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【小説】アディクト・イン・ザ・ダーク(12)



前回:【小説】アディクト・イン・ザ・ダーク(11)



 その日は朝から雨が降っていた。道路の脇に小さな川ができるほどの激しい降り方だった。気温も急激に下がって、羽織るものが必須となっていた。俺は、バスで会場に向かった。バスから降りると、傘からはみ出たワイシャツの袖がすぐに濡れた。階段を上がる。部屋に入ると四人全員が一人も欠けることなく待っていた。六角の服は雨に濡れ、熊谷の腕には龍が汗を垂らすように、水滴が落ちている。深津はあまり濡れていない。高咲さんはまた菓子を食べていた。


 俺は、バッグから卓上カレンダーを取り出す。上は少しふやけてしまっているそれに、シールを貼った。七日間、全て青のシールだ。そして、これまでの二一日もすべて青い。そして、それは他の四人も。ここまでの三回で、誰も赤や黄色のシールを貼っておらず、プログラムの前には「今週は一週間、薬物を使わずに過ごすことができました」というのが常套句となっている。それを聞いて、この日も、全員のカレンダーは青かった。


「皆さん、一週間無事に過ごせていますね。この調子で今週も続けていきましょう」


 プログラムは始まる。今回のテーマは薬物を使用してしまう「引き金」について。「引き金」には外的と内的の二種類があると言い、この日は自分を取り巻く環境の中にある「外的な引き金」についてのプログラムだった。ワークブックに列挙された外的な引き金のうち、俺は六個当てはまっていた。


 乃坂がワークブックを読んでいく。「この人だけは絶対に悲しませたくない」「この人の前では薬物やアルコールを使えない」。そんな人、今の俺にはいない。親だって俺を信用していないし、たとえ目の前で薬物を使ってみせても、うろたえることなく警察に通報するだけだろう。俺の周りには誰もいないのだ。今も昔も。南渕先輩と小絵さんを除いては。


 プログラムの最後に「引き金」と薬物を使わずに押しとどめる「錨」についての一覧表を書く機会があった。俺は「たいてい使っていた」の欄に「職場の先輩といるとき」「火曜日と金曜日」「自慰行為」と書いた。しかし、発表できたのは二つだけだった。「女性向けのアダルトビデオを見ているとき」と恥ずかしげもなく語っていた高咲さんを羨む。


 六角と深津が発表して、最後は熊谷の番になった。熊谷は相変わらず、椅子を引いたまま仕舞わない。ホワイトボードを一瞬見て、吐き捨てるような口調で発表を始めた。


「『いつも使っていた』人は、昔の彼女。場所は家。状況は飲んでいるとき。『たいてい使っていた』人は、職場の同僚。場所は同僚の車。状況は駐車場でカーラジオを聞きながら。『ほとんど使わなかった』と『決して使わなかった』はねぇよ」


 ワークブックから片時も目を話すことなく、言ってやっているという雰囲気のまま、熊谷の発表は終わった。椅子に座る隣で、高咲さんが頷いていた。高咲さんは全ての発表の後に頷くようにしているらしい。そうやって反芻しているのだろうか。乃坂は、熊谷の冷たい態度にも負けることなく、友和的な声で


「熊谷さん、ありがとうございました。正直に言うのは勇気がいることだったと思います。でも、今回『引き金』を認識したことで、熊谷さんもそれを避ける生活ができるようになります。ぜひ、気をつけて日々を過ごしてください」


 と言う。仕事と割り切っていては、決して出てこない熱意を感じた。


「では、皆さんも今回確認した引き金をなるべく避けて、まずは今日の残りを過ごしてみてください。経過はまた来週聞かせてくださいね。では、最後に尿検査を行います。キットを配りますので、準備のできた方から採尿をしてきてください」


 乃坂の挨拶が終わった後、一番にトイレに向かったのは熊谷だった。これまでの四回すべてで熊谷が最初に採尿を済ませている。俺は、貰ったペットボトルの茶を一気に流し込んだ。むせてしまって、それを見た高咲さんが「大丈夫ですか」とハンカチを持って、机の反対側まで駆けつけてくれた。ハンカチには、テディベアの刺繍がなされていた。





 プログラムが終わっても、雨は降り続いていた。多少弱くなったとはいえ、道行く人は全員傘を差している。俺はガラス張りの建物の前にあるバス停へと向かう。バス停に着くと、そこには熊谷がいた。コンビニで売られているようなビニール傘を差して、スマートフォンを見ている。俺は、少し距離を置いて、同じようにスマートフォンを取り出した。SNSにも飽きて空を見上げる。大きなパラボラアンテナに雨が滴っていた。


