じられなくなった無敵の人が孤独を脱するには、無敵の原因の絶望を乗り越え、誰かを信じ、命がけで生きて、心を託すほかないのです。
これを読んでいる方々には、他者に伝えられない悲惨な絶望があるでしょうか。秩序ある社会は、一定以上の許容量を超えた絶望が存在することを許しません。だから自分の絶望ばかり見つめる人は孤独になるしかありません。どれほど悲惨でもです。そして、それでも生きていけるし、むしろその方が権力や資金など人を支配するための何かを得やすい面すらあります。
不当ですね。理不尽ですね。しかし、想像できる程度のすべてのことはあるのです。
殺人、略奪、レイプ、その他あらゆる誰も見たくない人間性の残酷な破壊。この混とんとした愚かしい人間社会のただなかで、今この時も作られる“普通”の社会の許容量を超えた絶望は厳然とあります。
あるいは、それほどの大事でもないのに、それほどの絶望に感じられてしまうという、生きにくい厄介な人格も。感じ方の違いによって、同じく社会が許容できないほど膨れ上がってしまった、その人がその人であるがゆえの絶望と孤独も。
普通の人が見たくない暗闇は、今この時も増え続け、孤独は倍増し、無敵の人は際限なく増殖していくに違いありません。彼らにオルグの力を与える何らかの技術が存在し続ける限り、ショッカーは決して終わらないのです。
彼らの凶行をとどめ、社会の平穏を守り抜くためには、同じ絶望と孤独にまみれた無敵の戦士が、シン・仮面ライダーこそが必要なのです。
だから一文字こと仮面ライダー二号は、今日も本郷やルリ子のプラーナと共に、サイクロンの風を感じるのでしょう。
そして、同じ無敵のオルグ達めがけて、真っ赤に染まる拳と蹴りで戦っているのです。
一見の平和、治安の安定、みんな幸せ。
そうやって絶望を嫌うこの世界では、許容量を超えた絶望は別のレイヤーに存在します。ハチオルグに洗脳された人が無傷で正気に返れたように、無敵の絶望が平和を侵食しないためには、絶望の中で絶望と戦う仮面ライダーが必要なのです。
誰よりも孤独で、それゆえにこそ誰よりも絶望と孤独を理解できる、同族殺しのヒーローが、きっと今日も、世界のどこかで戦っているのでしょう。
あるいは、皆さんのすぐ隣か、皆さん自身がそのようなヒーローなのかもしれません。
だから、絶望と孤独のただなかにあって、シン・仮面ライダーはあまりにも尊く映るのでしょう。この令和の冷たい世の”正義と力のマスク”は、何度壊されても再生され、誰かの心に受け継がれていくのです。
孤独に戦う、仮面ライダーの名の下に。
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