見出し画像

【小説】連れていく(8)



前回:【小説】連れていく(7)




 梨絵がスマートフォンを見ながら、バス停から離れていく。佳織から見た梨絵の背中は、その身長よりも小さく、頼りなく見えた。梨絵は、角を曲がって路地に入った。車一台通るのがやっと、という道だ。潮風で塗装が剥げかけている家々が、回廊のように続いている。潮が植物につかないように、下ろされた簾。遠くに見える山。きょうび見ない、タバコ屋の青い幕。パンダグラフのように、込み入った電線。


 少し進むと、梨絵はさらに狭い路地に入っていった。手を広げると、家の壁に触れてしまいそうなほどの道幅は、自動車が通ることは完全に不可能そうだ。まだ木造の家々が、覆いかぶさるように二人を隔離させる。日光も届かず昼間だというのに、影になって薄暗い。途中、脇道があって一瞬だけ光が差した。


「ほんまにこの道で合っとんの?」


「大丈夫ですよ、もうすぐ階段に着くと思います。でも、思っていた以上に暗いですね。アニメではほんのり日が差し込む、みたいな感じだったんですけど。やっぱりアニメと現実は、ちょっと違いますね。すいません、こんなところ歩かせちゃって」


「ええって。なかなかこない海沿いの街の路地を歩く機会ないやろ。あたしが暮らしとる大阪とは違うて、時間がシンプルに流れる感じするわ」


 二人がささやかな探検を続けていると、目の前が明るく開けた。路地の先には石の鳥居と石段があり、神社とも寺ともわからない建物が、太陽に照らされている。日光を反射する石段は、燦燦という言葉がふさわしく、地中から出たばかりのように目眩がするほどだった。それでも、上らなければ始まらない。梨絵は、スマートフォンをしまい、気合いを入れ直す。


「この先が田土浦坐神社です。そこからの眺めが『ひるね姫』に出てきた、街を見下ろせる光景です。じゃあ上りましょうか」


 最初は、意気揚々と石段を登っていた梨絵だったが、急な勾配に途中で息切れした様子だった。手すりは太陽に照らされ続けて熱く、触るわけにはいかない。「すいません、先行っててください」と梨絵は佳織に告げる。佳織が梨絵に並んで「大丈夫」と声をかけようとしたその瞬間、佳織の視界は一気に開けた。階段から、下津井港の光景を見渡すことができたのだ。


 自分たちを閉じ込めていた家々は、今は瓦屋根でしかなく、日光におぼろげに包まれていた。瀬戸大橋のワイヤーも同じ目線で、くっきりと見える。瀬戸内海は静かに光を湛えていて、息を呑むほどの存在感である。バス停からは見えなかった島と海の境界線も鮮明だ。


 
「なぁ、横見てみ。瀬戸内海が一望できるで」


 言われたままに横を向いた梨絵。しばらく肩で息をしながら、目の前に広がる光景を眺めていた。


「そうです!ここですよ!映画のオープニングで、ココネが降りていったのは!いや、本当に良い光景ですね。思わず言葉を失ってしまうくらい」


 興奮気味に語る梨絵に、先ほどまでの疲れは、あまり見られなかった。なんてことのない笑顔が、日差しを浴びて弾けるように、佳織には感じられた。


 
「神社まではあとちょっとやな。先に行っとるから、自分のペースで上うてきてや」


「分かりました。ここまで来たらあとちょっと。がんばります」


 お互いを励ましあいながら、二人は田土浦坐神社の、本殿に辿り着いた。特殊な飾りもない、近所にいくらでもあるような神社である。鈴も何もなかったけれど、一応賽銭を入れて、参拝を済ませる。すぐ隣と言ってもいいほどの近くに瀬戸大橋が通っており、車の走行音まで聞こえた。淡く水彩画のような海は、どこまでも続いている。


「あれが四国?にしては小さいなぁ」


「門司さん、あれは四国じゃなくて、櫃石島っていう島ですよ。あっちの方は、もう香川県ですね」


「別に知っとるて、そんくらい。ちょい自分を試しただけやから」


「どうですかね」


 二人は和やかな表情を浮かべ、眼下に広がる光景を眺めた。浮き上がってくる風が一筋吹いて、神社の木をかすかにさざめかせていた。




 


 一時間前にバスで通った道を、二人は歩く。途中、梨絵は何度もスマートフォンを構えていた。


「この建物もアニメに出てきた」


「でも、船は修理してないな」


「そういえば、タコも干されてない。旬じゃないのかな」


 まるで佳織がいないかのように、独り言を連発する梨絵。しかし、それは梨絵の素顔なのだろう。邪魔をしてはいけない。佳織は何も言わず、梨絵の後ろについていく。二人は、まるで先輩後輩の関係のようでもあった。


 バス停を三つほど過ぎた後、横断歩道のすぐ上に「むかし下津井回船問屋 すぐ」という標識が見えた。佳織が矢印の指し示す方向を見ると、そこには何百年前の雰囲気を残した建物が並んでいる。漆喰で塗り固められた白壁に挟まれた、格子状のなまこ壁。瓦葺きの建物は、家というよりも、蔵と言ったほうが相応しい。先ほどまでの路地とは懐かしさの種類が違う、と佳織は感じた。


 やや屈みながら門をくぐると、辺り一面に情緒がちりばめられていた。扇状に広がる石畳に沿って、土蔵が二人を囲んでいる。梨絵は、経験したことがないはずなのに、懐かしさを覚えている自分が、不思議だった。海辺の街並みに突然現れたエアポケット。周囲とは明らかに、時間の流れが違う。佳織には、それが空から降ってきて、ちょうどそこに収まったように感じられた。


