漱石山房記念館訪問記 特別展『夏目漱石と芥川龍之介』
新宿区区立漱石山房記念館に行ってきました。夏目漱石の最後の家である、漱石山房の跡地に建てられた記念館です。
高校生の時に芥川龍之介の随筆『漱石山房の秋』と『漱石山房の冬』を読んで、漱石山房のことを知りました。芥川が亡き師の家を訪ねる冬の随筆が特に好きだったので、上京後、どこにあるのか探してみたところ、当時は漱石公園として名をとどめるだけでした。
以前、『吾輩は猫である』の文学散歩の時に書いたように、明治村には猫の家(漱石と森鷗外の旧宅)、石川啄木の下宿、幸田露伴邸と、東京にあった三軒の文豪の家が移築されているのですが、この三軒が戦後まで残っていたのは、奇跡的なことなんですね。露伴邸があった下町は関東大震災・東京大空襲ともに大きな被害を受けていますし、猫の家か
ら徒歩数分の距離にある森鷗外の旧邸・観潮楼も山の手空襲時に焼けています(京成曳舟駅周辺に古い街並みが残っているのをご存知でしょうか? 隅田川以東の下町で唯一焼け残った地区です。露伴邸はそこにありました)。
漱石山房も、空襲で失われた家の一つです。
野田宇太郎の『新東京文学散歩』(講談社文芸文庫)によると、終戦から六年後、漱石山房周辺では防空壕が住居代わりになっていました。復興の進む地区とそうでない地区があり、山房周辺は取り残されていたようです。その中に一軒だけ仮設小屋が建っていて、そこに夏目邸の女中の子孫の方が暮らしていました。仮設小屋以外の山房の跡地は東京都が所有しており(多分、財産税がらみ)、焼け跡に残るのは赤煉瓦作りの煙突と石でできた猫の墓だけ。漱石の随筆『猫の墓』に出てくる墓がこれかと野田氏は思いを馳せています。
その時に野田氏は、三百〜四百坪はある山房跡地がどうなるのかと気にしているのですが、翌年再び訪ねてみると、既に都営アパートが三棟建っていました。日本文学を発信する場にして欲しかったと野田氏は嘆いていますが、東京都にしてみれば、文学よりも住まいが大事だったのでしょうね。
女中の子孫の方の家が、後に漱石公園になったのかな。アパートの方は十年ほど前に取り壊されたので、公園部分と合わせて、漱石山房記念館が建てられたわけです。
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カバー写真が漱石山房記念館です。随分モダンな・・・復元住宅ではないんですね。左奥にある木が芭蕉ーー芥川龍之介が『歯車』で山房の芭蕉を思い出しているので、植栽は山房時代を再現しているのでしょうか。
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漱石山房記念館では、開館五周年を記念して11月27日まで特別展『夏目漱石と芥川龍之介』が開催されています。
芥川の作品には、漱石の思い出話がよく出てきますよね。芥川を通じて、私たち読者まで漱石のあたたかさに触れることができる反面、晩年の作品には、芥川が向こうの世界から漱石に呼ばれているような文章もあって、胸が痛くなります。漱石に代わる人がいれば、芥川もあれほど苦しまずに済んだのではないかと感じたりもします。
特別展では、漱石と芥川間の書簡だけでなく、漱石について書いた芥川→久米正雄の書簡などを通じて、夏目漱石と芥川龍之介という二人の文豪の関係が理解できるようになっていました。
漱石が芥川の『鼻』を誉めた話は有名ですが、展示されている手紙を読むと、芥川が漱石の批評全てに感じ入り、それを親友の久米正雄に伝えずにはおれない様子や、褒められた批評も、そうでない批評も漱石の批評全てが芥川の指標になっていることが伝わってきました。作品の出来を気にする芥川に「君は一定レベル以下の作品はそもそも書けないから、大丈夫」と諭す文章(久米正雄は、ずば抜けた傑作を書く可能性もある代わり、駄作も書きそうだと評されています)、「馬になるのではなく、牛のように超然と押していきなさい」という文章など、芥川ファンの心に刺さる文章もありました。
漱石ファンだけでなく、龍之介ファンの方にもおすすめしたい特別展です。
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記念館併設のカフェで空也もなかセットをいただきました。
空也もなかといえば、『吾輩は猫である』で苦沙味先生・迷亭・寒月の三人が食べる和菓子です(小説では空也餅と書かれていて、寒月が前歯に餅をつけています)。空也は、今は銀座にお店がありますが、漱石の頃は上野の池之端にあったのだとか。猫の家の近所なので、夏目家の常備菓子だったのかもしれないですね。
漱石山房記念館の最寄り駅は東西線の早稲田ですが、結構坂なので、大江戸線の牛込柳町から歩くのがおすすめ。
*田端にある文士村記念館でも、特別展『芥川龍之介と夏目漱石』を開催中です。