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【小説】アディクト・イン・ザ・ダーク(9)


前回:【小説】アディクト・イン・ザ・ダーク(8)



 その日は十連勤のうちの八日目だった。大型連休で、売上は上がる。だが、アルバイトもここぞとばかりに休む。折り返し地点こそ過ぎているものの、ゴールは遠く、単純作業はとうに飽きて何の面白みもなく、終われば休みだからと自らを発奮させるには材料が足りない。疲れも徐々に溜まり、昨日は帰ってすぐ寝てしまった。深夜三時に目が覚め、そこからは一睡もできずに、今を迎えている。眠気で、手を動かすペースも落ちていた。


「ちょっと待てよ」


 午前の作業が終わり、休憩室へ向かって歩いていると、後ろから声をした。振り返ると間口がいた。昨日まで三日間、温泉地に行っていた間口が。


「間口さん。どうかしましたか」


 間口は俺を睨みつけている。


「お前さ、作業遅くねぇか。俺の半分も進んでないよな」


「はい、すみません」


 俺は、謝って場を収めようとする。声は弱弱しく、間口の耳に届いて消える。


「いや、すみませんじゃなくて。謝るぐらいだったらもっと手動かしてくれよ。何、やる気あんの?」


「やる気は、あります」


「じゃあ、もっと速くできるはずだろ。小学生でもお前より量できるぜ。お前、給料もらえれば何でもいいやって思ってんだろ。違うか」


「そんなことはないです」


「俺にはそう見えるけどな。適当にやられるとこっちが腹立つんだよ。あーあ、店長は何でお前なんか採用したかなー。俺が店長だったら、お前なんて雇ってないからな」


 配慮などとうに置いてきたと言わんばかりの暴言が、耳に入って出ていかない。頭のより深いところが、ズキズキ痛む。次に口を開いたならば、罵倒する言葉が矢のように出てきそうだ。


 俺は、必死に口を結び、間口から離れることに努めた。バックから昼食とスマートフォンだけを手に取り、外に出る。駐車場には車がひしめいていて、入り口では警備員が、ストレスの捌け口にされている。クラクションの音が、連続して聞こえた。




 なんとかアルバイトを終えた。勤務先のスーパーマーケットは国道の脇道にあり、帰り道、二つ目の信号ですぐ国道にぶつかる。スクランブル交差点の歩行者用ボタンを押す。信号はなかなか青にならない。家に帰るには、信号を渡って右折しなければならない。だが、気づくと俺は信号に背を向けて、自転車を漕ぎ出していた。時計の針を戻すことができると思っていた。


 カーキ色の外壁。オートロックのガラス扉から覗く、オフホワイトの廊下。最後に訪れた三年前と何一つ変わっていない。懐かしさが胸に迫る。俺が自転車を降りたタイミングで、パンプスを履いた女性がドアを開け、それに乗じて屋内に入る。女性はワイヤレスのイヤフォンをしていて、俺には気づいていないようだった。


 郵便受けで五〇二号室を確認する。ネームプレートには何も書かれていない。女性は郵便受けも確認せず、エレベーターに消えていく。俺は一分待って、もう一つのエレベーターに乗り込んだ。期待がマーチのように高鳴っていく。


 五〇二号室には表札もない。だけれど、隣のそのまた隣の部屋にも表札はなかった。特に気にも留めず、ドアの前に立つと、やはり緊張する。口の中が乾き、息は早くなっていく。


 インターフォンを押した。出てくるのは小絵さんだ。屈託のない笑顔で俺を迎え入れてくれて、奥には南渕先輩がやれやれと言った顔で、少しだけ嬉しそうに立っている。俺は何の気兼ねもなく、部屋に入っていく。さあ、楽しい夜をもう一度。


 だが、実際には反応がなかった。怪訝に思い、また押してみる。部屋の中からドタドタという音が聞こえた。ドアが開けられる。立っていたのは、南渕先輩とは似ても似つかない、背の低い男だった。髪は無造作に跳ねていて、紺色のジャージはだらけていて、黒縁の眼鏡に掛けられている。奥にはテーブルの上にテキストが置かれているのが見えた。


 呆気に取られた俺に、彼が言う。


「あの、どちら様でしょうか」


「ええと、あなたはなんて名前ですか」


「それって言う必要あります?」


 彼は、あからさまに不機嫌そうだった。ジャージの袖を掴んで揺らしている。早く帰れというメッセージ。


「あの、こちらに住んでいた南渕さんという人を知ってますか」


「誰ですか、それ」


 彼のぶっきらぼうな言葉が、フックのように体に響いた。口をもごもごさせて、次の言葉を探す。彼は今の俺を気持ち悪いと感じているのだろう。「なら、大丈夫です」と言ったきり、俺はドアから離れた。ドアの閉まる音は、緩衝材に吸収されて聞こえないはずなのに、しっかり聞こえた。大丈夫って何が。


