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【小説】アディクト・イン・ザ・ダーク(10)


前回:【小説】アディクト・イン・ザ・ダーク(9)



 私服で外に出ても、蒸した部屋と暑さは変わらなかった。チェックのシャツの袖を捲りたくなる。頬を撫でる風に、過ぎ去ってしまった三回の夏を顧みる。よく覚えていない。今回は仮釈放はなく、三年の刑期を全うした。早く出られることはないと分かっていたから、諦めもついた。ゴールが決まっている分、日々は瞬く間に終わっていった。


 道を歩いても、何の感慨もない。ただ、脚を交互に踏み出しているだけだ。踏切を渡った先にあるコンビニエンスストアで、水を買おうと思い立つ。入るとレイアウトが変わっていて、ドアの真正面にレジが見えた。横のイートインコーナーの座席数も増えている。


 飲料水を手に取り、レジに向かう。片言の外国人が立っていた。名札から察するに東南アジア系に思える。まあ最後に来たのは四年前だから、変わっていても当然だろう。そんなことを思いながら、財布を開く。五十五円しか入っていなかった。


「ちょっとお金下ろしてきますんで。すみません」


 キョトンとした様子の店員をよそに俺はATMへと走る。トイレの入り口近くにそれはあった。キャッシュカードを入れて、暗証番号を入力する。ためらうことはなく、指が覚えてくれていたのに安心する。一万円と入力し、確定を押す。キャッシュカードを引き抜いた後に、一万円札は出てきた。


 取り上げてみて、目を見張る。数字で大きく「10000」と印字されていた。肖像画もどことなく違う気がする。見慣れない一万円札を出して、店員から帰ってきた千円札もまた違っていた。誰だ、この丸眼鏡を掛けた男は。ふと、世界は俺の知らないところで、確かに変わっていたのだと気づく。刑務所はタイムマシンだ。外には異なる世界が広がっている。そう考えると、コンビニエンスストアから出るのが無性に怖くなった。


 そのとき、スマートフォンが鳴った。耳になじまない和音に、俺は慌ててコンビニエンスストアから出た。携帯の画面には電話番号のみが、表示されている。連絡帳に登録されている(ほとんどは親戚だが)どの番号とも違う。よく考えずに、俺は応答していた。


「こんにちは」


 聞き慣れない声だった。記憶を検索しても、何も引っかからない。こんな抑制の利いた声、一度聞けば覚えているようなものだが。


「こんにちは」


「出所おめでとう」


「あの、どちら様でしょうか。出所おめでとうなんて、そんな人違いじゃないでしょうか」


「とぼけんなよ、弓木峻。お前釈放日、今日だろ。違うか?」


 声は耳から入り、そこで止まる。壁にぶち当たったかのようだ。


「久しぶりのシャバの空気はどうだ。といっても変わんないか。外と同じ空気を吸ってたんだもんな、中で」


 脳は電話を切れという指令を出しているのに、手はなかなか動かない。電話の向こうの相手に勘づいているのか。


「でさ、ウチ最近いいの入ったんだよ。上がうまくやってくれてな。純度は今までと比べ物になんねぇぜ。その分値段は張るけど、ヤッたときのことを考えれば、ぶっちゃけお買い得だ。お前だったら特別に安くしてやってもいい。どうだ、要るか?」


 親からは信頼されず、出所したばかりの人間は、社会的には存在していないのと大して変わらない。透明人間も同様だ。そうか。透明人間だから何をしてもいいのか。どうせ、目に留めてもらうことはないのだから。周囲を見渡してみる。四年前にはあった公衆電話がなくなっていることに、今更ながら気づいた。




 空になったポリ袋が、枕の横に転がっている。スマートフォンを見ると、二十二時間が経って、午後の六時だった。十何時間も寝ていた。そのことは両親が、俺に干渉してこなかったことを表している。もう愛想が尽きたのだ。三十も過ぎて、同じところを回っている愚かな息子に。刑務所での面会で、さっさと部屋を借りて家から出ろと言っていたことを思い出す。もう関わりたくないというその口調に、ひどく落胆したことを覚えている。


 寂しくはなく、ただただ悲しい。もうめっきり見なくなったが、道端に捨てられる子犬の気分だ。


 そろそろ夕食ができているだろうと思って、布団から這い出す。廊下を一歩一歩踏みしめる度に、ギイという音がした。ダイニングに入ると、机の上には食べ終わった皿が置かれていた。二セットしかない。


