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断片 人間の何を書くかって

 純文学の定義がひとまず「人間とは何か」「小説とは何か」の問いと共にあるもの、とされているのであれば、じゃあどっちかは書かなきゃいけないよね。私にはまだ小説への問いに答えられないし、小説という器を壊すようなこともできない。なので人間について書くことになるんですけど、さて、誰のことなら書けるほど知っているか、となると誰についても心もとない。こういう人間がいました、という報告で終わる。だからモデルがいるにせよフィクションで飾りつけることは必要だし、そもそも最初から全き架空でもいいと思うし。要するに迫力とか殺気でしょう、小説に必要なのは。読者をねじ伏せること。それができればいいな。

 承前。迫力とか殺気、といったが、それに関係しない小説というのももちろんある。だが純文学がそれでいいのか、人間についての問いがそれでいいのか、となってくるとねえ。一例で、散々語られた作品だが『推し、燃ゆ』などは十分に殺気があった。ラストあたりで拾い集める綿棒はお骨のメタファーで、アイドルとしての推しか、または推せなくなった主人公か、誰かが死んだようなものとして、その葬式になぞらえてるもんであろうが、まったくあそこまでやられたら降参するしかない。だいたい主人公をひどい目に合わせるとおもしろくなるという非情なセオリーもあるわけで、じゃああんな破滅の運命を書いたらそりゃ殺気も生じるというもの。あんだけ書けたらねえ。ま、勉強しますわ。

 承前。また殺気について。村上龍は長崎に生まれてなかったら、『コインロッカー・ベイビーズ』におけるダチュラを思いつかなかったんじゃないのか。リメンバー・ナガサキ・ヒロシマ、ということで、絶対にあの地では原爆のイメージを叩き込まれていたに違いなく、いや絶対にってこともないんだけど、破壊することを書く上での原体験って何かあったでしょう。それが長崎の原爆なんじゃねえのって話を思いついただけ。『昭和歌謡大全集』でも爆弾は落とされる。他、様々な作品で破壊を書いてきた人であるから、なんだろう、殺気の話か、ありますよね殺気。そんなもんデビュー作からあった人なのだ。人々よ、春樹だけが村上じゃないんだぜ。

 寺神戸亮のベートーヴェンのヴァイオリンソナタ全集を聴いた。さんざっぱら聴き倒したこの全集、ひさびさに聴いてみたらば実によい。艶よ、歯切れよ。ピアノもコロコロ転がるような感じで心地よかった。で、この全集ではヴァイオリンじゃなくてなんか違う弦楽器を使ってたはず。あまり違いはわからんのだけど。楽しく聴けたので全四枚を一気にいったわ。外出先で聴いてた。音楽はいつあってもいいと思う。なきゃダメなときはもちろんあって、それ以上にいつでも流れてていいんじゃないのと思う。ダラダラとテレビを眺めるのに近いのかもしれない。およそテレビを見続けるという営為が理解できない私であるが、音楽を聴き続けることも同様に理解されないことでしょう。

 五月が三分の一を過ぎて半ばに迫ろうとしている。読書を急がねばならない。今日は出先でたった数ページを読んだ。キャンベルの本にギリシャ神話が出てきてそこはスルスル読めた。事前の知識ってこうやって役に立つんだな。いうて『変身物語』とか未読なんですけど。ギリシャ神話は何で読んだかな、図版と解説の組み合わせの本かな。キャンベルの神話学、精神分析も組み合わせて人間を追求していく凄みが楽しいですぞ。さっさと読んでおかねばならぬ。本当なら何年も前に読んでおいてちょうどよかったようなものだ。いまさらの勉強なんだわ。読むわ。



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