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【小説】連れていく(9)



前回:【小説】連れていく(8)



 児島駅に戻る途中も、梨絵は一言も話さなかった。バスが来るのが三〇分後であったから、タクシーで戻ろうかと佳織が提案しても、ただ頷くだけで、車内でも外の景色を見るわけでもなく、時折スマートフォンを見る以外はずっと沈んでいた。タクシーは海辺を走り去り、内地に入っていく。運転手があまり話しかけてこないタイプで助かった。料金は全て佳織が支払った。タクシーから降りるときも、梨絵は申し訳なさそうにそっと降りた。


 三時間ぶりに戻ってきた児島駅は、やはりジーンズにまみれていた。青春18きっぷを見せて改札を通る二人。梨絵が確認のために見上げると、岡山行きの列車はあと一〇分ほどで出るらしかった。向かって右の階段を上った二番線からだ。それにもかかわらず佳織は三番線・四番線に向かう左の階段を上り始めた。


「門司さん……どこに行くんですか……。岡山行きの列車は反対の二番線からですよね……」


 三〇分ぶりに梨絵が口を開くと、階段を上る途中で、佳織は立ち止まった。振り返る佳織。その先にうっすらと、水色の列車が見える。


「ええからついてきて。ええもん見れるから。たぶん止まってると思うんやけど」


 佳織は再び階段を上り始めた。梨絵も仕方なくついていく。登り切ると四番線に、一台の列車が停まっていた。水色の列車に描かれていたキャラクターに梨絵は、いやおそらく多くの日本人は、見覚えがある。ドアに描かれていたのは、かの有名なアンパンマン。しょくぱんまんやカレーパンまんなどの仲間たち、ばいきんまんやドキンちゃんらといった相手方も含めて、楽しい仲間たちが列車の側面に描かれていた。梨絵は、しばしその列車を見つめる。家族連れが一組、列車の中に入っていく。男の子が気分良く、はしゃいでいた。


「国鉄キクハ32号。通称〝アンパンマントロッコ〟。四国を中心に運行されとるアンパンマン列車の中でも、瀬戸大橋を通るのは、この列車だけなんよ」


 広い窓の向こうでは、子供が木のベンチに座って、親に惜しみない笑顔を向けていた。キャラクターが車内にも描かれ、子供たちの歓声が、列車から溢れ出している。


「これから乗るんですか……?」


「いや、この列車はグリーン車扱いやから、18きっぷやと乗れへん。ただ、自分に見てもらおう思て。こないなの好きかなって」


 子供たちの喜ぶ顔が、窓越しにでも伝わってくる。嬉しくて仕方がないという顔だ。その笑顔に触発されて大人たちも、笑顔になっている。純粋な喜びだけで、列車が、ホームが満たされている。


「門司さん、ありがとうございます。こんな良い列車を見せてくれて」


「ええって。喜んでもらえて嬉しいわ。アニメよう知らんあたしでも、アンパンマンぐらいは知っとるもんなぁ。なんか童心に帰る感じがするわ。せや、写真撮ろ」


「え……でも……」


 
「自分かて、アンパンマントロッコと、一緒に写真撮りたいやろ。この期に及んで、遠慮すっことないやん。ほら、スマホ貸しぃや」


 梨絵は少しためらったが、言われるがままにスマートフォンを、佳織に渡した。アンパンマントロッコの横まで歩く。なんとか顔を上げることはできたけれど、スマートフォンを直視することはできない。


「ほら、こっち向きぃや。ほら、笑顔。せっかく写真を撮るんやから、ええ表情で収まりたいやん。昨日みたいにしてくれれば、それでええから。たとえ、作り笑いやったとしても」


 無理やりにでも笑顔を作る。きっとうまく笑えていないだろうと、梨絵は硬い顔をしながら感じた。佳織が「はい、チーズ」と言って写真を撮った。数枚撮って、梨絵は佳織と写真を確認する。やはり、上手く笑えていなかった。それでも佳織は、


「うん、若干ひきつっとるけど、ええ笑顔や。写真いうのは、見返したときに笑顔かちゃうかで、印象もだいぶ変わるもんなぁ。笑顔なだけで、心がちょいぬくなる」


 と梨絵をそれとなく元気づける。「次はあたしの番やな」と言って、佳織からスマートフォンを渡される梨絵。佳織がアンパンマントロッコに歩いていくのを梨絵は、穏やかな表情で見つめていた。スマートフォンの中の佳織は、朗らかにピースサインをしている。梨絵は、そっとシャッターボタンをタップした。





 海沿いの線路を、銀色の呉線が走っている。前面に赤が主張するその列車は、JR西日本227系電車。通称〝レッドウイング〟。二〇一四年から運用を開始した、JR西日本の新型車両だ。椅子は落ち着いた薄めのえんじ色。二人掛けのクロスシートに、佳織と梨絵は座っていた。佳織が窓側で、梨絵が通路側。最初はまだ憂鬱を引きずっている梨絵に、佳織が窓際の席を勧めたのだが、梨絵が難色を示したので、しょうがないと佳織が窓際に座ったのだ。緩やかなカーブに揺られる二人。梨絵は肘掛けに肘を置いて、スマートフォンでゲームに興じていた。せっかく、窓の外には瀬戸内海が、間近に広がっているというのに。


