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【小説】アディクト・イン・ザ・ダーク(11)


前回:【小説】アディクト・イン・ザ・ダーク(10)



「みなさん、こんにちは。回復プログラムへようこそ。まず言っておきますが、このグループでは、薬物を止めることを強制しません。薬物を使用したからといって、私たちはそれを責めるようなこともしません。でも、最初に一つ約束をしてください。グループには毎週必ず参加することです。このプログラムは、毎週参加することによって、最も大きな効果を発揮します。今日のようにお茶菓子も用意していますので、どうぞ気楽にいらしてくださいね」


 乃坂の言葉は、今までのどの言葉とも違っていた。刑務所の中でも、親にも「クスリを止めろ」と言われ続けてきた。その定型句を聞くたびに、俺は反発し、「俺がクスリをやったってお前らには関係ないだろ」と、クスリを余計やりたくなった。だけれど、ここでは「クスリを使ってもいい」という。コットンの塊に、身を投げ出したような心地がした。


「では、まずはそれぞれ自己紹介をしていただきます。名前と、そうですね……。何か趣味があれば、それも一緒にお願いします。まずは私たちからですね」


 そう言うと、乃坂は首から提げられたネームプレートを両手で、胸元まで掲げた。


「私はファシリテーターの乃坂灯里と言います。趣味は買い物です。最近は秋服がいっぱい出てきているので、どれにしようか、今考えているところです。よろしくお願いします」


「皆さん、こんにちは。コ・ファシリテーターの磐城洋介です。普段はダルクという、自助グループのスタッフをしています。趣味は、山登りですかね。そろそろ夏のシーズンも終わってしまうんですけど、秋は秋で綺麗な紅葉が見られるので楽しみです。よろしくお願いします」


「皆さん、こんにちは。同じくコ・ファシリテーターの綿地光です。今回のプログラムでは主に書記として、参加させていただきます。。趣味は、ギターを弾くことです。皆さん、どうぞリラックスしてプログラムに取り組んでいってください。よろしくお願いします」


 綿地が頭を深く下げる。机の周りで拍手が起こる。綿地は少し恥ずかしそうに顔を上げた。薄い眉が人懐っこい印象を与える。隣では磐城も拍手をしている。手はマメでごつごつしていて、山が多いこの県でも、とりわけ険しい山に登っているのだろうと思わせた。


「では、次は参加者の皆さんですね。えっと、唯一前回も参加していて、雰囲気も分かっている高咲さんから、こう反時計回りにやっていきましょうか。では、高咲さん、お願いします」


 高咲さんと名前を呼ばれた彼女は、椅子を引いて立ち上がった。背筋を伸ばした彼女は、百六十センチメートルほどの背丈よりも大きく見えた。


「皆さん、こんにちは。高咲美弦といいます。妹に勧められて参加したこのプログラムも、今回で二回目になりました。前回も参加しているので、皆さんの中でもし分からないことがあったら、できる限りお力になりたいと思います。趣味は、映画鑑賞ですね。よく意外って言われるんですけど、ホラー映画が特に好きです。こう、わーってなるのが好きですね。よろしくお願いします」


 アナウンサーのように明瞭でよく通る声だった。高咲さんが頭を下げると、一斉に拍手が起こった。刺青男はつまらなさそうに、眼鏡男は小さく、だけれど全員が手を叩いていた。


 高咲さんが座ってしばらくして、刺青男が立ち上がる。椅子は引かれたままで、また辺りを見渡して、唇を噛んでから、喋り始めた。


「熊谷伸太郎。趣味は、バイク。俺は自分の意志だけでもクスリを止められるけど、親がどうしても行けってうっさいから来た。そんだけだ」


 吐き捨てるように出てきた言葉は、やや酒にかすれていた。室内は一瞬、再びの緊張感に包まれたが、高咲さんは、いの一番に拍手をして、


「趣味がバイクということは、山登りが好きな磐城さんと、アウトドア派同士じゃないですか!一緒に遊べますね!」


 と元気に言う。熊谷は高咲さんの活力に押され、思わず磐城の方を見た。磐城は何も言わず頷いていて、熊谷は少し肩をすぼめた。龍の刺青が窮屈そうだった。


「皆さん、こんにちは。六角真佐子です。初めてなのでとても緊張していますが、なるべく自然体で皆さんの話を聞けるように、頑張りたいと思います。趣味は将棋で、好きな棋士は土井竜王です。歩のように一つ一つしか進めない私ですが、皆さんよろしくお願いします」


 六角は身を縮こまらせて、椅子に座った。スールの裾が揺れる。持参したペットボトルの水を、すぐさま口に運ぶ。口から少しこぼれていて、高咲さんが席を立ってまで、水玉模様のハンカチを差し出していた。順番は机を飛び越え反対側へと向かう。眼鏡男は二つ息をしてから、おずおずと立ち上がった。