「母ちゃん、俺の飯は?」


「なんか作って食べて」


 母親はドラマが流れているテレビを見たまま、振り向かずに言った。俺が知っている俳優が一人も出ていないそのドラマを食い入るように見つめている。俺は、カップラーメンを買ってきて食べた。熱湯を注いで、待っている間の四分間、俺はずっと壁掛け時計を見ていた。なかなか進まない時計の針が、俺を嘲笑っている。価値のない人間だと責め立てる。


 空き容器をゴミ箱に入れて、俺はすぐに部屋に戻った。ドアを閉める直前に、もう一度リビングを見やる。そのドラマにはコマーシャルがなく、二人が振り向く様子は見られなかった。


 布団に再び横たわる。スマートフォンを手の届く範囲から遠ざけようと、壁に投げる。小さな音をして地面に倒れた。照明を消して、目を瞑る。


 信じられない。もう、自分が信じられない。間違いなくまたクスリをやる。意志なんて何のストッパーにもならない。鐘の音を聞くとよだれが出る犬みたいに、俺はクスリに支配されている。クスリを使わない自分が想像できない。クスリをやる自分は鮮明に浮かぶのに。前後左右から石壁が迫ってくるようなイメージ。綱にしがみついて、登らなければ押しつぶされてしまう。しかし、その綱を垂らしてくれるのは誰?





 結局、眠ることはできなかった。しばらく目を閉じて、スマートフォンを見て、これしか経っていないのかと失望し、また目を閉じる。そんなことを繰り返していたら、いつの間にか明るくなっていた。時計が八時三〇分になるのと同時に、俺は電話を掛けた。


「はい、倉石病院です」


「あの、初めてなんですが、アルコール関連外来を受診したいのですが」


「お名前は何と言いますか」


「弓木峻です」


「少々お待ちください」


 スマートフォンからは、オルゴール調にアレンジされたメロディが聞こえる。リラックス効果はない。


「はい、弓木峻さんですね。来週の月曜日の十五時なら空いていますが、いかがなさいますか」


「あの、少しいいですか」


「はい、どうぞ」


「こちらは、アルコール依存症の外来ですよね。あの、私クスリを使っていまして……。薬物依存症の治療も、こちらの外来では行っているのでしょうか」


「そうですね……。確認して参ります」


「どうしてもクスリを止めたいんです。頼れるのはここだけなんです」


「少々お待ちください」


 また、メロディが流れた。十回繰り返されても、終わる気配がない。足先が細かく動いている。三分ほど経ってようやく、また電話が取られた。


「大変お待たせいたしました。ただいま確認したところ、誠に申し訳ないのですが、当院では薬物依存症の治療は行っていないとのことで……。ご要望に添えず申し訳ありません。でも、もしよろしければ、当院の臨床心理士によるカウンセリングだけでも……」


「もう結構です。ありがとうございました」


 電話の向こうの受付係は、まだ何か言っていたが、俺は構わず電話を切った。沸々と燃えるような悔しさは、俺の中で大きくうねり、やがて怒声となって溢れ出る。スマートフォンを布団に強く叩きつける。県内の他の病院も特に薬物依存症については記載がなかった。治療には県外に出ていくしかない。どれだけ俺に金を使わせれば気が済むのか。やるにも金がかかるし、止めるのにも金がかかる。旺盛な金食い虫であるクスリの怖さが改めて身に染みた。


 病院は信用できない。ただ、まだ手段はあった。昨日、病院を調べている中で、それが明日行われることを知った。きっと役に立たないだろうが、参加してみなければ分からない。回復に向かう道だと信じたい。


 唇の震えが少し収まった。





 家電量販店の角を曲がると、午後の太陽が急に顔を出して俺を照らした。自転車を漕ぐ右手には、広い階段とその先に、ガラス張りの楕円形の建物が見える。広い駐車場には、車は一台も停まっていない。以前、週末にキッチンカーが並び、人が溢れているのを見たことがある。くすんだガラスは、日光をも濁らせる。そろそろ改修が必要な時期なのかもしれない。


 その奥に、五階建ての薄い茶色のビルが見える。立方体に近いそのビルは、暗い雰囲気を帯びていて、立ち入るのには勇気がいる。北面には、白樺を背景に動植物が描かれている。リンドウの紫の花が、雨垂れに汚されていた。中に入ると、照明は心もとなく、リノリウムの床はキュッキュと音を立てる。右奥にはカフェがあるが、一人しか客がいない。階段は非常灯が照らすのみで、一段一段踏み出す度に、背筋がゾクッとするような心地がした。


