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シンクロニシティと去り行く人

 noteをやっていると、シンクロニシティという単語を思い出すことがよくあります。

 最初にこの言葉を知ったのは、英国のバンド、ポリスのアルバムのタイトルとしてでした。ボーカルのスティングが好きだったので繰り返し聴きましたが、タイトルの意味はわからずじまい。

 シンクロニシティが、哲学者ユングの提唱した概念だと知ったのは、大学生の頃だと思います。日本語に訳すと、共時性。ウィキには、「虫の知らせのようなもので、因果関係がない2つの事象が、類似性と近接性を持つこと」とあります。
 ユングの哲学は解説書を読んだことさえないので、どんな概念かちゃんと理解しているとは思えません。だけど不思議な偶然の一致があると「シンクロしてるな」と考えて、一瞬ですが神秘を掴んだような気持ちになります。

 最近の例では、5月の終わりに国立近代美術館の展覧会に行ったところからはじまる話があります。noteで相互フォローしているAさんと、他のSNSで「おすすめの展覧会ですよ」「行ってみます」とやり取りしていたんですね。
 すると、その数日後、Aさんが「最近購入した本」として、アポリネール詩集をあげていらしゃる。
 近代美術館でアポリネールの詩を思い出したばかりだったので、「あら、Aさんも!」とちょっと驚きました。展覧会にあったマリー・ローランサンの絵から、アポリネールを連想したのです(Aさんに展覧会をおすすめした時は、ローランサンの名前は出していません)。アポリネールは難しい詩も書いていますが、私にとっては、小学生の頃に何かの本で読んだ、ローランサンとの別れを描いた詩の印象が強いです。

ミラボー橋の下をセーヌが流れ
わたしたちの恋が流れる
わたしは思い出す 悩みの後には
楽しみがくるという
夜が来て 時の鐘が鳴る
月日は去るが 私は残る

アポリネール『ミラボー橋』より

 Aさんにとっても、無意識のうちに、近美の展覧会の予習ができる本を買った、ということになるのでは…?

 さらにその後、noteに展覧会の記事を書き、特に良かった絵を何点か紹介しました。その中にユトリロの絵があったのですが、それを読んだAさんから「今読んでいる本にユトリロが登場します。てっきり、架空の画家だと思っていました」というコメントをいただきました。

 アポリネール&ローランサンに続き、ユトリロでもシンクロした、と信じることにします。良いつながりはあった方がいいので。

 他にも、苦手意識の強かった村上春樹さんの短編集『女のいない男たち』のサンプルをダウンロードしたものの、何となく読む気になれずにいた時に、noteで別の短編集の感想文を読み、それがすごく心に入って、早速その本を購入した、といったこともありました。あの日、感想文を読まなければ、私が村上主義者になることもなかったでしょう。

 自分がどこかでぼんやり求めていたものを、形のあるものとして、noteが差し出してくれたような気がします。

 もちろん、そうしたシンクロニシティには、noteの同じ空間には、似たようなものを好きな人が集まりやすいという前提があります。
 その点も、不思議といえば不思議なのですが、似たジャンルの本を読む方をフォローしたつもりが、本以外の趣味まで重なることがよくあります。
 私のnote名の元になった曲(ビートルズの「ビーイング・フォー・ザ・ベネフィット・オブ・ミスター・カイト」)を毎朝車で聴くと教えて下さった方、デイヴィッド・リンチとタランティーノをどちらも偏愛する方などなど。
 現実の世界では、一つ趣味が合えば十分で、複数の趣味が一致するなんてまずないと思っていたのですが。
(近代文学とビートルズとリンチのように、関連性がない趣味の場合。近代文学と宮城道雄と小津安二郎といった統一感のある趣味をお待ちでしたら、一致することも多いと思います)

    *

 シンクロニシティについて書きましたが、実際には、共時性というのは滅多に起きない概念だと思います。
 特に読書の場合、新刊や最近の『百年の孤独』ブームなどは別として、同じ本を同時に読むことは少ないです。
 なので、小説を読んだ時、「そういえば、この本の感想文を◯◯さんがnoteに書いていたっけ」と思い出し、検索して読み直すことがたまにあります。
 自分も読んだ後で感想文に触れると、最初に読んだ時とは違う視点で、感想文を理解することができます。
 そんな風に、過去に遡って他人の感想文を読めるのがネット時代のいい面ですよね。

 今、私は太宰治の小説を読んでいるのですが、その際に思い出すのが、以前noteでフォローしていたBさんです。
 Bさんは、太宰が好きで、太宰の小説についての記事をよく書かれていたんですね。もちろん、当時もその記事を読みましたが、その頃は太宰に思い入れがなかったので、深く理解することができませんでした。
 今なら、Bさんの記事を読んで、共感したり、違う視点を知ったりできるはずです。
 でも、Bさんは一年ほど前にnoteをやめて、記事を削除なさったのです。

 noteを始めて二年以上経つので、多くの別れを経験しました。でも、よく知っている中で(コメントのやり取りをしたなど)、アカウントを消去なさったのは、Bさんともう一人だけだと思います。他の方々は、noteをやめても、記事は残っています。
 もうお一方のように、「途中まで書いた長編小説がある」といった場合には、間違って誰かが読み始めたりしないように、記事を消すのもありだと思います。また、日記や時事ネタエッセイなども、消してもいいかもしれません。
 でも、読書感想文のように、時がたっても古びない記事は、残してもいいのではないでしょうか。
 いつか誰かが、自分が読み終えた本の感想文を探すかもしれません。
 すべての記事を消して去って行かれたBさんに、潔い美しさを感じるのも確かですが、自分の知らないところで、本を介して誰かに刺激を与えるのもまた、美しいことだと思いませんか。

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*直近のシンクロニシティ例
 この記事を書く直前に購入した遠藤周作の『深い河』が、シンクロニシティという概念に影響を受けていると先ほど知りました(ウィキより)。

*シンクロしたわけではなく、noteの知り合いとは好きなものが、かぶりがちという例
 吉穂みらいさんの創作大賞参加作品『眠る女』、重要人物の下の名前が、私が長年書いている小説主人公の初恋の人と同じなんです。上の名前は、同じ主人公の最後の恋の相手と同じ。→これは、男性の名前を『源氏物語』からとっているためだと思います。下の名前は薫(カオル)、苗字は柏木。
 『源氏物語』ファンの心をくすぐる小説です! 他にも、源氏ゆかりの名前を持つ人物が登場します。ファンの方は、ぜひチェックしてみて下さいね。
 


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