二つの自己
幸福になりたいなら幸福になろうとしてはいけない No16 思考と観察
おはようございます。昨日までの文章で、繰り返し、思考が物語であり、出来事と思考(ネガティブ・中立・ポジティブ)がフュージョン(融合)することによって、我々は苦しくもなり、楽にもなるということを見てきました。そして、もし苦しくなっているのであれば、脱フュージョン、すなわち、出来事と融合している思考を融合せずにそれぞれに分けて見つめるという姿勢が重要と述べられてきました。
今日は、更に、その思考について深堀り。思考と対峙するものとして観察という考え方を学びます。
自己の在りか
こんな例えから始まります。
テニスをしている時、こちらに飛んでくるボールに釘付けになっているあなた。完全に集中している。全集中!!この時働いているのは、観察する自己。あなたはボールについて考えてはいない。観察しているだけだ。さて、ここで、頭に思考が浮かんだとしよう。「ラケットの握りはこれで良かったのだっけ?」「おっと、これは速いボールだな…」、これは思考する自己の働き。もし、ボールが来ている時に、思考する自己に過剰な注意を向けるとどうなるか…。
今どこに自己があるか、思考か観察か。私は今、まさに思考にあります。文章を書くという作業は多くの場合、思考する自己が働いている。いや、どうでしょう。今まさに書いているというこの状態を観察している自己もあります。一方で、「この文章の意味が伝わるかな?」などと考えている、思考する自己もある。とちらもあるかもしれません。
観察する自己という概念を持つ
西洋社会には、「気づき」や「集中」「注目」などの言葉は理解していても、観察する自己という概念はほとんど持っていない、と著者は述べています。そんなこともないとは思いますが…、そういう面もあるのでしょう。思考する自己と観察自己をそれぞれ顕す言葉がなく、一緒くたにして、”心”という言葉を使っているといいます。※本書では、思考する自己を指す言葉として”心”を使用。
面白いワークがあるので紹介します。
1.ちょっと目を閉じて
2.動物写真家のあなたが、珍しい動物が藪から現れるのじっと待っている
3.心にどんな思考やイメージが浮かんでくるか観察する
4.現れた思考やイメージがどこにあるのか観察する
5.目の前?上?背後?真横?内側?
みなさんはどうでしたか?私は、まず、上のようなイメージを浮かべて、その奥、つまり、こちらからいうと前方にグーっと注意を向けました。
ここで経験したのは二つのプロセスなのだといいます。最初は思考のプロセス。「珍しい動物が藪から現れる」と聞いて、必死でそのことを思考しイメージを浮かべようとした。そして、次が観察のプロセス。その思考がどの辺りにあるのかをじっくりと観察した。私の場合は、前方にグーっと観察の目を向けました。
この両者、観察する自己と思考する自己の区別をはっきりと認識することがとても大切なのだといいます。
「思考する自己は思考を生み出し、観察する自己がそれを観察する」
と本書では、表現されています。
この著者は本当に例えを多用します。そしてその例えが実にいい塩梅に概念を定着させてくれます。最後にもう一つ例えを。
今、私の後ろでひっきりなしにラジオが流れている。その内容は、”破滅と憂うつショー(ネガティブな思考)”である。このラジオを熱心に聞いているなら、ストレスと惨めさ一直線。そして、このラジオはスイッチが切れない…。逆に、止めようとすればするほど、大きくなる。
しかし、そこで、別のやり方がある。ラジオの音は聞こえていてもまったく注意を向けていない状態だ。それを背景のノイズとして扱う。音が来て、去っていくにまかせる。脱フュージョンの実践が目的とする所はそこである。観察する自己をフル活用する。
そして、最後に面白いことを言っています。
思考する自己が面白いことを言っている場合(ラジオからとっても面白いメッセージが流れてきた場合)、観察する自己はそれに周波数を合わせ、注意を向ければよい。「ラジオ・ハッピー♬」には耳を傾ける。そのチューニングを観察する自己を使って行おうという訳なのだと。なるほどぉ~
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