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【小説】連れていく(12)



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 佳織は、ベンチの表面を撫でてみた。嫌になるほど、滑らかな触り心地だった。ふと顔を上げると、青緑の列車に人が乗車していくのが見える。多くがイヤフォンをしたり、スマートフォンを見たり。他人を気にする素振りは見せない。列車は静かな音を立てて発車し、駅から姿を消したかと思うと、また次の列車がすぐにやってくる。そして、人が吐き出されて、吸い込まれていく。何度も何度も。生き物みたいに刻々と。入ってくる列車のカラフルさも、今の佳織を慰めるのには、何の役割も果たさない。


 私は、彼のことが好きだった。変なところで気が強いところも、すぐ謝る癖も、黒い髪を触るちょっとした仕草も、全てが好きだった。佳織は目を伏せた。いつも彼が佳織の、頭の一部分を占めていた。しかし、彼はどうだったんだろう。彼の人生の中で私は、ただの脇役に過ぎなかったのだろうか。


 佳織は、列車を見送り続けた。乗車する気は起きなかった。このまま列車に乗って、遠く離れられたとしても、私は私から離れられない。逃げられない。場所の移動なんて無意味だ。私が私でいる限りは。佳織は緑色のベンチに座ったままであった。こんなに惨めな状態になっても、涙の一つさえ出ない自分のことが、もう分からなくなっていた。


 そのときだった。声がしたのは。


「門司さん」


 佳織が顔を上げてみると、梨絵がいた。白いブラウスを着て、穏やかな眼差しで、佳織を見つめる梨絵がいた。人の森の中で、埋もれながらも立ち続ける、か細い木のようでもある。


「自分、なんでここにおるん?映画祭に行ったんちゃうの……」


「もう観たいプログラムも終わったので、抜けてきちゃいました」


 そう言って梨絵は少し微笑んだ。虚勢を張っている。佳織は感づく。昨日の夜、「映画祭は夜までやってるんですよね。どうせならできる限りいたいと思ってます」と、梨絵が言っていたからだ。梨絵に気を遣わせてしまった。二日前に会ったばかりの梨絵に。佳織は、また頭を下げてしまう。顔向けができないとは、このことかと感じた。


 俯く佳織の隣に、梨絵はそっと座る。肩を叩くでも、手を握るでもない。ただ、座って駅から見える光景を、眺めていた。駅前の道路を行き交う自動車。ライトがつき始めている。


「やっぱりここにいたんですね。門司さんがどこに行くか考えたら、一番は広島電鉄かなって。思った通りでした」


 列車は等間隔でやってきて、人々を降ろし、また、乗せていく。同じ列車に乗っていた人々が、それぞれの目的地へと去っていく。屋根の影が長く、反対側のホームまで達している。佳織は、梨絵が隣にいることに、少しの居心地の悪さを覚えていた。梨絵は何も話さず座っているだけだから、自分から何か話さなければならないように感じていた。


「なぁ、あたしな……」


「門司さん、話したくなければ、無理して話さなくても大丈夫です。私からも何も聞きません。私はただ門司さんの隣にいたくて、いるだけですから」


 梨絵の顔は、佳織を向いていなかった。言葉は空気に溶けていって、なくなった。二人の距離も、間に流れる沈黙も変わらない。変わるのは入線してくる列車と、駅にいる人々だけ。隣に人がいるというだけで感じる無言のプレッシャー。自分の時間だけが、止まっている感覚。


 二人の目の前に、クリーム色と深緑色の列車が停まった。艶の消えた外装が、刻んできた時間を思わせる。降車客が一段落すると、佳織は衝動的に列車に駆け込んだ。逃げ出したい気持ちに、押し潰されそうだった。外装と同じ深緑色のロングシートに佳織は雪崩れ込み、顔を伏せた。すぐに梨絵も乗車し、先ほどまでと同じように、佳織の隣に座る。間もなくして、列車は発車した。車内に話し声はない。


 列車は広島の市街地を行く。広い道路の中央に位置した線路を、悠々と進んでいく。自動車に軽く追い抜かれたとしても、マイペースに走り続ける。車窓からはビル群。おおらかな川。木々の向こうに原爆ドームが見える。だが、俯く佳織の目には入らない。梨絵もまた、何も言わない。佳織に視線をやることもあまりせず、車窓をぼんやりと眺めているだけだった。
 

 
 


 三〇分ほど走って、列車は終点に到着した。乗車料金の一九〇円を払い、降車すると木の葉が揺れる気配を、梨絵は感じた。実際、この駅は中学校に面しており、校内が見えないように植樹をされていたが、そんなことは今の二人には関係ない。佳織はよろよろと、青いベンチまで歩いて腰を下ろし、梨絵もその隣に座った。列車が過ぎ去り、降車客もいなくなった駅は、自動車の往来以外は、何の音もしない。