 エレベータはすぐ開いて、俺は即座に乗り込んだ。彼の「誰ですか、それ」が何度も頭の中でループする。断ち切るハサミはない。


 マンションから出ると、すぐにスマートフォンを持った。SNSを開いて、「手押し」と検索する。南渕先輩に教えてもらった命を繋ぐ手段だ。氷の手押しはすぐに見つかった。来週水曜。場所は東京。なんでもよかった。再び、あの快感を味わえるのなら。嫌なことを片時でも忘れられるのなら。俺はそのアカウントをフォローして、ダイレクトメッセージを送った。空はまだ明るい。





 ポリ袋のジッパーを開けると、サラサラした粉末が流砂のように、アルミホイルに落ちていく。アトマイザーは二年前に捨ててしまった。小川のせせらぎのようでもあるが、その音は決して俺を癒やすことはなく、鼻息を荒くするばかりだ。両親が帰ってくるまで、あと一時間もない。


 だが、俺の頭は妙に落ち着いていた。何の戸惑いもなくライターのスイッチを入れ、炙っている自分がいる。俺の手がクスリのやり方を覚えていた。クスリをしていなかった二年半は元からなかったのかのように、何日も連続で使っていると錯覚する。脳にダイレクトに届き、神経を通って全身に広がっていく快感は、如何ともしがたい。重力から解放されたのかと思う。本当に帰ってきたという実感があった。今までの二年半は、ここではない別の世界にいたのだと確信する。今までの「ただいま」は「ただいま」ではなかったのだ。


 丸めたアルミホイルを窓に投げ当てて、ティッシュペーパーを数枚、勢いよく抜き取る。布団の横に雑然と置かれたレジ袋から、卑猥な漫画雑誌を掴む。コンビニで白昼堂々買ったものだ。店員は、平静を装っていたが、応答する声はどこか小さかった。後ろからは軽蔑する視線があった。だが、恥ずかしさは全く感じず、逆に誇らしかった。


 ページを捲るごとに、劣情は高まっていき、意識は研ぎ澄まされていく。擦る。擦る。中盤を少し過ぎたあたりから、寄せる波を感じ、俺はティッシュペーパーを押しあてた。その瞬間、堰は切られ、一気に溢れた。脳は強く揺さぶられる。真っ白というよりも、透明に近い感じがする。空っぽではない。むしろこれ以上ないほど満たされている。それが何かは分からないが。


 心地よい透明で満たされる俺の脳に不純物が入り込んだのは、汚れた手をティッシュペーパーで拭いているときだった。引き戸が開けられた。俺は慌てて、ティッシュをゴミ箱に入れ、布団の中に潜り込んだ。


 うずいている。手が、脚が、全身がうずいている。もっと思う存分動き回りたいと、解放されたいと。俺は必死に抑える。歯を食いしばって、目をつぶってたしなめる。動くな。また刑務所にぶち込まれたくなかったら、じっとしていることだ。理性が涙目で闘っている。外から、「ただいまー、峻いるんでしょー、起きてるー?」と声がする。俺は布団を顔まで被った。ドアの向こうで、テレビが鳴るのが、布団越しにも聞こえた。



 母親が「晩ご飯できたから来なさい」と言っても、俺は行かなかった。廊下から差す光に背を向けた。動き出したいと喚くのに疲れたのか、全身がふと静かになり、気づいたら寝てしまっていた。起きて、スマートフォンを確認する。夜の二時だった。


 その眩しさに目を覚まし、俺はよたよたとダイニングへ向かう。寝ている親を起こさないように、恐る恐る扉を開けると、茶碗にご飯が盛られていて、豆腐の味噌汁が椀に注がれていた。メインはイカリングに千切りのキャベツ。大して好きじゃない。そのいずれにもラップがかけられていた。俺は電子レンジで温めないまま、それらを食べた。冷たい米はもちもちとしていても嫌なだけ。味噌汁は味の濃いスポーツドリンクのようで不気味で、イカリングはなかなか噛み切れなかった。それでも、俺は箸を進める。親が「うーん」と寝返りを打ったのにも驚きながら、何とか食べ終えた。というよりは無理やり胃の中に押し込んだ感じだ。


 皿を洗面台に持っていく。暗くて足元も見えないと、自分が自分から離れていく感覚がする。もう一人の自分が闇に溶けていくような。俺はひし形のボタンを押して、壁のような食洗機を開けた。そして、手を伸ばす。地に足はついていない。





 昨日は雨だった。一昨日も、そのまた前の日も。そして、今日も。傘を差すかどうか判断に迷うようなしとしとと雨が降っている。紺色の雨合羽の中はひどく蒸れ、蒸籠の中にいるようだ。雨を含んだジーンズは重く、ペダルを漕ぐにも普段以上の力がいる。アルバイトだけではなく、往復さえも疲れる日々が続く。