「あれ?弓木さんと熊谷さんじゃないですか」


 声の方を見ると、高咲さんがベージュのチェックの傘を持って立っていた。カーキ色のローファーが雨を存分に弾いている。


「奇遇ですね。お二人ともお家はこちらの方向なんですか?」


「いや、私は駅前に住んでるんですけど、今日は雨が降っていたのでバスの方がいいかなと思いまして」


「そうですか、弓木さんいつも自転車で来てますもんね。熊谷さんもそうですか」


「別にそんなのどうだっていいだろ。話しかけてくんなよ」


 そう吐き捨てると、熊谷はバッグから音楽プレイヤーを取り出して、ワイヤレスのイヤフォンを耳にはめた。音楽プレイヤーには髑髏のシールに、刺々しいバンド名のステッカーがいくつも貼られていた。熊谷はそのまま正面を見てポケットに手を突っ込んで立っている。俺は高咲さんと顔を見合わせる。高咲さんは少し困ったように首を傾げていた。そして、その向こうに白いバスが見えた。


 バスの中には四人しかおらず、どこでも好きな席を選ぶことができた。俺は後ろから二番目の席に座った。高咲さんは俺の反対側の列に座って、一つ大きな欠伸をした。熊谷は前の席に座っている。窓には「優先席」と書かれている。


「どうですか?弓木さん。プログラムにはだいぶ慣れてきましたか?」


 高咲さんが身を一杯に乗り出して話しかけてくる。


「そうですね……。何となく雰囲気は分かってきたんですけど、まだ少し慣れてないかもしれないです」


「でも、お菓子もあって和やかな雰囲気でしょう」


「確かにこんなにリラックスしたプログラムだとは思っていなかったですね。もっと厳しいのかと」


「乃坂さんも言ってましたけど、大事なのは来続けることですからね。私も打ち解けるまでに二ヶ月ぐらいかかりましたし、弓木さんもきっと大丈夫ですよ」


 高咲さんが胸の前で拳を握って俺に見せてくれた。きめ細かな肌に、銀のリングはついていない。


「ところで、弓木さんこの後時間あります?」


「あるといえばありますけど」


「よかった!じゃあこれからちょっと付き合ってくれません?」


「え……。どこにですか?」


「買い物ですよ、買い物」


 バスは止まらずに走っていく。料金メーターが、また一つ上がった。




 駅前に着くころには、雨はさらに弱まっていた。道行く人々も傘を差す人差さない人がちょうど半々だ。俺たちは最後に降りた。バスを降り、振り返ると、スクランブル交差点を渡っていく熊谷が見えた。相変わらずポケットから手を出していない。


「弓木さん、どこ見てるんですか。行きましょう」


 高咲さんが足早に歩くのを、俺は慌てて追いかけた。七年前と変わらない信号機のメロディ。




 上りエスカレータを降りると、そこはたくさんの人でごった返していた。四角いブースが碁盤状に並んでいて、ジンギスカンが焼かれ、刺身が切られていた。揚げたてのコロッケの匂いが、嗅覚を刺激する。目の前を、ケーキの箱を持った女性が通り過ぎる。見上げると、幕には「北海道物産展」と書かれていた。


「あの、高咲さん。これって……」


「だから買い物ですよ、買い物。ほら、早くしないとなくなっちゃいますよ」


 高咲さんの足取りは軽く、どんなに人が多くてもすいすい分け入ってしまう。松前漬けを試食している高咲さん。店員のおじさんと何やら楽しげに話し、乗せられたのかあっさり購入していた。その後も高咲さんは試食を繰り返し、気に入ったものは買い、気づくと両手に紙袋を二つずつ持っていた。俺はコロッケを一つ買った。


「はい、これ弓木さんの分です」と言って、高咲さんは休憩のために座ったテーブルで、俺に弁当を渡してくれた。中は海鮮ちらし寿司で、錦糸卵の上に、エビやマグロ、イクラなどが散りばめられていた。思わず「いいんですか、いただいて」と上ずった声で言ってしまう。高咲さんは笑って、「どうぞいただいてください」と、俺に割り箸を差し出す。


 通りかかった五歳くらいの子供が、俺たちの方をちらっと向いた。指をくわえながら「ママー、あの人たち仲良ししてる」と言っていた。俺は少し肩をすぼめた。高咲さんもまた、同じように肩をすぼめていた。





 駅前の映画館は少し寂れていて、それでも、劇場内のコンクリートの床を歩くと、その硬い感触に懐かしさを覚えた。七年前、俺が来なくなってからも、この映画感は何とか続けてこられたらしい。もうとっくに潰れていたと思っていたので安堵する。


 高咲さんが観たいと言った映画はやはりホラー映画で、幽霊が出てくる度に、俺の体は震えた。悲鳴がコンクリートに反響して、より大きく聞こえる。隣の高咲さんは大げさに驚くこともなく、むしろ笑ってすらいた。館内には俺たちの他には誰もいない。幽霊は主人公に近づいていく。今、後ろから肩に手を置かれたら、腰を抜かしてしまうだろう。


