不完全なわたしたち
幸せになる勇気 No32 劣等感を手がかりに
みなさん、こんにちは。
あっという間に9月に…、という言葉も言い飽きましたね。なんか良い言い方ないかな?
「いよいよ、待ちに待った9月がやって来ました」とかかな。
ということで、「幸せになる勇気」の読書感想文も、32回目を迎えました。
アドラー心理学に感銘を受けて教師になった青年。しかし、教育にアドラー心理学が全く使えないと思ってしまい、絶望し、哲人の元を訪れます。議論は、白熱。
承認欲求について
青年は、アドラー心理学が否定する承知欲求を満たすことが、教育においてはやはり必要であると訴えます。
「承知欲求にとらわれた人間は、〜他者の人生を生きることになる。けれども人間は、誰かの期待を満たすために生きているのではない」そう、丁寧に復習した上で…
「しかしですね、残念ながらわれわれは、そんなに強くなれないのですよ!〜あなたはいつも理想のダビデ像を見ながら人間を語ってる!」(青年は、理想の造形としてダビデ像を使いました)
これは、アドラー心理学でよく感じるテーマです。アドラー心理学は理想的ではあるが、近づけない、美術館の展示品みたいな考え方である。手が届かない…
劣等感、当たり前
「まず、われわれ人間は子ども時代、ひとりの例外もなく劣等感を抱えて生きている」そう哲人は、始めます。
人間という種族は、生理的早産で生まれ、生後かなり長い期間、養育者の庇護を必要とします。それは、児童期に突入しても同じこと。
「人間の子どもたちは心理面での“やりたいこと”と、肉体面での“できること”のギャップに苦しむことになります」と哲人。
確かに…。背伸びして痛い目に合う、そんな体験はみんなしているでしょう。でかるからこそ…
「“自らの不完全さ”を経験する子どもたちは、原理的に劣等感を抱かざるをえない」と哲人は言います。
弱さゆえに
子どもは、心の成長に、身体が追いつかない。だから不完全。
「なんとも悲観的な意見だ」とする青年に、「悪いことばかりでらありません」と哲人。
それは、この劣等感が、常に努力と成長の促進剤となるから。
人類史とは劣等性を克服するための歩みであり、それが、文明である。
そう、子どもの成長は、人類の象徴なのです。
「人間はその弱さゆえに共同体をつくり、協力関係のなかに生きています。〜切実に、単独では生きていけないほど、弱かった」から。
哲人は、続けます。
「逆にいうと、人間にとって孤立ほど恐ろしいものはありません。〜すべての人には共同体感覚が内在し、それは人間のアイデンティティと深く結びついているのです」
青年は、感嘆しながら言います。
「人間が抱える弱さゆえの、共同体感覚…」
アドラー、幼少期くる病を患い、上手く身体が動かせませんでした。人間の弱さを身をもって感じた子ども時代だったからこそ生まれた理論。重みがあります。
なぜ、そんな普遍的なアドラー心理学が、てを触れられない美術品のごとく、遠くに感じられるのか…。
では、また。
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