 背後の蔵に吸い込まれるようにして入ると、二階に向かう階段に、写真パネルがびっしりと敷き詰められていた。ほの暗い蔵の中、バックライトに照らされて、どこかホラー映画のような不気味さがある。天井に照明はなく、夏の日差しが時折こぼれるのみ。乾いた空気は、漆喰に湿気が吸収されているからだろうか。梨絵には、頬に当たる空気が、どこか涼しく感じられた。


 二人はいくつか蔵を回る。館内には当然、地域の歴史的な物品が展示されていた。一つ一つが、かつての産業や生活を、静かに物語っている。干拓された下津井では藍や綿花が栽培されており、肥料に使われたのが、北前船で運ばれてきたニシンの粕であった。ニシン蔵なるものまで建ち、かつての産業が国産ジーンズ発祥の地・児島につながっている。説明を要約するとこんなところだろうか。佳織の目は文字を追っていたが、肝心の内容はそれほど頭に入ってこない。


 ミニチュアで再現された北前船も、ボタンを押すと光る当時の街並みも、それ以上の意味を、二人には感じさせなかった。母屋に入っても、展示物を目で追うだけで、当時の暮らしに思いを馳せる余裕は、少なくとも佳織にはなかった。それでも、梨絵は時折立ち止まっていたので、もしかしたら空想に耽っていたのかもしれない。


 母屋の二階には和室もあり、自由に出入りすることができるようになっていた。窓際の机の上には一冊のノートが置かれている。誰でも書き込んでいいらしく、日本語と少しのアルファベットが記されていた。「せっかくやし、何か書こうや」と言い出したのは、佳織である。それを聞いた梨絵は、森川ココネの画像をスマートフォンで検索し、鉛筆を走らせた。無造作に引かれていくように見えた線は、瞬く間に髪に、輪郭に、表情になっていき、佳織は驚嘆した。梨絵の手元を眺めているだけで、佳織の心はにわかに動き出すようだった。


 一〇分もしないうちに、バストアップの森川ココネは描きあがり、「ひるね姫聖地巡礼記念」と梨絵が書いた下に、二人は名前を書き記した。梨絵のみならず、佳織もノートの写真を撮った。ノートの森川ココネは、直線的な眼差しで二人を見つめている。


「自分、めっちゃ絵上手いやん。どっか専門学校にでも通っとったん?」


「いえ、どこにも行ってないです。ただ普通の高校をなんとなく卒業して、平凡な大学をあっという間に通り過ぎただけです」


「せやけど、こんだけ絵が描けるなんて凄いやん。高校は美術部やったの?」


「まあ、美術部に入ってはいたんですけど、何の賞を獲ることもなく……。先輩たちと上手くいかずに、半年で辞めちゃいました」


「そっか……。しんどいこと思い出させてもうたね」


「いえいえ、大丈夫ですよ。本当のことですから」


 梨絵は窓の外を眺めた。塗装が落ちかかった木造の外壁の下に、自転車が立てかけられている。電線が弛みなく通っていて、鳥が数羽止まっていた。山の稜線が木に隠れてはっきりとは見えず、降り注ぐ日差しは無慈悲に輝いている。夏。誰に言われるでもなく与えられ、過ぎ去っていく季節。輝ける者はより輝かしく。そうでない者はより惨たらしく。梨絵はノートに目をやった。ただの線と点の集合体は、崩れ落ちるような言葉を、梨絵にかけてくれるはずもない。束の間言葉を失った梨絵を、佳織は慮る。


「どないしたん?具合悪いんか?ちょい休むか?」


 佳織の暖かい言葉。ただありがたい。それでも、言うならこのタイミングだ。梨絵は直感した。


「いえ、いいんです。門司さん、私、会社を辞めて来たんです」


 梨絵の視線は、白くなった畳に向けられている。佳織は何か梨絵に話しかけようとしたが、言葉は脳で堰止められて、命を与えられることはない。


「毎日一生懸命仕事をしていただけなのに、周囲からはどんどん引き離されていって。上司の当たりもきつくなって。同僚はそんな私を、思いやってくれたけど、それがかえって負担で。私はここにいていいんだろうか。いるだけで周囲に迷惑をかけてるんじゃないか。そう思うと会社にいられなくなって。結局はいつものように逃げて。バカの一つ覚えみたいに逃げ続けて。三年間働いた会社を辞める日に、何にも変わらない職場を見て、急に情けなくなりました。私は何も残せていない。この三年間は何だったんだろうって」


 そこまで言い切ると梨絵は、佳織の方を向いた。目が潤んでいる。


「何言うとんねん。自分、まだ二〇代やろ。いや、分からへんけど。人生まだまだあるんやから。それに人間いうのはな、こけた方が強うなるようにできてんねん。自分かてまだ大丈夫やって」


「もしずっと転んだままだったら。起き上がれなかったら、どうすればいいんですか。そのまま消えるしかありませんよね」


 梨絵の表情が歪んでいく。佳織は何も言わない。言えるはずがない。


「すいません、急にこんな話してしまって。迷惑でしたよね。聞かなかったことにしてください」


 そう気丈に振る舞おうとしても、膝の上に置かれた梨絵の手は、震えていた。佳織はそっと梨絵の手の上に、自らの手の平を重ね合わせた。梨絵の震えが直に伝わってくる。佳織にはその震えを収めることはせず、ただ添えるだけしかできない。暖かい雫が、ぽつりと落ちた。



続く



次回:【小説】連れていく(9)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?