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断片 神社仏閣を渡り歩き

 今日は神社二ヶ所とお寺一ヶ所を巡ったプチ旅行でした。ゴールデンウィークが明けるのを待っていたのだ。そんで行ってみたらばだいぶリフレッシュ。空気が違うよ空気が。あの清浄さをたまには浴びてこなきゃダメだな。私はダメになる。コロナでうかつに動けないみたいなところがあったもんで、ひさびさのガッツリの参拝を今回やったという話。歩き疲れてお祈りはグダグダ。そこへ行くことができたご縁に感謝をしたけれどもね。あとはまあ、がんばりますと念じた。運気を上げる、加護を得るようなこととしての参拝。すっきりした。

 承前。しっかしまあ三ヶ所回ると大変なものでした。スマホに記録された歩数は一三六六五歩だった。そんだけ歩いて疲れないわけがない。栄養剤飲んで横になってました。日中はもう初夏の陽気、ああ、だんだんと夏になる。夏場の動きとしては、来月お守りの返納と新規で同じものを買うことと、その予定がありますね。いつも六月に行く神社があるのだ。二ヶ所回る。ヘロヘロになるのだろう。でもまあ行かなきゃならんし、というのはお礼参りも兼ねてのことであって。がんばれました、のご報告ですね。そのような信仰。わりと有神論。つーか今日行ったお寺のお守り買っとけばよかった。いまになって悔いが残る。まあまたいつでも行けばいいか。

 金策をあれこれやっておる。ポイントをカードの支払いにあてられるのでまずはそれをやって、あとは財布の種銭たるものを口座へ突っ込んで、それでもちょっと心もとないのであとから分割払いとかをやって凌ごうと。ほんともうカツカツね。iPadがデッカい買いものだったのだ。あれが尾を引いていてそして貧乏。他に買いものもしたしなぁ。なんかこう、出ていくカネが多い。これは体質みたいなものなので訓練して変えていかねばなりません。いつまでも冗談みたいに生きられないよ。事態がシリアスになるのは十分あり得るという話だ。

 ラン・ランというピアニストがいる。聴きやすくてニュアンスのおもしろさもあるので、サブスクで落としたもんをけっこう聴いてる。ピアノが聴きたくて迷ったらこの人にしてるなあ。いつもではないし、ながら聴きとしてが多い。それでもね、悪いもんではないね。なんとなく聴ける、流しておけるということも音楽のひとつの魅力としてある。集中させられるようなタイプの音楽は聴くのに気合がいるのだった。フルトヴェングラーとかチェリビダッケなんかをかけたらなんもできないわけだから。ピアノだとミケランジェリとか。流しておけるか、集中力を持っていかれるか。どっちもそれぞれいいのだけれど。

 アニー・ディラードは多くのことを教えてくれたが、さて実践においてどのくらいそれが役立つか、というとこれは一度二度と読み返さないと身につかんかも。ふせんは貼ってあるんでそこを中心に読み返そう。作家の伝記は少年期あたりで終わるってよ。プロになったあとは地味に書き続けているだけで、とりたてて出来事などないのだろうか。頭の中はいっぱいなんだろうけどね。出来事、言葉、印象、記憶、想像、推論、論理、希望。作家ってけっこうみんなおしゃべりで、それは頭からあふれ出てくるものが多いということだろう。わーっとなってる状態のプロの作家を何人か見てきた。湯水のように言葉と声を使い、いいたいことをいいまくるあの状態は軽い変性意識だと思うぞ。だが私とて、プロではないにせよ人のことはいえない。わーっとしゃべるときはあるものですなあ。



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