 どれくらい経ったのかは分からない。時間にしてみればほんの数分だろうか。先に口を開いたのは佳織だった。


「なぁ、いつまでこうしとるつもりなん?」


 呟くつもりの言葉は想像以上に大きく、棘があった。梨絵が穏やかな声で返す。


「門司さんが、『もういいよ』って言うまでです」


 佳織は、梨絵の顔を見た。どこにも不満の色は見られない。過度に気に掛けるわけでもなく、あくまでフラットな態度。それが佳織には、気に入らなかった。車の往来に紛れて、遠くから列車が向かってくる音がする。ライトグリーンのラインが、だんだんと存在感を増してくる。


「せやったら、言うわ。もうええで。次の列車に乗って帰りぃや。あたしはもう、大丈夫やから」


 梨絵は佳織を見ながら一つ頷き、ベンチから立ち上がった。佳織に軽く頭を下げる。結ばれた唇は言葉を堪えているように、佳織には見えた。列車がやってくるのは、二人から見て反対側のホームだ。梨絵が線路を渡ろうとしたとき、佳織は声を上げていた。


「ちょい待ちぃや」


 自分でも知らないうちに、佳織から言葉が出ていた。気づいた時にはもう立ち上がっていて、梨絵を呼び止めていた。佳織は唖然とした。振り返った梨絵は、今にも壊れそうな、繊細な表情をしていた。佳織の胸は、強く締め付けられる。


「ええから、ここに戻ってきて」


 佳織は、少し動いて、ベンチの近い方の席を開けた。梨絵は、何も言わずに戻ってきて、また座る。空は夕日も落ちて、いつの間にか暗くなってしまっている。梨絵は膝の上に手を置いて、人のいなくなったホームを見つめていた。


「自分、ズルいわ。こないただ隣に座られとったら、無碍になんてできへんて。あぁ、ほんまズルいなぁ」


 佳織が小さく呟く。梨絵には聞こえていないらしい。いや、もしかしたら聞こえていない振りをしているのかもしれない。どちらかを佳織が知る由はない。佳織は一息ついて、言葉を並べ始めた。今度は、梨絵にもしっかり聞こえるくらいの声と、心構えで。


「あたしな、自分のことちゃんとした人間やと思うてた。しんどいことがあってもな、それをバネに頑張れると思うとった。でも、いざしんどいことがあると、現状を受け入れることさえできへん。立ち上がるいう余裕なんて、全然ない。しょうもない人間や」

 
「誰だって似たようなものですよ。門司さんだけじゃありません」


 ただ黙っていた梨絵が、ようやく口を開く。ゆっくりと言葉を選ぶように喋っていた。慰めのはずなのに、どうも癪に障る。受け入れることは簡単なはずなのに、佳織のプライドがそれを許さなかった。反発するように口調は強くなる。


「ちゃうて。立ち上がれへんあたしは、あかんのや。人間こけた方が強うなるようできとる、なんてただの綺麗ごとやった。どないして立ったらええか分からへんの。自分の足で立たな、前を向かなあかんのに」


 口の中が熱くなっている。唾も飛んでいたかもしれない。「門司さん」と、梨絵が宥める。佳織は自分の心を落ち着けるように努めた。佳織は気付かなかったが、次の列車が、もうすぐそこまで来ていた。停車した列車から人が降りていく。五人しか降りてこず、そのうちの一人は、佳織たちの隣のベンチに腰を下ろし、スマートフォンで動画を見始めた。やがて、梨絵がおもむろに口を開く。


「門司さん。私は門司さんといれて楽しかったですよ。一人じゃ行く機会のないようなところにも行けて。門司さんはどうでしたか」


 梨絵の問いかけに佳織は、顔を伏せたまま、首を縦に振った。それが、今の佳織にできる精一杯だった。


「たぶん、誰だって傷ついてるんですよ。門司さんも私も、会ったことのない誰かも。転んで傷を負ってしまうこともあるかもしれません。でも、」


 梨絵の目は佳織を真っすぐ見ていた。視線を逸らすことはない。まるで自分にも言い聞かせているみたいに。佳織が顔を上げずとも。


「私、思ったんです。どうして私たちは、何かを好きになるんだろうって。きっと大変な時に、支えとなるものを必要としてるんじゃないか、って思ったんです。寄りかかって、顔を当てて、気がすむまで泣いて。それで、手をついて支えにしながら、少しずつ立ち上がる」


 梨絵はさらに続ける。


「転んだっていいんです。きっと。好きなことに支えてもらって、また立ち上がることができれば。私はアニメで、門司さんは鉄道で、それぞれ違いますけど、好きなことがある。それってとても素敵なことだなって、門司さんと一緒にいて思いました」


 梨絵は一つ一つ佳織に届く言葉を選んで、慎重に喋っているようだった。
 

「大丈夫ですよ。支えられながらでも、立つことができれば。私は門司さんが、再び立てるようになるって、分かってますから」


 言い切った後も梨絵は、しばらく佳織から視線を放さなかった。青いベンチに水滴が一粒落ちるのを、佳織は見た。二粒、三粒。そこで初めて佳織は、自分が泣いていることに気づいた。自覚したらもう止まらなかった。膝の上で握った左手に、梨絵の右の手の平が重なった瞬間、佳織の中で何かが音を立てて崩れた。見上げると、梨絵が静かに頷いている。佳織は目頭を右手で拭った。付着した涙が、じんわりと暖かかった。



続く



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