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【小説】連れていく(13)



前回:【小説】連れていく(12)



 それから三本の列車が駅に入線し、また出発していった。佳織は、深くため息をついて、前を見る。自転車が二人の目前を走り去っていった。梨絵は佳織の手から、手の平を離す。何も触れていない手の平は、どこかうら寂しかった。


「そろそろ広島駅に戻ろかな」


 清々しさを含んだ声で、佳織が言う。泣きたいだけ泣いた。もう二人がここにいる理由は、ほとんどない。佳織の提案に梨絵も頷いた。何も言わなくても、曇り空に晴れ間が覗くような表情を見れば分かる。


「そうだ、門司さん。写真を撮りましょうよ。ここに来てから駅名標、まだ撮ってませんでしたよね」


 梨絵の提案。言われてみれば、ここに来てから感情が忙しく、駅名標どころではなかった。佳織が振り返ってみると、黄色い背景に黒文字の駅名標が、掲示板の一部として収まっていた。警戒色で、夜でもよく目立ちそうだ。


「まずは、私が門司さんを撮りますから。スマホ貸してください」


 一日ぶりにスマートフォンを、梨絵に手渡す佳織。透明なカバーが、ところどころ擦れている。梨絵は佳織のスマートフォンを持って、一歩ずつ後ずさりしていった。下がっていく様子も、すっかり慣れたものだ。列車はまだ入線してくる気配を見せない。


 線路ぎりぎりまで下がり、スマートフォンを構える梨絵。向けられたレンズが、自分の心まで見透かしているようで、気づくと、出し尽くしたはずの涙が、佳織の頬を流れていた。手で拭う佳織。こんなみっともないところを、写真に残すわけにはいかない。


「門司さん、涙は拭かなくても大丈夫ですよ。無理に顔を上げなくてもいいです。最後は、素直な写真を撮りましょう」


 梨絵が暖かく諭す。佳織は涙を拭くことを止めた。流れる涙も、上がってくれない口角も、湿気で膨らむ髪も全てが、紛れもない門司佳織であった。佳織が「ええよ」と言うと、梨絵は少し間を置いてから、シャッターボタンをタップした。小さなシャッター音は、車の走行音にも消されることなく、駅に響いた。


 続いて佳織が撮影した梨絵は、真っすぐ背筋を伸ばしていて、手の位置も極めて自然だった。佳織に配慮したのか笑顔は少し控えめだ。


 気づくと、列車が来るまで、あと二分になっていた。最後の一枚は、二人一緒に収まるべきだ。そう二人の思いは一致した。ふと横を見ると、三〇分前に降りた男性は、まだベンチに座っている。手を動かしているところを見ると、ゲームでもしているのだろうか。梨絵が近づいて、「すみません」と言うと、男性はようやく気付いたようで、少し嫌な顔をしながらもイヤフォンを外した。


 ただ、その第一印象とは裏腹に、男性は意外なほど快く、二人の依頼を引き受けてくれた。「どうせ写んなら、全身写ったほうがええけぇな」と、頼んでもいないのに、反対側のホームまで走っていってくれた。駅名標を挟んで立つ二人。顔を見合わせると、なんだか可笑しくて、どちらからともなく笑ってしまう。「じゃあ、撮るけぇなー」と男性が大きな声で言う。二人は特別なポーズをすることもなく、そのまま姿で、フレームに収まった。シャッターが切られる音。男性からスマートフォンを返されたとき、ちょうど列車が入線してきた。写真を見て、二人はまた一つ小さく微笑んだ。





 JR広島駅は夜の七時半を過ぎても、まだ混雑していた。キャリーバッグを引いた人影が、駅舎へと吸い込まれていく。駅前広場は、駅舎から漏れる明かりと街灯に照らされて、十分すぎるほど明るい。二人は噴水の前にいた。電灯が設置されていて、幻想的な光を放つ、半球が二つ並んだ特異な噴水だ。行き交う人々の中、立ち止まる二人。佳織は、口惜しそうに尋ねた。


「なぁ、ほんまにもう帰るん?」


「はい。東京行きの新幹線の終電が八時なので、もうそろそろ行かないと。私はホテルも取ってないですし」


 申し訳なさそうに答える梨絵。「ホテルを取っとらんのは、あたしも一緒やって」と佳織は食い下がったが、それでも、梨絵の態度は変わることはなかった。もう一泊していけば、とも思ったが、彼女には彼女なりの事情があるのだろう。無理に引き留めることを、佳織はしなかった。


「そっか。ほな、これでほんまにお別れやな」


「そうですね。でも、門司さんといさせてもらった三日間は、私のこれまでの人生でも幸せな時間でした。こんな風に、他の誰かと旅をしたことなかったですから。目に映るもの全てが新鮮で、忘れられない旅になりました。本当にありがとうございます」