「なぁ、車窓見てみぃや。海が見えんで」


 佳織に促されるまま、梨絵は外を見てみた。佳織越しに見る瀬戸内海は、夕日を反射して、光の波をはためかせている。島々はほんのりと薄暗く、どこか物憂げである。俯瞰して見るよりも、海面が揺れて見える分、真に迫ってくる様子はあったが、道を歩いた時に感じられた潮の匂いはない。つまりは、どっちつかずのように、梨絵には感じられた。それでも、佳織は車窓の風景に見入っている様子だった。梨絵の元を振り向かずに、言う。


 
「海が夕日に照らされとって綺麗やなぁ。命の輝きみたいなもんを感じるわ。これは新幹線や山陽本線やと見られへん光景やな。呉線に乗うてえかったわ」


「命の輝き、ですか。確かに、良い眺めですけど、それを見るために、わざわざこんな遠回りをしてるんですね」


「せやで、鈍行で遠回りいうのは鉄道旅の真髄やし。新幹線や特急でワープしとったら、なかなか感じられん味があるからなぁ」


  
 少しの皮肉を含んだ言い方も、佳織には通用しないようだ。梨絵はため息をついた。児島駅を出発してからもう二時間以上が経っている。ずっと座っていて、臀部も大分、凝り固まってきた。ずっとゲームやSNSをしていたおかげで、スマートフォンの充電は残り一五%しかない。二つ持ってきたモバイルバッテリーも、使い果たしてしまった。海辺の風景も、気分を持ち直すには心もとない。


「門司さん、広島駅に着くまで、あとどのくらいかかるんですか」


「この列車は広駅どまりやから、乗り換え時間も含めんなら、あと二時間はかかるんちゃう」


 二時間。まだ折り返し時点に過ぎないということか。梨絵は気が遠くなるような思いがした。聞いたら、さらに途方もない思いに暮れるのだろうと思いながらも、もう一つ佳織に質問をしてみる。


「あの、ちなみに新幹線で行ったら、どれくらいで済むんでしょうか」


「岡山から広島までなら、たぶん一時間もかからんのとちゃう。景色を抜きにしたらの話やけど」


 佳織はあっさりと言っていたが、梨絵は笑うことができなかった。実に四倍、いや五倍以上だ。この呉線にそこまでの代償を払う必要があるとは、やはり思えない。梨絵は、佳織に怪訝な眼差しを向けた。文句をそれとなく内包するように。


「こんなん気にしてたら、アカンんやけどね。何しとんいう話なるから。まぁ眠いんなら、寝ててもええよ。着いたら起こしたるから」


「今は別に眠くないです。それよりもあと二時間もあるんですね。今日だけで、六時間以上も列車に乗って。殊勝と言うかなんというか……」


「何?不満なん?」


「いや、そういうことじゃないんですけど……」


  
 227系は相変わらず、海沿いを行く。風景が変わっていくのが、島々の移り変わりで分かる。梨絵が慌てて弁解するのを見て、佳織は少しだけ吹き出してしまった。


「まぁ、確かに殊勝いえば、殊勝なんかもしれんなぁ。変わり者ともいえるけど。きょうび、こないな旅しとる人そないおらんもんなぁ」


 頷いていいのかどうか、梨絵が判断に迷っていると、「でもな」と、佳織は続けた。景色を見ながら、誰に宛てるわけでもなく。


「あたしにとって列車に乗るいうことは、それ自体が目的なんや。大体の人は鉄道を、ただ地点から地点へと移動する手段いう風に考えとって、辿り着くことが目的なんやろうけど、あたしはちゃう。多少時間はかかっとっても、普通列車や鈍行に乗うて、多種多様な車窓を眺めたりな、列車が走ぃとるとこを俯瞰で想像したり、列車の揺れに眠うなんのを我慢したり。そう一交通機関としての鉄道とはまたちゃう、瞬間瞬間が思い出になる感動を恵んでくれる、鉄道に乗るいう体験を味わいたいんや。そのためには、自分から乗りに行かんとな」


 しみじみ呟く佳織。夕陽が山影に隠れ始めて、海が輝きを失い始めている。


「自分かてそうやろ?あたしはによう分からんけど、自分が好きいうんはアニメそのものよりも、アニメを見るいう体験なんとちゃうの。舞台となった場所を巡るんも、アニメを追体験したいからやないの?それってめっちゃ素敵なことや思う。他の人が作ったものが、自分事になっとるいうか。そういう意味じゃ、鉄道と同じなんかもしれんね」