「皆さん、こんにちは……。ふ、深津と言います……。趣味はありません……。よろしくお願いします……」


 語尾はフェードアウトしてしまって、誰にも聞き取れなかった。一番近くにいた乃坂が「最初は誰でも緊張しますもんね」とフォローを入れる。深津は小さく頷いて、真っすぐ机を見つめていた。誰も話しかけてこないでほしいといった面持ちだった。


 やがて視線が俺に集まる。クスリをやった後ほどではないが、喉が渇く。俺は、手を机につけて、ゆっくりと立ち上がった。


「み、皆さん、こんにちは。弓木峻と言います。初めてですが、お手柔らかにお願いします。え、えっと……。あ、そうですね、趣味ですね趣味。趣味は探し中です。何かお勧めの趣味があったら教えてください。よろしくお願いします」


 後悔した。人前で喋ると早口になってしまうのは、何年経っても変わらない。気持ち悪く思われていないだろうか。侮蔑の眼差しで見られていないだろうか。だけれど、斜め前を筆頭に拍手が聞こえてきたことで、少しだけだが安心する。と同時に、形式的なものではないかという疑念もかなり。


「皆さん自己紹介が終わりましたね。改めてよろしくお願いします」


「よろしくお願いします」


 五人が言ったはずなのに、部屋には高咲さんの声しか聞こえなかった。


「では、これからプログラムを始めますが、その前にプログラムの指針となるワークブックを配りたいと思います。一人一部ずつ取って次の人に回してください」


 俺は高咲さんからプログラムを受け取る。高咲さんはプログラムではなく、俺の目を見ていた。黒目が大きく純真といった感じだ。また、微かに笑う。薄紅の唇が揺れる。


 ワークブックは数枚のプリントではなく、ちゃんと厚みのある冊子だった。受け取った瞬間、想像以上の重さに、手が少し下がってしまった。白い表紙に、パステルカラーの図形が簾のように流れている。俺は深津に最後の一部を渡す。深津がお辞儀を返さない。


「皆さん、行き渡りましたね。今回行う回復プログラムは『スマープ』といいます。スマープはファシリテーターである私たちだけではなく、皆さんと作り上げるプログラムです。変に構えることなく、リラックスして参加してくださいね。それでは、三ページを開いてください」


 三ページ目には少しの文章と首を傾げる男性の絵があった。乃坂が次のページまでまたがる長い文章を読み、「じゃあ、ここからは皆さんで読み合わせしていきましょうか」と言う。高咲さんから時計回りに読んでいく。俺は五行ほどの短い文章を読んだ。クスリやアルコールはうつ状態を悪化させるらしい。


 次の深津はぼそぼそとした声で、隣にいた俺でもよく聞き取れなかったし、熊谷は熊谷でポケットに左手を突っ込みながら、ぶっきらぼうに文章を読んでいた。項目は全部で七つあり、俺と高咲さんが二回読んだ。気後れしたが、高咲さんの歯切れのいい言葉たちが、俺を勇気づけてくれる。俺は何回か噛みながらも、ようやく読み終える。座る度に、パイプ椅子の感触は少しずつ柔らかくなっていく。


「はい、皆さんありがとうございます。このように薬物やアルコールを使用すると、自らの精神を傷つけてしまう。それは、とても悲しいことです。ぜひこのことを念頭に置いて、これからのプログラムに参加していただけたらと思います」


「それでは、ここからはワークの時間になります。薬物やアルコールを使うメリットとデメリット、その反対にやめるメリットとデメリットを、七ページにある表に書いてみてください。一〇分ほど考えていただいたら、それを発表していただきます。どんなに短くても、一行でも構いません。大事なのは書いて、現状を認識することです。では、どうぞお書きください」


 冊子は丸々一ページが表に割かれている。いざ、書こうとしてみると、あまり書くことがない。五年も刑務所にいて、考える時間は飽きるほどあったはずなのに。自分の至らなさを恥じる。だが、考えているうちに不思議と少しは浮かんでくるもので、思いつくままに書き殴ってみる。


 全て書き出して、時計を見ると、まだ五分も経っていなかった。俺は、下を向いて、手を動かすことで時間を潰した。「はい、そこまでにしてください」という乃坂の声がするまでに、三〇分くらい経ったような感覚がした。


「皆さん、書けましたね。では、今回の発表は挙手制にしたいと思います。我こそは!と言う方がいたら手を挙げてください」


 手は斜め前から上がった。やはり、こういう時に先陣を切るのは高咲さんだ。彼女は、真っすぐ乃坂を、その先のホワイトボードを見ながら、発表し始めた。ワークブックを見ることはあまりなく、自信を持って発表している。さすがは経験者である。続いて、六角が発表した。ホワイトボードは少しずつ黒くなっていく。


