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断片 小説の可能性 -ワナビ小説講座-

 ここ最近、小説小説と金井はいったい何を騒いでおるのか、自分でもよくわからんが、たぶんいま必要な作業なのだろう。自分なりの小説観をまとめておくこと、ひとつケリをつけておくこと、それをやっておけば何かの足しになるはず。だからこれらワナビ小説講座は誰よりも私のためにある。私が書いて私が読む。そのようなものとしてひとまずあって、でもひとりでブツブツいうのも寂しいからnoteに上げてるって感じ。さてタイトル、小説の可能性と出た。でっけえなあ。そんなもん語れるのか、といって、やるだけやってみるわよ、としか思わないな。失うもんないしな。小説に何が可能かを以下に書いていこうというところ。この世界において小説にはどういう役割があるのか。

 承前。サルトルが発したあの言葉、「飢えた子供の前で文学は何ができるか」という問い以降、書き手は悩んできたのではないか。「もっと早く死んじゃう」と冗談で答えたのは筒井康隆だったが、ともあれ、文学、小説、物語といったものが誰を救うか。おそらく飢えた子供に対して直接には何もできない。飢えの前に文学は無力だ。言葉ではなくパンが必要なのだ。この場合は印税をユニセフにでも寄付する程度のことだけができて、しかしそれは文学の力ではなくてカネの力だったりする。じゃあ直接の効果は何もないか、というとこれはいくらか例がある。強制収容所に入れられた人々が語り合った、かつて彼らが読んだ小説の話、それが互いに元気づけるものだったこと。また刑務所内での読書クラブの例もある。凶悪犯も読書に勤め、いくらかでも償いの心を育んだことだろう。こうしてみると人を救ったり変えたりする力が文学や小説にはあるんじゃないか。人の心に効果を及ぼすこと。そこに小説の可能性がありそうだ。

 承前。心に効果がある、などというと当たり前すぎるかもしれない。誰もが効果を期待して小説を読んでいるのだ。泣きたくて、笑いたくて、驚きたくて、知りたくて、考えたくて読んでいる。ではその先はどうなるのか。さんざんいわれてきたことだが、行動に移さねば読書は意味がない、という話がある。私はこれに反対する。別段他に行動せずとも読書自体が行動であり、意味があり、精神の栄養剤として十分に価値があるものなのだ。また、にじみ出るように読書の痕跡は見え隠れする。その辺にいる誰かと五分か十分ほど会話してみたまえ。テレビのバラエティ番組の常套句が出てくるか、はたまた妙にレアな単語や、古典文学や最近読んだ本の話などが出てくるか。たいていはバラエティ番組の徒であるから、あなたは無念を噛み締める。小説の可能性が、息吹がそこにはないのだ。だが、そのような世界を前提とした上で読書して行動するとなると、先ほどの異議は引っ込めたくなる。読書する、ただそれだけで、余人に比してどれほど力が鍛え上げられていることだろう。想像力と思考力の確かな羽根があなたにはある。ましてそうしたところへ、その羽根の力を使って行動するなどとは。
 佐藤友哉はこう書いた。

 それは情熱や社会とは遠く、もっと冷静で冷徹な、文化的なものに思えた。読書家でありながらの行動派に見えた。つまりそれは革命家というわけだ。
(『1000の小説とバックベアード』より引用)

 以上、まとまりに欠けると思うが、結論めかしていえば、小説には人間にとって大いに可能性があるだろう、と雑に片づけて逃げる。

 バッハのロ短調ミサ曲を聴いている。リヒター盤。いいものですなあ。まだじっくりと聴き込んだ曲ではないから語れることも少ないが、だいたいミサ曲というとどれも荘厳にして重厚、みたいなイメージがある。宗教曲はそうね。ロザリオ・ソナタのような可憐なのもあるけれど。クラシックが発展していく中でキリスト教の要素はまず外せない。絵画のテーマがだいたい聖書からとられた時代があったのと同じように、西洋音楽の領域にとってもキリスト教は身近で親和性が高いものだった。何しろヒルデガルドやグレゴリオ聖歌の頃から音楽は続いている。ああ、なんだか聖書を読みたい。旧約で一度挫折してんだわ。

 さあさあ。小説論をぶつのもいいし、音楽を聴くのもいいが、ちゃんと読書もしなければなりませんよ。そろそろ落ち着いてきてるだろ。あるいはスロースタートで後半で追い上げるか、タイムリミットつきのスリリングな読書の日々。



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