 普段以上に疲労が溜まる日々の中で、俺を癒やしてくれるのはクスリと自慰行為しかなかった。アルバイトは水曜日が休みなので火曜日、それと、世間は休んでいるのに俺はアルバイトだという理不尽を紛らわすために、土曜日にやっている。注射器という証拠を残さないようにもっぱら炙りだ。


 アルミホイルは深夜こっそりコンビニのごみ箱に捨ててきているし、ライターもティッシュケースの一番下に隠している。クスリは本棚の奥の漫画に挟んであり、ここまでは見られることはないだろう。静脈注射でキメていた頃よりかは、満足度は落ちるが、それも一年間の我慢だ。また、一人暮らしを始めたら、すぐに静脈注射に戻す。今は、アルバイトにも毎日出勤できているし、問題はないだろう。節度を持った付き合いというヤツだ。俺ならできる。


 その日は珍しく晴れていた。気象予報士が満面の笑みで「梅雨の晴れ間」だなんて言っていた。アルバイトで怒られることもなかった。いつもうるさく言ってくる間口は、季節の変わり目で、風邪を引いたらしい。行き帰りで信号に引っかかることもなかった。水溜まりに反射する日光が眩しい。一年に一度しかないような吉日だ。


 そうだ、クスリをやろう。クスリでさらに上がって、今日という日をより完璧な一日にするのだ。ストックもまだある。自転車を停め、玄関を勢いよく開ける。親の車は両方ともない。部屋へと雪崩れ込み、クスリが入っている漫画を取り出す。ページをパラパラと捲るが、クスリはどこにも入っていなかった。皮膚の下が冷たくなっていく。


 俺は、一ページ一ページ確認する。やはり、どこにも入っていない。全ての巻を確認したが、結局クスリは見当たらなかった。ドアの外でトイレを流す音が聞こえる。クスリを探すのに夢中で気付かなかったが、いつの間にかどちらかが帰ってきたらしい。口元がひきつる。たぶん、恐怖を感じた。俺は部屋でスマートフォンを眺める。SNSは、来週の試合の話題で持ちきりだった。


 夜八時。事も無げに夕食の時間は訪れる。メニューは茹でた豚肉、もやし、ほうれん草。父親が好きな簡単な料理だ。ポン酢と胡麻ポン酢の二種類のタレが用意されている。俺は胡麻ポン酢を選び、豚肉の上に注いだ。食卓に会話はなく、黙々と食べ続ける。目の前で両親は何やら目配せをしている。


 豚肉は固く、反対にもやしは水のようだ。これが最後の晩餐だとしたら、呆気が無さすぎる。


「お前、バイトは大丈夫か」


 切り出したのは、やはり父親だった。


「うん、大丈夫、全然平気」


 俺は、白米を口に運びながら答える。その後も次々と料理に箸を伸ばし、早く食べ終え、立ち去るように努めた。


「嘘をつくなよ。本当は大丈夫じゃないんだろ」


「なんで、そう思うの?バイトしてるところを見たわけじゃないんだし」


「大丈夫だったら、覚醒剤なんて使わないだろ」


 「覚醒剤」なんて強い言葉が出たにもかかわらず、食卓の空気は何も変わらなかった。三人ともが身構えていた。


「ごめん。でも、最後の一回だから。なんか今日気分が良くてさ。最高の状態で後腐れなく終われるかなって」


「そうやってせめて最後は楽しく、ってやると大体失敗するぞ。煙草も覚醒剤も。俺だって、煙草止めるのにどれだけ苦労したか」


「俺と父ちゃんは別でしょ。俺は綺麗さっぱり止められるの。一緒にしないでよ」


「そうか、本当に止められるんだな」


「うん、クスリはもう買わないし、やらない。誓ってもいいよ」


 父親は口をつぐむ。目は右下を向いていて、次の言葉に迷っている様子だ。豚肉は最後の一枚。俺はサッと口の中に入れた。


「俺たちは、もうお前を信用できないんだよ。正直言って、絶対またやると思ってる。これから、警察に行こう。俺たちもついていくから」


 中途半端に口の中に留まった豚肉が、気持ち悪い。精一杯飲み込む。豚肉も、情けなさも。食器もそのままに席を立とうとしたが、立つことはできなかった。俺はどうして生きているのだろうか。燃えかすよりなんかよりもよっぽど脆い。唯一信用してくれる両親まで悲しませて。生まれ変わったら何になろうか。個体数からいって昆虫だろうか。蟻にでもなって、人間に踏み潰され、脚を捥がれるのだろう。


 暖かな感触で、我に返る。母親が俺の右肩に左手を置いていた。三六度の体温が、服の上から伝わる。肩にかかる力がずっと重くなる。両耳で、冷蔵庫が音を立てて動いていることを聞く。両目で、蛇口が銀色に光っていることを見る。明博が歩き出し、俺も続いた。


 外に出ると、湿気を纏った風が頬を撫でた。電灯に蛾が集まっている。見上げなければ分からなかったことだ。



続く


次回:【小説】アディクト・イン・ザ・ダーク(10)

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