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3/10 そこまでして書きたいこと

Twitterを何気なく見ていたら”さとう氏”のツイートに目が留まりました。すいません、今回は記事のネタにさせていただきます。(フォローさせて頂いている時点で好意的に思っていますし、さとう氏の取り組みに対して批判的な意図は全くありません)

このツイートを拝見して驚いたのは「何を書いていいか分からないけど、とにかくnoteを書きたい」という人が多いんだなぁということ。でも分かるよ、その気持ちは。

即効薬的なものを教えてくれよ!というのが困ってる方々の本音なのだと思いますが、おそらく「何を書いていいか分からないけど、書きたい」と思う方というのは、その「何か書きたい」想いが強すぎるあまり”手段が目的化する罠”に陥っていると感じます。勝手ながら私が考える世の中の真理は、

・書きたいことは人に聞いても出てこない!
・書く前に情報収集!

・書きたいことは人に聞いても出てこない

当たり前だろ!分かってるよ!とお叱りを受けそうだが、それでも書いておこう。数学でも化学でも英語でも、勉強していれば分からないことが出てくるのは当然だ。しかし「何が分からないのか分からない」というあるあるに遭遇することも多い。しかし、それが一番良くない状態だ。そんな場面に遭遇したら先ずもって疑わないといけないことがある。それは「何をどうすれば問題が解けるか道筋が見えていないこと」だ。

もっと端的にいうと、問題設定ができていない状態。我々の仕事でいうなら「なんかバズる企画やりたいんすけど、どうしたらいいっすかね?」こんなフワッとした相談を受ける時だ。「お、おぉ・・」としか返せない相談。そういえば最近以下のようなツイートが話題になりましたね。対象とボヤっと捉えていたら、そこから生み出す打ち手もボヤっとするのは必然。とにかく、目的やその障害となる問題を認識して、そこからやっとスタートです。

いい大人になって「いいかい君、それはね手段が目的化してるから先ずそこから整理しようか」「最終的に何がしたいの?」とか言おうもんなら、ムッとされるでしょうね。そういう方々に対する便利な回答なんて存在しないんですよ。そのような根本に関わることについて悩みを抱えている人に対しては、付きっきりでマンツーマン指導をするしかないし、それが出来ない環境(間柄)なら変にそれっぽいノウハウを教えない方が良いと思う。なぜなら、なんかそれっぽい事を教えても本質を理解しない限りまた同じところで躓くし、文章を書く話に限れば(世の中が面白いと思うかではなく)当人が面白いと思う文章など書けないからだ。

じゃあ何を伝えればいいのか?

書きたいと思うものが出てくるような情報収集、インプットの手法を伝えるのが良いと思う。何を書けばいいか分からない人というのは概してインプット不足な状況にいらっしゃると思う。noteでもブログでもTwitterでも何でも毎日継続できる人というのは意識的か無意識的かは分からないけど無茶苦茶膨大なインプットをしていたりする。それは、自分が関心のあることから関心の薄いことまであらゆる領域から。それに、そういう人に限って交友関係が広いから人からのインプットというのも殊の外多かったりする。

そもそもインプットしていないと何も書けないんだよ。

「じゃあ、どういう風にインプットしたらいいですか?」と聞いてくる人がいらっしゃる。ちょっと待て。それは自分で考えよう。そこまで他人に預けてしまうのなら、何も書かない方がいい。時間の無駄だ。しかしまぁ、そんなこと言ったら元も子もないので、使い古された表現ですが、「アウトプットを意識してインプットする」それ以外に無いというのが私の持論です。鶏と卵の話かもしれないけど。

先ずは自分の関心のあるものについて、アウトプットを意識しつつインプットを重ねるというのが定石だと思います。私が以前やたら「鬼滅の刃」についての記事が多かったのは、単純に「鬼滅の刃」が好きで面白かったから、それだけです。作品を読んでいくうちに「炭治郎ってヒーローなんだけど、どこかジャンプっぽくないな。そういえばジャンプのヒーローの描き方ってど特徴あったよな?」とか「下弦の伍の累を見てると最近の児童虐待とか考えちゃうよな」とか、ちょっと引っかかるポイントが次から次へと出てきて、じゃあいっちょ調べてみるかとなる訳です。

物事を多面的に見るというと堅苦しいですが、「鬼滅の刃」という漫画ひとつ取りあげても、それを社会学の側面からみる、歴史の側面から考えてみる、他の作品と比べてみる、といった具合に色々と試行錯誤してみると全く想像もしなかった景色が見えてきます。どの切り口でも記事が書けるわけではありません。そもそも、その切り口で書いて自分は面白いんだっけ?ということが何より重要だろうと思います。

鬼滅の刃の単行本1巻(P.38)で水柱の冨岡義勇が炭治郎に以下のように言います。1巻からこういうハイライトが来るの何度読み直しても痺れるよ。

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生殺与奪の権なんて大袈裟なことは言いませんが、「何を書きたいか?」というような本質的な部分を他人に投げてしまうのはとても勿体無いと思うのです。(人様に迷惑を掛けないことは前提で)好きなことを好き勝手に書いていいんじゃないかと思うのは私だけではないと思うんですよね。そもそも数書いていくうちに、何となく自分っぽい書き方というのは自然に身についてくるもんです。

しかし中には、記事を書いて有名になりたいとか、承認欲求を満たして欲しいとか「書く」こととは全く違う所にその人のモチベーションがあることもあると思いますが、その話は別です。そういう方はnoteで名を上げようと考えるのではなく、仕事で何かを成し遂げて名を上げた方が手っ取り早いと思うとお伝えしたい。あとは、就職活動にも似たようなことが言えるんだろうけど、「やりたいことが無い」と悩み続けてひたすら「俺は何がやりたいんだっけ・・・」ともともと無いものを探す”自分探し”を続けるくらいなら、とにかく興味や関心の思うままにやってみるのがベターだとも思う訳です。

今日書いてみて、なんか違うなぁと思ったなら、明日はまた違う風に書いてみればいいんですよ。もっと、書く人が増えたら面白いのにと思う日々です。

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