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4/12 「著作」を読んで(その1)

テレビはオワコン

そう言われるようになって久しい。一人暮らしをしている大学生の家にテレビが無いというのが珍しくない時代。もはやテレビはYouTubeやNetflixを観るための単なる受像機でしかないし、SNSを盛り上げるための前フリ役でしかないのかと時代の移り変わりを恨めしく思うときがある。

雑誌「広告(Vol.414)」が『著作』をテーマに特集を組んでいたが、冒頭の対談記事を読んでの感想を残しておきたい。

小野:キャラクターや感情をストックして置くというお話でしたが、言葉そのもののリファレンスというか、「こういう表現は歌詞に使えそうだな」という観点で日々インプットしているものはありますか?

いしわたり:情報源としていちばん大きいのはテレビですね。どんなに忙しくても1日に3時間くらいは見るようにしています。

いしわたり氏はロックバンド・SUPERCARのメンバーで作詞とギターを担当。現在は作詞家として数多くのアーティストの楽曲制作に携わっている方です。

小野:SNSをはじめ、言葉があふれている時代と言われますが、いしわたりさんはSNSにあまり興味がないんですよね。

いしわたり:そうですね。SNSに反映される世相みたいなものはあると思うんですけど、僕が見たいのは「世の中」なんですね。SNSって誰かの感情を顕微鏡で見ているような感じがして、そのひとつの発言がその人のすべてってわけでもないだろうし、真意がわからないじゃないですか。そういう言葉を熱を持って見るのが自分には難しくて、それよりもいろんな人の無意識の総意によってできあがっている世間の空気みたいなもののほうに興味があるんです。テレビにはいまでもそういうものが浮かび上がってきている気がするんですよね。

いしわたり氏の表現をお借りするなら、最近の傾向としてテレビが自ら顕微鏡を手にし始めているように思う。それは報道番組やバラエティ番組がよくYouTubeから動画を引っ張ってきたり、Twitterから誰かの意見を引用してきたりするのをよく目にするからそう思うんだが、いわゆる「世間」の空気を能動的に読むという役割を放棄したら、いよいよテレビは単なるハコ(受像機)になって多くの人がAmazonPrimeやらNetflixを観始めるのかもしれない。

SNSはマスメディアか?

日本はその傾向が特に強いがTwitterはじめSNSが世の中の雰囲気を作っているかのように見える。「かのように見える」と書いたのは、それが大多数の意見を反映していると何だか言いにくいように思うからだ。自分ごとで恐縮ですが、昨年以下のような記事を書いたのだけどSNSは「見たいものだけ」を「好きなだけ」見る「フィルターバブル」の世界にあることは誰もが知るところだと思います。

ここでまた、いしわたり氏の表現を引用すると、結局誰の顕微鏡を覗くかによって見えてくる世界が違ってしまう、のだけどテレビまでそれをやっちゃうのかい?ということ。極論を言えば、現状マスメディアと言われているテレビや新聞だって番組制作者や記者たちのフィルターを通している以上誰かが見た世界を映し出していると言える。しかし、これまでマスメディアの制作者は自分の目で見ていたんだろうと思う訳です。遠くを見るために双眼鏡は使っていたかもしれないが、顕微鏡は使っていなかったと思う。想像だけど。だからオリジナルのコンテンツも生み出せたし、時代がそれを後押ししたとはいえ時代を語るときに話に挙がる番組というのが生み出せたのだと思う。その中から”志村けん”さんのような大スターだって生まれてきた。

しかし、マスメディアの制作者たちも一般人と同じように顕微鏡を覗き始めているのであれば、もう誰も「世間」や「お茶の間」と呼ばれていたものを誰も相手にしなくなるかもしれない。企業が商品開発を行うときは「スモールマス」なんて便利な言葉も生まれてきたけれど、テレビなどもスモールマスメディアなんて呼ばれる日が来るのだろうか。

いしわたり氏が語った内容を拝読して改めて思ったのは、テレビはキュレーションメディアで終わってはならないのではないか?ということ。既にそうなりつつあるし、いしわたり氏が考えるような「世間」をいつまでテレビは提供し続けられるのだろうと不安になった。

時代が変われば求められるものも変わるのは致し方ないが、テレビが今後どうなるのか、自分の仕事にも大きく関わることだけに軽く見過ごせないように感じた。

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