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自分語りと村上春樹さんの小説

 noteを始めた時は、自分語りをするつもりは全くありませんでした。森鷗外を始めとする、好きな作家の魅力を伝えたかっただけなので。魅力を伝えるにしても、自分と結びつけるのではなく、できるだけ客観的な立場で伝えたいと考えていました。
 だから、ニックネームも海人という、性別不明(男性寄り?)、読み方さえはっきりしないものを選びました。
(海人はうちのペットとビートルズの「ビーイング・フォー・ザ・ベネフィット・オブ・ミスター・カイト」にちなむ名前です)

 そんな私がーー今も、私生活について積極的に語ってはいないですが、語りたくないわけではなく、特に語るほどのことがないだけです。
 私生活を語る代わりに、自作の小説を投稿してしまった…。小説の内容はフィクションでも、私の心が生み出したものなので、ある意味、自分の心をさらけ出す行為とも言えます。
 自分の心をさらけ出す? 大袈裟なと思われるかもしれませんが、拙い文章を読んでいただくのですから、せめて、心の上面で書くようなことはしたくないです(再び大袈裟ですね、やれやれ)。
 いずれにしても、自己開示が苦手な自分がそんなことをしているなんて、ふと我にかえると、自分でも信じられないぐらいです。

 最初の意図とはずいぶん違うことをしているなぁと考えた時、「分岐点になったのは、村上春樹さんの小説かな?」と思い付きました。
 村上さんの小説って、心の中の普段は忘れているような場所に響く気がします。
 新刊の『街とその不確かな壁』も、noteで様々な感想文を読みましたが、作品を褒めているにしろ、そうでないにしろ、書き手がこの小説と自分との間につながりを感じているかどうかで、感想文から受ける印象が全く違いました。自分の中の何かが村上さんの世界と重なる人と、そうでない人は、同じ本を読みながらも、まるで別の物語を読んでいるように感じられたのです。

 正直言って、そんな読み方が正しいのかどうか……。読書に正しいも何もないとはいえ、迷うところもあります。
 また、私は現代日本文学をほとんど読まないので、村上さん以外にも、これほど個人的な受けとめ方ができてしまう作家がいらっしゃるのかもわからないのですが。

 そういえば、内田樹さんが、村上さんの『羊をめぐる冒険』だったかな? 自分の話かと思ったと書いていらっしゃいました。ただ、内田先生の場合は、村上さんと年も近いですし、ジャンルは違えど、同じ文学者同士で、体育会系的なところがおありなのも似ています。

 私だって、同世代で似た境遇の作家なら、パーソナルな受けとめ方をしても、何ら不思議はありません。
 または、小説の登場人物の境遇が自分と似ているために、親しみを覚えることならよくありました。
 

 でも、村上さんとは性別も世代も違います。
 村上さんは、団塊の世代ですよね。
 団塊の世代って、私にとっては親や上司の世代であり、仰ぎ見る世代であり……正直なところ、少し煙たい存在でもあります。
 実生活では、ステレオタイプとしてある、団塊の世代的な人には会ったことがありません。
 でも、ネットには「声が大きく、自分が正義だと思っているちょいウザ団塊オヤジ」って、よくいますよね。
 彼らの正しさが眩しいし、その行動力を尊敬もしますが、「自分とは違う世界に住む人たちだな」とどこかで思っています。
 私は、若い頃から内田樹さんの本を愛読しているのですが、愛読しながらも、世代の違いによる違和感はあります(内田先生は1950年生まれなので、厳密な意味では、団塊の世代ではないですが)。自分とは違う世界に住む、知の巨人の言葉を拝聴しているような気がするんですよね。

 村上さんは、いわゆる団塊の世代らしさには意識して背を向けている方だと思いますが、それでも、ジェンダー意識など、世代の差を感じる部分も多いです。
 それなのに、村上さんの文章を読むと、私自身の過去が思い出され、時には過去が再構築されることによって、今現在の私の気持ちまでが変化するのがわかります。

 以前にも書いたことですが、村上さんの短編小説「品川猿」を読んで、「嫉妬」という感情が人を損なうことを知りました。
 恋愛関係にある相手に覚える嫉妬ではなく、自分よりも優れた相手に覚える嫉妬のことです。実際に相手が優れているかどうかは関係ない――優れているとその人が思い込んでしまえば、そこに嫉妬が生じる。優れた部分、人がうらやむような部分がどれだけあろうと関係なく、本人が「あの人に比べて私は……」と思ってしまうと、それがその人を内側からむしばむことになるのです。……などといったことは、人によってはわざわざ取り上げるまでもない、既知のことなのでしょうが、私自身や親しい友達がそうした感情とは縁のないタイプだったので、村上さんの小説で読むまで、考えたことがありませんでした(自分も含めて、冴えない自分でも、好きなものに囲まれていればそこそこ楽しく過ごせるオタク気質の友人が多いのです)。

 しかし、いったん、嫉妬という感情を理解してしまうと、「あの人、そうだったのか」と思い出すことがいくつもありました。客観的には、魅力あふれる人に見えるのに、どこか不安定で、生きづらさを感じていた人たち。他人の気分には敏感な方なので、彼らの抱える生きづらさ自体は感じ取ることができたのですが、こんなにも恵まれているのに、どうして生きづらいのか、とても不思議でした。
 私自身の生きづらさは、過干渉な母親や厳格なしつけ、貧乏など、現実に基づいていました(我が家は中流家庭でしたが、中高と金持ち学校に通っていたせいで、非常に貧乏に思えたのです)。現実なので、人にもわかってもらいやすいですし、環境が変わればなくなるような生きづらさでした。
 そうしたわかりやすい生きづらさに囚われていたせいで、別種の生きづらさ、心の内側にあり、人にも話しにくい生きづらさを抱える人たちのことが理解できなかったかもしれません。
 それを村上さんに教えてもらえたことで、他人に対する理解が深まり、自分の人生を別の視点から見直すこともできた気がします。

 自分語りをダラダラ続けるのも何なので、ここでやめますが、自分の進む道に迷いを感じた時や自分がわからなくなった時には、村上さんの小説を読んでみてはいかがでしょう。
 さっきも書いたように、誰もが村上さんの小説と自分を結び付けることができるわけではなさそうなので、絶対にそうなるとは言えませんが、人によっては、これまで見えていなかったものを見つけることができるかもしれません。
 気付けずにいた視点、知らなかった世界、そして、自分の奥底にあるもの。
 そんなものを教えてくれるから、村上さんの小説を読むと、自分語りがしたくなるんでしょうか。
 
 
 
 
 
 

 
 

 

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