 
「面白かったですね。でも、怖い怖いって言われていたわりには怖さはイマイチでしたね。まぁR指定がついていないので仕方のない部分はあるんですけど」


 映画が終わり、高咲さんはこともなげに言う。俺は途中から逃げ出したい思いに駆られたというのに。


「そうですか、すごく怖くなかったですか。特に幽霊が後ろから主人公の口を塞ぐところとか」


「うーん。まぁ怖かったですけど、あの手の驚かし方ってベタですからね。でも、変に捻らずにストレートにやっていたのはよかったと思います。そうそう、これシリーズものの三作目なんですよ。前に二つあるんですけど、観たことありますか?」


「すみません、ホラーはちょっと苦手で」


「そうだったんですか。嫌な思いさせてしまいましたね。こちらこそすみません」


「いえいえ、いいんですよ。僕も楽しかったですし、思ってたより面白かったです」


「それなら、よかったです」


 俺たちは並んで歩いていた。俺と高咲さんは同じくらいの背丈だった。目線の高さが一緒だと、余計な力関係を生まずに済む。普段なら言えないことも、高咲さんになら話せそうな気がした。


 角を曲がって、駅が見えたところで、ビルの地下階段から三人の男が出てきた。ひどく上機嫌で、中身のない話をしては喧しい笑い声をあげて、周囲から嫌悪の目で見られていた。見覚えのある右腕。熊谷の姿もあった。一回り下の男たちと馬鹿に大きい声で騒いでいる。隣の男の髪は赤かった。


「熊谷さーん」と高咲さんが大きく手を振る。三回その名前を口にしたところで、赤髪の男が振り向いた。


「熊さん。呼ばれてるっすよ」


「誰っすか、あの女。知り合いっすか?」


 もう一人の男の唇にはピアスが刺さっている。熊谷は振り向くと「別に。あんなヤツ知らねぇけど」と言い放ち、また男たちと喋り始めた。高咲さんが走って熊谷に駆け寄る。水溜まりの水が勢いよく撥ねた。


「熊谷さんもこちらの方に用事ですか。偶然ですね。今私たちもそこの映画館で、映画観てきたところなんですよ」


「この近くに映画館なんてあったか?」


「さぁ。知らねぇ」


 男たちが熊谷を挟んで喋っている。熊谷は首を大きく回した。


「俺たちは飲んでたんだよ。こいつらは俺の友達の後輩。今からもう一軒行くとこだからよ、じゃあな」


 熊谷はそれだけ言うと再び、駅の方に向かって歩き始めた。高咲さんは、少し立ち止まっていたが、束の間、鼻息をし、もう一度熊谷の方に向かって駆けだした。高咲さんは熊谷の右腕を掴む。よりによって刺青がなされている腕だ。熊谷は立ち止まり、俺は二人のもとに駆け寄る。ざわめきが距離を詰める。


「熊谷さん、ちょっといいですか」


 そう言うと、高咲さんは顔を下げて、熊谷の右腕を嗅ぎ始めた。取り巻きの男二人が不審な顔をして見つめている。


「なにしてんだよ、お前」


「熊谷さん、ちょっと臭いです」


「はぁ?お前、熊さんに何言ってんだよ!」


「いや、この臭いっていうのは体臭のことじゃなくて。上手く言えないんですけど、熊谷さん、もしかしてやってるんですか……?」


 言われるが否や、熊谷は高咲さんの手を振り払った。顔には汗が滲みだしていて、肩で息をしている。


「いや、お前何言ってんだよ。俺がやってるわけねぇだろ。俺はこっちに戻ってきてからずっとクリーンを続けてんの」


「でも、さっき熊谷さんの腕からは、焼けたような臭いがしました。私からも昔した臭いが。熊谷さん、プログラムに来る時にいつも香水つけて、来ていますよね。それってもしかしてクスリの匂いをごまかすためのものじゃないですか?」


「言いがかりもいい加減にしろよ!俺はこう見えて結構潔癖症なんだよ!香水つけてんのはそのためだからな!勝手に決めつけんじゃねぇよ!」


 熊谷がより声を荒げたので、周囲の視線は一気に熊谷に集まった。熊谷は、辺りを少し見まわして、「こりゃ飲み直しだな。お前ら行くぞ」と吐き捨てて、去っていった。取り巻き二人が、少し距離を置いてついていく。


「熊谷さーん!スマープではもしやってしまっても、隠さなくていいんですよー!乃坂さんも磐城さんも綿地さんも、決して熊谷さんのことを責めたりしませんからー!どうか安心して、また来週顔を見せてくださいねー!」


 呼びかけに、熊谷は振り向くことなく、高咲さんの声は、湿った夜空に溶けていく。周囲の視線は今度は高咲さんに向けられていた。「熊谷さん来週来てくれるでしょうか」と心配そうにこぼす。「たぶん、来てくれますよ」と俺は答える。


 高咲さんはまた顔を上げ、人工的な光に満ちた駅前通りに向かって歩いていった。



続く


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