 突き当たりの部屋に入ると、一転、蛍光灯が眩く室内を照らしている。事務机がいくつも並び、その上には書類が散乱している。壁には分厚いファイルがいくつも棚にしまわれている。見回していると、横から声がかかった。


「今日はどうされましたか?」


 突然の声に驚き、一歩後ずさりしてしまった。下を向いて答える。声は殻に閉じこもっていく。


「薬物依存症の当事者グループに参加したいと思って来ました」


「事前に電話で予約はされていますか」


「あ、あの……。してないです……」


 受付係は困ったような様子を見せ、少々お待ちくださいといって部屋を出ていった。一人取り残されると、なんとも心細い。昼休みから戻ってきた職員が、後ろから入ってくる。薄い水色の半袖のワイシャツにネームプレートがかけられている。部屋に人は続々と増え、仕事だという空気が出来上がっていき、俺は部屋を出ていきたくなった。受付係が戻ってくる。


「ただいま係の者に確認したところ、今回は大丈夫だとのことでした。今、用紙を用意いたしますので、そちらにお名前と住所、簡単なアンケートに記入いただいて、中でお待ちください」


 同時に渡されたボールペンで回答を書く。住所はとりあえず実家のものを書いた。


 アンケートを受付係に渡し、また別の部屋に案内される。ブラインドから日差しが差し込み、壁の本棚には薬物やアルコールに関連した本が収録されている。白い長机が四台。一つの机に椅子が二つずつ寄せられている。お盆に個包装のお菓子が用意されていた。ワイシャツを着た女性が一人。キャラクターもののTシャツを着た男性が一人、窓際に立っていた。もう一人ポロシャツを着た男性がいて、ホワイトボードに何やら書き込んでいた。


 長机を挟むようにして、一番奥の席に二人座っている。一人は、妙齢の女性。ほうれい線に少し皴が寄りつつあり、年齢としては五十代のように思える。髪は黒いがもしかしたら白髪染めをしているのかもしれない。無地のグレーのシャツに、黒字に白い細かい水玉が浮かぶスールが、若々しく見せようという思惑を感じさせる。実際、伸びた背筋と合わさって快活な印象がある。


 もう一人は眼鏡を掛けた男。目と目の間が広く、童顔だが、髭の剃り残しが彼を成人男性であると窺わせる。白と青のストライプのシャツを着ており、長い間着用しているのか、首元が大分よっている。猫背でスマートフォンを見ていたが、身長は俺よりも高いだろう。お金がかかっていない無造作な髪型に、見た目に頓着しない彼の性格が感じられる。学校での休み時間に隅の席で、一人で本を読んで過ごしていそうな、俺と近しいタイプに見えた。


 俺は、男の方の隣の席に歩いていった。俺が「よろしくお願いします」と言うと、男は小さく口を動かして、軽く会釈をしてくれた。近くで見ると、薄い口元が想像以上にあどけなく見えた。俺は椅子を引き、男性の横に座る。座ってすぐに、ワイシャツを着た職員と思しき女性が話しかけてきた。ネームプレートには「乃坂灯里」と書かれていた。


「本日急遽来られた方ですか?」


「はい。予約もなしに、なんかすみません」


「いえいえ、結構ですよ。初めてですよね?緊張してます?」


「それは、はい」


「まあ最初は誰でも緊張しますよね。でも、和やかなプログラムですので、ぜひリラックスした状態で参加してください。まだ、始まるまでに時間がありますので、お菓子でも食べながら待っていてくださいね」


 言われた通りに、個包装がされた菓子を手に取る。赤い袋を開けてみると、チョコレートだった。カカオの味よりも、砂糖の味の方が強い。


「こんにちは」


 左斜め前に座る五十代女が話しかけてきた。前かがみになり、スールがはためく。


「こういうところって、お二人は初めてですか」


 俺は「そうですね」と素っ気なく言った。隣の眼鏡男は軽くうなずいただけで、スマートフォンにすぐ視線を落とす。


「私も初めてなんですよ。今日はよろしくお願いしますね」


 会釈をしたのは俺だけだった。宙ぶらりんな時間が流れる。


「ここがプログラム会場ってことでいいんだよな」


 ドアを背にして立っていたのは、百八十センチメートルはあろうかという大きな男だった。黒髪に金髪がメッシュで入っていて、両耳に銀色のピアスが光っている。しかし、その威圧感の主因となっていたのは腕の刺青だろう。アルファベットで埋め尽くされたTシャツから覗く右腕には龍の文様が彫られている。初めて刺青を間近で見ると、恐れにも似た慄きを感じてしまう。