 六角の発表が終わる。乃坂が「次に発表したい方」と言うが、誰も手を上げない。部屋にはじりじりとした空気が流れている。俺はその嫌な空気に耐えきることができずに、小さく手を挙げてしまった。乃坂が指名すると、部屋中の視線が俺に集まる。


「私が薬物・アルコールを使うメリットは……」


 マジックが擦れる音がする。





「というわけで、今回のプログラムはこれで終了になります。皆さんお疲れ様でした」


 ホワイトボードは文字で埋め尽くされている。乃坂が挨拶をしたときに、時刻は一五時を回っていた。机の中央の菓子は半分ほどに減っている。六角の前に、菓子を開けた後の袋が、いくつか置いてある。高咲さんもいくつか食べていたが、その度に小さなゴミ袋を出して、しまっていた。俺も含む男三人は特に何も食べていない。特に、深津は出された茶にも手を付けていなかった。エアコンが効いているとはいえ、外はまだまだ暑い。


「では、ここからは次回以降の流れについて説明させていただきます」


 そう言って、乃坂は俺たちに卓上カレンダーを配った。日付と曜日の他には何もないシンプルなカレンダーだった。


「このカレンダーには、次のプログラムまでの、一週間の薬物使用状況を記録してもらいます。次回からこちらで青、黄、赤の三種類のシールを用意するので、プログラム開始前に、薬物を使わなかった日には青のシールを、最終的には薬物を使わなかったけれど、強い欲求が出て危なかった日は黄色のシールを、そして薬物を使ってしまった日には赤のシールを貼ってください。毎回、このカレンダーを基に近況を発表していくことを、プログラムの始めに行いたいと思います」


 カレンダーを見つめる。来週の同じ曜日が目に飛び込んでくる。


「それと、このスマープでは毎回プログラム終了後に、尿検査をするのが決まりとなっています」


「おい、なんだよ。俺たちを信用してないっていうのかよ」


 熊谷が乃坂を見つめて、小さくない声で反駁した。六角が少しびっくりした様子を見せている。


「熊谷さん。この尿検査の結果は治療以外の目的には使いません。たとえ陽性反応が出たとしても、警察に通報するようなことはしませんので、どうぞ安心してください」


 熊谷はまだ納得できていない様子だった。首を傾げて、鼻から息を吐いている。腕の刺青と相まって、周囲を威圧するには十分だった。だが、乃坂から薄黄色でスティック状の尿検査キットが配られると、「分かったよ。やりゃあいいんだろ。やりゃあ」と、渋々部屋を後にしていた。それに続いて深津も何も言わずに立ち上がり、ドアへ向かっていく。六角も「私も行ってきます」と、席を離れた。座っているのは俺と高咲さんしかいなかった。


「弓木さんは、トイレに行かなくていいんですか」


「今、ちょっとしたい気分じゃなくて」


「そうですか。実は私もです。こういうのってコントロールできるものではないですもんね」


 高咲さんが唇に手を当てて笑った。下げた手の甲に薄っすらと口紅が付着していて、そこだけ微かにピンクが浮き出ている。その仕草がスッと胸に沁みこんでくるようで微笑ましかったが、俺の顔は笑っていなかった。


「あの……」


「弓木さんって六年前の冬、裁判を受けていませんでしたか」


「そうですけど、もしかして……」


「やっぱり、あのとき、傍聴席にいたの私なんです」


「え、どうして。なんで覚えてるんですか」


「弓木さんは私のこと覚えてました?」


「そりゃ覚えてましたよ。だってあのとき、傍聴席には二人しかいなかったですし」


「私も、あのときが初めての傍聴だったんですよね。映画を観て裁判に興味が出てきて。で、実際に行ってみて。視線が合った時の弓木さんの悲しそうな顔。これが現実かって思いました」


「酷なものを見せてしまってすみません」


「いえいえ、こちらこそ勉強になりましたし、久しぶりに会えて嬉しいです。これからスマープ、一緒に頑張っていきましょう。よろしくお願いします」


「こちらこそ、改めてよろしくお願いします」


 今度は俺もちゃんと笑うことができた。高咲さんの周りには、暖かい空気が常に流れていて、俺の緊張を解きほぐしてくれる。もう少し浸っていたいと思うところで、ドアが開いた。「お前らまだ採ってないのかよ。こっちは帰りてぇんだよ。早くしろよ」と熊谷が言う。俺は「すみません」とだけ言って、早足でトイレに向かった。ふと振り返ると、高咲さんはまた、菓子を開けて口にしていた。口元についた菓子のくずが、一瞬光ったように見えた。



続く


次回:【小説】アディクト・イン・ザ・ダーク(12)


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