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断片 無為こそ過激 -ワナビ小説講座-

 何もしていないときにクリエイティビティが育つという。これはあちこちの本で読める話で、それだったらある程度信頼のおける説かもしれない。ニュートンの例がある。庭でボーっとしていたら林檎の実が落ちて、それで万有引力をひらめいたのだと。脳科学の方面ではデフォルトモードネットワークということがいわれる。脳の自動運転であって、ボーっとしてると勝手に働いてくれる。いろいろあるが、何もしない時間というものは意外と役に立っているのかもしれない。金井は音楽を聴きながらボーっとしてます。これを書き始める前はラウタヴァーラを聴いていてイマジネーションが爆発しておりました。手帳にもうメモるメモる。次回作の輪郭が少しずつできているというもの。無為なことは、クリエイターにとってはそれほど悪いものでもないかもという話。

 承前。つまり我々がボーっとしていても我々の無意識は忙しくやっているようなのだ。意識を休ませて、そうして無意識のほうに働かせればいいのではないか。フロイトの初歩だが、意識とは無意識の氷山の一角であるという。精神全体のうちのちょっとの部分が意識であり、あとはほとんどがでっかい無意識の部分だと。日常のあれこれで、忘れているようなことでも無意識内には入っている。グツグツと煮えたつ大きな闇鍋だ。その中から食えそうなものを取り出せばいい。ひらめきという形でそれは取り出されるし、そうしてひらめくためには何もせずボーっとしていればいいのだ。ニュートンの林檎、そんなものはぼとぼとといくらでも落ちてくるだろう。あとは料理するだけ。作品にするだけ。

 承前。とはいえ何もしていないと落ち着かないものである。私も読むべき本のことが気にかかってなかなかに焦っている。だがここであえてサボる。無為に走る。そうして一閃のインスピレーションが訪れる。メモる。おや、まだひらめくものがある。それもメモる。ちょ、ちょっと待って! 金井さんがなんかいってる! いやいってるのは金井さんではなくて金井さんの無意識なんだが、ときにはこのようにしてアイディアが溢れかえるときもあるというもの。読むべき本を読むのか、それとも音楽と共にボーっとするのか、どちらも捨てがたいのだが、重要度としてはこれらは同じようなものなのではないか。本を読むのも書くためだし、ボーっとするのも書くために役立つならば、どちらでも勝手にやってればいいのかもしれない。気ままなもんだ。ともあれ作品がよければ他の面がどうであっても許されるんだろう。そんなこんな、がんばったりがんばらなかったり。

 ラウタヴァーラのボックスを聴き進めていって、いやこれすごい、次回作の中でちょっと語ろうと思うわ。単に二十世紀音楽だっていうだけじゃない。他の音楽とは全面的に異質なものがある。何にも似ていないという一人一ジャンルの人であるようだ。鋭く光るガラスの彫刻のよう、高い山の頂上で見る天国の全貌のよう。すげえですよこれは。じっくりと聴いていきたい。

 読むべき本は読もう、と思って昨夜も読まなかったんだが、スタートはゆっくりでいいかもしれん。どうせいずれ必ず読むのだ。読まないわけがないレベルの重要文献なので、絶対に読まなければならないし、絶対に読むつもり。本の読み方にさまざまあるだろうが、この本は舐めるようにして読むものだ。学術書だからそうなる。ま、ぼちぼちといきましょう。



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