「礼をいうのはあたしもやって。ごめんな。あたしのわがままにつき合わせてもうて。せやけど、一人やったら、行こう思わんとこにも行けて、ええ経験ができた。自分と会えへんかったら、こない充実した旅にならんかったと思う。こっちこそ、ありがとな」


 噴水から発せられる明かりが、二人を慎ましく照らす。


「せや、旅のしるしに、一つ渡したいものがあるわ」


 「なんですか?」という梨絵の返事を、笑顔で受け流すと、佳織はトートバッグに手を入れた。取り出したのは茶色の長財布。佳織は一枚の切符を取り出した。この旅の最中、二人で一緒に使った青春18きっぷだった。スタンプはまだ四個しか押されていない。


「いいんですか、これ受け取って」


「ええて。あたしからの感謝の気持ち。まだ一日分だけ使えんから。ただし、有効期限は九月末までやけど」


 梨絵は遠慮なく受け取り、自らの財布にしまう。佳織からの予想外のプレゼントは、軽くて薄かったけれど、梨絵にとっては、この旅の思い出が刻まれた、かけがえのないものだった。何かを渡したいという気持ちが、梨絵にも芽生える。考えた末、梨絵はポケットからスマートフォンを取り出して、こう持ち掛けた。


「門司さん、ラインやってますよね?私とライン交換しません?また、いつでも話せるように。旅の約束ができるように」


 梨絵はこの三日間で一番の笑みを、佳織に向けた。断る理由なんて佳織には、どこを探してもない。二人はお互いのQRコードを読み込み、友だち登録をし合った。ホーム画面の一番上に、相手の名前が表示されている。佳織の心は弾み、思わず口走ってしまう。


「ライン交換したんやから、もうあたしら他人同士ちゃうよな。なぁ、これからは下の名前で呼んでええ?」


「え、え、え、それはちょっと……」


 梨絵は、明らかに戸惑った様子を見せている。しまった。いきなり距離を縮めすぎたか。どうやってフォローしよう。佳織が考えていると、梨絵は一つ大きく息を吐いて、佳織の方を、もう一度向き直った。


「すまん、ちょいいきなりすぎたなぁ……」


「いや、大丈夫です。はい、これからは下の名前で。ね?佳織?」


「せやな。梨絵」


 佳織が笑顔でそう返すと、梨絵は顔を一目で分かるくらい真っ赤にした。「すいません、やっぱりちょっと恥ずかしいです。佳織さんでいいですか?」と、上目遣いで聞いてくる梨絵。佳織は、もちろんそれを受け入れる。


「梨絵がええんなら、あたしはそれでええよ」


「ありがとうございます。じゃあ、これからは佳織さんと呼びますね」


「うん、ありがとな。ところで、時間の方は大丈夫なん?」


 佳織の腕時計は、夜の七時五〇分を指している。もう新幹線の発車時刻まで、一〇分もない。


「ごめんなさい、佳織さん。私、本当にもうそろそろ行かないと」


「もしよければ、今度大阪にも来てな。阪堺電車やら魅力的な電車ぎょうさんあるから。紹介したるわ」


「はい、ぜひお伺いしたいと思います」


「うん。ほな、またな」


「はい、またいつか!」


 最後の挨拶を交わすと、梨絵は、駅舎に向かって走っていった。駅舎に背を向ける佳織。今晩はどこに泊まろうかと考える。ふと、振り向くと、梨絵の姿はもう見えなくなっていた。


 とりあえず、駅前通りを歩いていけば、ビジネスホテルの一軒や二軒は見つかるだろう。佳織はパスコードを入力して、スマートフォンのロックを解除した。ホテルの予約サイトに向かうつもりだったが、知らず知らずのうちに黄緑色のアイコンをタップしていた。表示される友だち一覧。一番上には、白山梨絵の文字があった。


 その下にあったのは、自撮りのアイコン。登録名は「伊藤光生」。佳織はその名前をタップした。会話は昨日で途切れてしまっている。今まで数え切れないほどのメッセージを、交わしてきたライン。すぐに既読がつけば嬉しかったし、なかなか既読がつかなければ、本気で心配したライン。中身のない話で、何分でも会話することができたライン。それは佳織と伊藤の思い出、三年間の歴史そのものだった。


 それでも佳織は、ホーム画面に戻り伊藤の名前を、長く押した。ブロックリストに追加して、削除を実行する。伊藤の痕跡は、佳織のスマートフォンから、きれいさっぱりなくなった。後ろ髪を引かれる様な思いは、確かにある。それでも、佳織は顔を上げた。信号が青に変わっている。歩き始めると、熱帯夜の気だるい風が、ふいに優しく感じられた。



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