 梨絵は思い出を反芻していた。親に見つからないように、音量を小さくして耳を澄ませていた子供の頃も。一人、四畳半で座りながら見ている今も。映画館で複数の人と同じ作品を共有しているときも。梨絵は、アニメを見ることで楽しんでいた。好きになっていた。その原点に立ち返ったとき、梨絵には暗くなり始めた海が、キラキラと光り出したように見えた。頭の中に浮かんだ言葉を、思い切って声に出してみる。


「門司さん、私、広島に行くって言いましたよね」


「それがどうかしたん?」


「実は、広島に行く理由も、アニメなんです。広島では今、広島国際アニメーションフェスティバルというイベントが開催されていて、それを見に行くんです」


 そう言って、梨絵はハンドバッグの中から、薄水色のチケットを取り出した。佳織が見ると、確かにイベント名と、「一日券」という文字が記載されている。細々とした注意事項も少し。


「映画祭は夜までやってるんですよね。どうせなら、できる限りいたいと思ってるんですけど……。えっ……大丈夫ですよね……?私、何もおかしくないですよね……?」


「うん、全く普通や思う。旅する理由いうんは人それぞれやし、そこに正しいもおかしいもない。自分がそうしたい思うやったら、それでええて」


 「ありがとうございますと梨絵が言う頃には、もう列車は海を離れ、内地を走行していた。車窓からは会社の社屋が多く見える。それでも、梨絵は心強さを感じていた。前の会社にも、自分がアニメが好きなんて言ったことはなかった。茶化されるのが、怖かったからだ。横に座って景色を見ている佳織は、梨絵を単純に肯定してくれる。それは梨絵にとって、何物にも代えられない心地よさだった。列車が、左右に不規則に揺れている。梨絵は瞼を閉じた。暗闇がぼんやりと霞んでいく。佳織は無言で、時折、梨絵の方をちらりと振り返っては、また車窓に視線を戻していた。 



 

 

 シャワーを浴び終わると、佳織は動きやすいTシャツに着替えて、ホテル内の自動販売機で購入した缶ビールを開けた。冷房の風が、袖を小さく揺らしている。ベッドは、昨日よりも柔らかな心地。さすが一泊一万円の価値はある。佳織は缶ビールを一口飲んで、大きくため息をついた。空気清浄機を通した空気は、涼やかで胸がすくようだ。


 このまま寝ても問題はない。一二時集合だから、早く起きる必要もない。それでも、佳織は充電器に接続されたスマートフォンに手を伸ばした。開くのはもちろんラインだ。


〝起きとる?〟


 日付が変わるまではあと一時間に迫っていた。外も静まり返っている。既読はなかなかつかない。まあいいか。もともと壁に呟くつもりで、打ち込んだメッセージだ。どうせ明日会えるんだし。佳織はスマートフォンを枕元に置き、布団に潜り込む。眠ろうと目を閉じた瞬間、スマートフォンの振動が聞こえた。


〝うん、起きとんで。まだ寝るような時間ちゃうしな〟


 伊藤からラインが返ってくると、佳織は飛び起き、すぐに既読をつけた。


〝今日どうやった?目当ての列車には乗れたか?〟


 連続してメッセージが送られてくる。デフォルメされたクマのスタンプと一緒に。佳織も同じクマのスタンプを返した。 


 
〝キハ37もキハ38も懐かしゅうて、ええ乗り心地やった。鉄道旅はこない出会いがあるから止められんな〟


〝そらええな〟


〝あとな、今日は鉄道以外にもいろんなとこに行ったんよ。例えばな、岡山の下津井いうとこ。瀬戸大橋が間近に見えんの。迫力あったなぁ〟


 そこから佳織は今日の出来事について、伊藤にラインを送り続けた。その都度、伊藤は適度な相槌を返してくれるので、書いていて気持ちがいい。書きたいことはいくらでもあり、時間を忘れてラインを送って、気がつくと日付が変わっていた。うつらうつらする瞬間も、増えてきている。重たい頭で佳織は、伊藤にこう送った。


〝明日は、一二時に広島駅の北口やんな?〟


〝すまん、それ、夕方四時に変えられへんかな〟


 伊藤の突然の提案。佳織のもやがかかった頭は、余計なことは考えなかった。幸か不幸かは知らない。


〝うん、ええで〟


〝ありがとな。北口出たとこに「朝」いうタイトルの像があるはずやから、そこで待っとって。遅れんようにするから〟


〝了解!ほな、おやすみー〟


〝おやすみ、また明日な〟


 「また明日」という言葉の感触を味わいながら、佳織は目を閉じた。四時間の空白ができたけれど、なんとでもなるだろう。八ヶ月ぶりに会えることには変わりない。一緒にいられればそれで十分だ。そう夢みたいに考えているうちに、佳織は眠りについた。伊藤と、広島の街を歩く夢を見た。見上げる伊藤はいつだって笑顔だった。佳織も自然と笑顔になる。どこへ行くかも、分からない散歩。持続する二人の時間。


 もしかしたら、それは佳織の願望が見せた、最後の幻だったのかもしれない。



続く

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