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本の編集者だけど、特に本が好きなわけではない

こんばんは、ミナミノマリコです。

仕事について質問されて「本の編集」と答えると、よく「読書が好きなんだね」と言われることがあります。

私はその度に、ちょっと申し訳ないような、居心地の悪いような気持ちが、多少なりともしてしまいます。

これは、ほかの編集者の方に非難される覚悟で言いますが、正直なところ、私は「特に本が好きなわけではない」からです。

もちろん、この仕事をする以上、日頃から本に触れる機会は多くありますし、日常的に書店に足を運びます。自然と、本という存在に愛着がわくようにもなりました。

それでも読書の半分は、仕事として必要に迫られて行なっています。


私が編集の仕事を選ぶのは、「本好き」というよりも「まとめる作業」「書く作業」に、多少なりとも適正を感じたからです。

もちろん、本好きであることは、編集者にとって大きな武器だと思います。でも、私のように「本(完成物)」そのものではなく「作業(制作の過程)」として、編集を選ぶひねくれタイプ?もいるのです。

今回は、そんな「適正」について、自分のエピソードを交えつつお話したいと思います。

自由研究が好きな子どもだった

小学校時代は、秀でて何かが得意な子どもではありませんでした。そんな私が唯一、人よりも得意だと思えた数少ないものの1つが、夏の「自由研究」でした。

自由研究のテーマは、毎年、だれよりも地味で地道なものでした。

小3の時は、近所のスーパーマーケット10店舗を回って全果物の原産地をひたすらまとめました。小4の時は、自分の住む街の1〜4丁目までの自動販売機をすべて回り、全メーカーをまとめました(結果、私を何を調べてたのか覚えてないのですが…笑)。

研究のクオリティは別として、何かひとつのテーマを掘り下げて自分なりに結論を出すという作業に、大きなやりがいを感じていたことは確かです。

小3〜小6まで、自由研究で毎年、賞状をもらっていたこと。その小さな成功体験が、今思えば編集者を選ぶにあたっての原体験であるように思います。

小論文で、なぜかほめられた

中学に入っても、相変わらず秀でて何かが得意な生徒ではありませんでした。読書が好きなわけでもなかったので、国語の成績もそこまでパッとしていませんでした。

ところで国語のテストには「物語文」と「説明文」の2種があったのを覚えているでしょうか。私は、どちらかというと物語文が好きなのに、なぜか説明文のほうが点数がよかったのです。

加えて、高校の頃、AO入試対策で受講していた小論文の授業で、長い説明文を短く要約する課題を解いたところ、先生に「直すところはない」と褒められたことがありました。

この頃から、自分の得意分野が見えてきました。

本来、私が書いていて楽しいのは、自分の思いを書き綴るエッセイや、空想の物語のほうでした。しかしながら、自分の適正は、創作文ではなく、既存の文章を順序立てて理解し、正しく要約することにあると気づいたのです。

適正のタネを、人生で使うとおトク

誰にでも、普通にやっていて自然とこなせること、普通にやっていても苦戦することがあるように思います。きっと、それが適正なのでしょう。

私は、自分に編集のカリスマ的才能があるとは思いません。でも、子どもの頃に感じた適正を、比較的活かしやすい環境にはあるのかなと思います。

苦手なことも「普通」でなく「必死」にやれば上達するとは思います。でも、自分の適正をある程度理解していると、ちょっとおトクな気持ちにはなります。笑

「適正」というと就活の自己分析やSPIなどが連想されますが、もっと、ラフな感じでいいと思います。

たとえば、「朝の目覚めが良いこと」や「買い物は、迷わず即決できること」「人の話を聞いているフリが得意」など、一見なんてことない特徴も、全て適正のタネだと思うのです。

じゃあ、その適正のタネをどう有効活用して、いかにおトクに生きるか。

ふと考えてみると、仕事や日常生活で役立つ場面があるかもしれません。

最後までお読みいただき、ありがとうございます! 今後も、よい記事を出せるようにがんばります。