85mm

君は少しだけため息をついたけれど、変わらずうつむいたままどこか遠くを眺めている。わたしはもう泣けなかった。予想のできる未来が、君の服の裾を掴んで離さないのが見えたから。

電気を付けていない部屋は気付くと暗くなっている。すっかり沈んでしまった太陽のせいだ。わたしはベッドに寝転がりながら、側に腰掛けている君の服の裾をゆるく引っ張ってみる。
「ねえ」
君は頷きもしない。言葉を込めたはずの文字通りの言の葉は儚くも消え、吐き出されたタバコの煙みたいに消えて、誰かの耳に届く前に見えなくなっていった。

そういえばいつか思ったことがある。君の吸うタバコの煙になりたいって。一度でもいいから君の望む通りにひとつになってみたかった。吐き出されるとしても、君の望む快楽がそこにあるのならそんなのは厭わない。だから君のベッドに寝転がって、君がタバコを吸っている姿を見るのが好きだった。そして、タバコを持つ手はいつもに増して綺麗だった。

いつまで一緒にいよう、みたいなそんな約束はしない。別にそんな約束しなくたって、と自分に言い聞かせて。君はそんなわたしのことなんて知らずに笑って、約束は破られた時に意味を成す、なんて言う。だからわたしはいつのまにか、どうにか日々を成さないよう、必死に息を吸っていた。

暗闇の中、君の体が動いて布団が擦れる音がした。
君はわたしの頬に触れ、髪を撫でてくれた。わたしの放った言葉はどうやら届いていたらしい。遠回しに言ったのにな、と後悔したけれど、答えはもうすでに出てしまったようだ。胸の上のあたりで息が詰まる。返す言葉が出てこない。呼吸の仕方を忘れてしまうほど、肺も脳も一瞬で空っぽになってしまった。でも、部屋が真っ暗でよかった。この瞬間の記憶は残しておきたくなかったから。

でもね、一つだけ覚えてるの。あの時、わたしの頬に触れ、髪を撫でてくれたのは、いつもの右手ではなくて、君がタバコを吸う左手だったってこと。




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