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#1 猫の会議

斎藤真理子さんインタビュー①

――いよいよスタートする「沈思黙読会」のイメージを、斎藤さんは「猫の会議」とおっしゃっています。その発想はどこからきたんでしょう。

斉藤:猫たちの集会って、つかずはなれずただ一緒にそこにいて、お互いあまり関わりあわずに、じっとしているじゃないですか。でも、それぞれが自分の世界を持っているように見えて、端からからみていると「一匹一匹は何を考えてるんだろう」と興味深くもある。そんなふうに、和気藹々と意見をぶつけあう読書会ではなくて、同じ場所に集まっていながら一人ひとりが自由に本を読む場にしたいなと思ったんです。
というのも私、翻訳をするようになってあらためて、本の読み方って人それぞれだな、としみじみ思うようになったんです。そもそも翻訳者って、まず読者の一人でもあるんですよ。著者が書いた作品を何度も何度も必死に読んで、その結果が翻訳になる。
近く、翻訳家のくぼたのぞみさんとの往復書簡集『曇る眼鏡を拭きながら』(集英社)という本が出るのですが、その帯にくぼたさんも「読んで訳してまた読んで」ってお書きになってます。これは「いろいろな本を読み、翻訳し、また読む」という意味でもありますけど、翻訳そのものについても言えるかなと。翻訳原稿を作る作業そのものが読む行為だし、ゲラの確認もまた読む行為なんですよ。ここおかしいかなと思ったら原文を参照して、結局、また全部読むことになるんです。そうすると最初はこうだと思っていたことが、やっぱりこっちなんじゃないかなと思いはじめて、初校にそう赤を入れるんだけど、再校が出てきてまた読み直すと、やっぱりこっちだったんじゃないのって、右往左往。私は著者ではないので、とにかく読むしかないわけですよ。ですから、翻訳をして本ができるまでの時間というのは、読みを重ねていく経験のようなものなんです。そして最終的には、最後には自分の中に何も残らない虚脱状態に至ったりもしますが。

――翻訳家というのは読書家でもあるわけですね。

斉藤:同時に、著者が作った世界が、翻訳者の世界を通過することで狭まっちゃうかもしれない。そういう恐怖みたいなものも、いつも抱えているんです。こう読まなきゃいけないっていうことは私にはわからないけれど、もしかしたら読むための助けはこういうことじゃないか、というようなことを解説に書いたりもするんですけれど、あれも「こんな解説を書く必要はないのにな」と、忸怩たる思いでやっているんですよ。

――読者の「読み」が自分の翻訳で誘導されてしまうのが怖い、ということですか。

斎藤:だから、そうやって私の世界を通して出力したものを読んでくださった方々からの感想がバラバラなのをみると、ちょっと安心するんです。翻訳者がどんなに読みを重ねて翻訳をしても、本が出た時点では全く完成していなくて、そこに読者の方の読みが重なることでひとつの完成形が、その人のところに生まれる。読者が本を読んで、頭の中にどんな世界が作られるかっていうことは、誰にも邪魔できないことなんですよね。本当に、そこには誰も干渉できない。そのバラバラな感じが、猫の集会に近いような気がするんです。そんなバラバラな世界を持ち寄って、それぞれが本を読む。そんな時間が共有できればと思うのです。

沈思黙読会の詳細はこちらをご参照ください。


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