 乃坂が「はい、そうですよ、どうぞお好きな席に座ってください」と言うと、刺青男は品定めをするように部屋を見回した。俺はこちらには来ないでほしいと痛切に願う。その願いが通じたのか、刺青男は五十代女の隣に座った。すぐ隣には龍がこちらに睨みを利かせている。五十代女の体が少し右に逸れた。五十代女には可哀想だが、刺青男が向こう側の席に座ってよかったと少し安堵する。


 ただ、刺青男は俺の正面にいる。気を抜くとすぐ刺青に目が行ってしまう。見ていると突っかかって来られそうな気がしたので、刺青男の後ろの本棚に視線を集中させる。刺青男は、子供のように周囲を見回している。しかし、無邪気ではない。


 ちらりと横を見ると、眼鏡男はずっとスマートフォンを見ていた。刺青男に食ってかかられないか心配になる。壁掛け時計を見上げると、十三時二十八分を指している。プログラムの開始予定時間まであと二分だ。


 ドアがそっと開く。入ってきた女を見て、俺は目を瞬かせる。ライトブラウンの髪は、緩く巻かれていて、薄黄色のフリルのカットソーが檸檬のように瑞々しい。少し頬は下がっているが、薄紅のグロスが塗られた唇が若々しく、そして、なによりも目元の小さな黒子。


 ふっと脳裏に記憶が浮かんだ。生暖かいエアコンの風。硬いソファの座り心地。よれよれのスウェット。木目調に塗られた柵。あの時はじっと見ることができなかったが、今は遮蔽するものは何もない。俺は彼女を凝視する。彼女は、俺の方を見て少し笑った。


 しかし、続いたのは、「乃坂さん、今回もよろしくお願いします」という言葉。その微笑は俺ではなく乃坂に向けられたものだと気づくと、胸に小さな穴が開いた気分になった。彼女は、刺青男の隣に座った。前髪をかき上げる。動じている様子は見られない。






 ドアを開けて驚いた。座っている四人の中にうっすらと見覚えのある顔がいたからだ。一重瞼に厚い唇。肌は手入れがなされていないのか、そばかすだらけだ。こうして近くで見ると、覚えていたよりも小さい。彼の名前は確か、弓木峻。記憶は徐々に鮮明になっていく。裁判官に自分の名前を聞かれて、消えそうな声でそう言っていた。見た目があの時と全く変わっていない。刑務所には時を止める効果でもあるのだろうか。


 しかし、彼の服装はどうだろう。ワイシャツにスラックス。ここは会社ではないのだから。袖のボタンもきっちり締めていて、真面目だ。ワイシャツに皴は少なく、クリーニングに出したかのようだ。きっと彼は彼なりに緊張しているのだ。だから精一杯身なりを整えて、ここに来たのだ。彼は私をじっと見ていて動かない。彼がじたばたしている様子を思い浮かべると、自然と笑みがこぼれた。彼の目は大きく開く。


 奥に乃坂さんがいたので、私は挨拶をする。ペンを持っている磐城さんにも、ホワイトボードを細かく動かしていた綿地さんにも。彼の隣には気まずくて行けないので、私は筋肉質な腕が印象的な男の人の横に座った。チラチラと右腕の刺青が見えたけれど、あまり気にならなかった。耳の丸ピアスがかえってチャーミングなくらいだ。詳細は分からないが、いい匂いもする。


 壁掛け時計を見上げると、ちょうど十三時三十分になった。乃坂さんがホワイトボードの横、机の正面に立つ。ショートの黒髪が相変わらず艶めいている。どんなトリートメントを使っているのだろう。


「それでは、第一回の当事者グループプログラムを始めます」


 乃坂さんがハキハキした声で言った。斜め前に座った彼は、背筋を伸ばしたけれど、まだ少し丸まっていた。


 半年間の長いプログラムが始まる。



続く


次回:【小説】アディクト・イン・ザ・ダーク(11)

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