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いつかのクリスマス・イブ

 何年前だったかなぁ。長野の叔母が太平洋戦争で戦死した祖父の命日を教えてくれた。
 1941年12月24日。開戦間もない、真珠湾攻撃からわずか16日後のこと。ウェーク島という南洋の小島の上陸作戦時に、腹部に3発の銃弾を受け野戦病院に運ばれクリスマス・イブに亡くなったそうだ。名前は寅一ということだった。
 ときを同じくしてか、妻のマサイ婆ちゃんは夢を見たそうで、寅一さんがマサイさんの背後に回りこみ、無理やり水盃を飲まそうとするので、婆ちゃんはそれが嫌で「何をするんだ」と、必死に抵抗したそうだ。内容は定かではないが、父も寅一さんの夢を見たそうだ。ひとりその当時3歳だった叔母の夢にだけ出てこず、小さな女の子だった叔母は、なんで玲子の夢にだけ出てこないんだ!と、マサイ婆ちゃんと父をたいそう怒ったそうだ。
 
 その後しばらくして、寅一さんの戦友を名乗る男が、津南の家を訪れ、木綿に包んだ祖父の小指を戦地から持って帰ってきてくれたそうだ。
 叔母の、父寅一の記憶は、そのことと小さな下駄を買ってきてくれて嬉しかった思い出だけ。幼い女の子にはそれぐらいのことしか、記憶に留めておくのは難しかったのだろう。
 寅一さんは、享年32歳だったそうだ。ぼくにとっては祖父だが、自分より年下のずいぶん若い青年だった。開戦間もないクリスマス・イブに、32歳という若さで戦死したこと。この2つの事実が、遠くに感じていた戦争を急に目の前に引き寄せた。ぼくはそのことに息が詰まるように驚き戸惑った。

 小学生の頃、夏休みに津南に行くと、たまに祖父の話が漏れ聞こえてきた。あれは誰だったのかなぁ。祖父の実家で、ぼくに将棋を教えてくれたハゲ頭のお爺さんが、祖父は海軍で、軍艦に乗って料理を作っていたことや、酒は飲めなかったけれど、将棋ができたので上官に可愛がってもらっていたことを話してくれた。叔母も、「本当は戦争はいやだったんだって」と教えてくれた。

 戦争は、今も色んなところで続いている。ぼくの子どもたちには、イラク戦争のこと、人質となった立ち場の弱い人のことを猫も杓子も自己責任論で責めたこと、もう少し大きくなったら伝えようと思っているのだけれど、どう伝えようかと思案する。それと同じように、昨日、日本がパトリオットミサイルをアメリカに輸出することを閣議決定で決めたことを、寅一さんに、何て伝えようかと思案する。
  誰かに頼まれたことではないけれど、今を生きるって、未来と過去の直線上にあることだから、大事だと思うことは未来にも過去にも伝えたい。

 武器輸出は、経済利益が目的じゃないだろう。日本は戦争当事国になりたいらしい。世界の願いは、そんなことじゃないのにな。

 今日はクリスマス・イブ、いつかのクリスマス・イブにも、穏やかな明日を迎える福音が訪れますようにと願う。クリスマス礼賛ではないけれど、個人としての細やかな幸福を大切に思いたい。

#津南 #高千穂

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