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誰かを、殺してしまいたいほど憎んだことはありますか。
誰かを、殺してしまいたいほど愛したことはありますか。

私は、あるんだと思います。


ごくごくありふれた、普通の家庭で生まれました。ひとりっ子で寂しい思いをしたなんてよく聞きますが、父と母は私を、とてもとても愛してくれましたのでそんなことは一つも思ったことがありませんでした。

父は、真面目で子煩悩な人でした。
詳しくはわかりませんが、どこかの会社の営業だったようです。毎日朝7時になると、スーツを着た父が玄関を出るのを泣きながら見送ったのを覚えております。
お休みの日は、私と母をよくドライブに連れていってくれました。近くの海沿いを走ったり、動物園に行ったりもしました。

母は、優しくてとてもきれいな人でした。
料理もお裁縫も上手で、私が食べたいと言ったものは何でも作ってくれました。小学校に持っていく給食袋も母がミシンで縫ってくれましたし、朝はうんと早く起きていたようで、薄化粧でもしっかり口紅を差し、黒い髪はいつでもきれいに纏められておりました。
私は、そんな父と母が大好きでした。


でも、いつからでしょう。
いえ、そんなことはわかりきっています。


中学2年生の夏休みが終わった翌日、突然父は死にました。

その日父は、定刻になっても帰ってきませんでした。いつも時間ぴったりに帰ってくるような人だったので、何かおかしかったように思います。
朝もいつも通り、糊のきいた白いシャツと手入れの行き届いたスーツをぴっしりと着て玄関を出て行きました。靴はきれいに磨かれていました。



母と私の生活は、特に変わりませんでした。
幸いにも父がそれなりのお金を残してくれたので、住む場所や食べるものに困ることもありませんでした。他の家庭がどうかはわかりませんが、私は裕福な家庭の子としてその後も育つことができました。
ただもう、優しくてきれいな母はいなくなりました。

母は私に厳しくなりました。 
これまで口出しなどしたことない母が、勉強、部活、門限、恋愛にまでよく干渉してくるようになりました。
高校に入学し、私の進学先を父の母校である筑波大学に決めたのも母でした。テストでは90点以上取るのが当然で、ひとつでも落としたものならその日は寝ることができませんでした。
また夜8時から1時までは勉強時間でしたので、その間母は、私の部屋で使われることのない丸型で同じデザインのコースターを何枚も何枚も編み続けていました。それが3年間続きました。


実は一度、門限を破ったことがあります。
高校を卒業するまで門限は夜6時と決められていたのですが、ただ一度だけそれを破ったことがありました。
家に帰ると、玄関の外にいた母にぶたれました。
そして縋りながら、何度も何度も私の胸に拳を打ちつけて泣き喚きました。
私は、もう二度と破らないと誓いました。


母が大好きでした。
髪の毛の艶はなくなり化粧をしなくなっても、私のことをひとつも褒めてくれなくなっても、どんなに頑張っても認めてくれなくても、父の姿を私に重ねていても、ぶたれても殴られても母のことが大好きでした。そしてとても、とても寂しくてかわいそうでした。

昨年、母も亡くなりました。

私は大学を卒業したあと、地元を離れ東京に就職しました。その後今の夫と出会い、子どもができたため彼の実家のある長崎へ移り住みました。孫に会いにくるようなことはありませんでしたので、昨年暮れの葬儀で、16年ぶりに再会しました。

私は、母の亡骸を見て声を上げて泣きました。
自分でも驚いたのですが、慟哭とでも言うのでしょうか。人前でとても見せてはいけないような姿で、棺に小さく収まる母に覆い被さるようにして30分ほど泣き続けていたようです。


母が死んで、ようやく母を憎んでいたことを受け入れることができました。
あの頃どんなことがあろうと大好きだった母を、私はこれでもかという程憎んでいました。いつまでも父の幻を私に押し付け、私を見てくれなかった母を。そして最後まで私が見えなかった母を。


もう、殺すこともできない。
やっと、殺さずに済んだのだ。


親の死に臨む子の姿としてあるまじき話なのは百も千も承知なのですが、私はせいせいしました。
あぁ、死んでくれてよかったって。
そして、自分が母を殺してしまいたいほど憎み愛していたことを知り、とても安堵しました。

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