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恋とか、愛とか、変とか

自分のことを客観視できる人が羨ましく思う。大体の場合、自分のことを評価するときは、当たり前に主観的な要素が強調され、客観的に判断された意見たちは削ぎ落とされてしまうからだ。

私自身、その性質がもっとも活かされているなと思う場面は、紛れもなく恋愛である。ダイエットも捨てがたいが、やはり、恋は盲目。これに尽きる。



「A君は女の子を取っ替え引っ替えするような男だよ」
「B君ってマザコンらしい」

私が気になっている男性の名前を挙げると、友達は何かしらの”気づき”を返してきた。私のことを気遣って助言をしてくれているのはわかる。

けれど、見えないのだ。

A君もB君も、至って普通の人である。一緒にいて楽しいと思ったから、同じ時間を過ごす。息があったから、さらに長い時間を共にしてみる。3回目くらいのデートでどちらかが交際を申し込んだら、確実に付き合う未来はもう見えている。

なのに、応援してくれないとなると、それは。。

嫉妬…か?
もしかしたら、私の友達はA君やB君のことを好きなのでは…
と、大切な友達を疑ってしまう。



しかし、数ヶ月後に気づくことになる。友達の重すぎる「ほら、だから言ったでしょ。」という言葉に、頭が上がらない瞬間が訪れる。
この未来もまた、見えていたことだったのだ。見ることができたにもかかわらず、見ようとしなかった現実だったということに。



私に男性を見る目がないのか友達が鋭すぎるのか、明確な答えは出ていないが、前者だとは思いたくない。

という、強がりである。

その一方で、恋が盲目だったが故に見えてきたものや、経験できたことも存在するのが事実。





先ほど話したB君とは1か月も経たないうちに3回目のデートまでこぎつけた。会うたびに進化しているのでは、と思わざるを得ないダサすぎるファッションセンスには目を瞑っていたが、付き合うのも時間の問題だろうと、自分の直感を正当化した。ファッションのことは、付き合ってからやんわり伝えていけばいい。そう思った。

この日は、どうしても行きたいギャラリーがあるというので一緒に遊びに行った。すると、入るや否や「あ、いた!」と呟いて一人の女性に駆け寄るB君。きっと話していたデザイナーさんだろうと思い彼の隣に並んでニコニコしていると、「あ、この人は僕のママで、今日の個展はママのお友達が主催してるんだよ。」と小学生のように目を輝かせて語られたのだ。

私の笑顔が凍り付いた。むしろ、笑顔のままフリーズしたことに感謝すべきなのかもしれない。20歳を超えた男のママ呼びも、謎のファッションセンスも、3回目のデートで予告なしに親に紹介することも、笑って済ますほどの余裕が私にはなかった。

第一、彼が決まってわけのわからない柄物の服を身に纏っている時点で、アートなどに精通しているとは思えない、と一刀両断した友達の意見を聞いておくべきだった。「いや、もしかしたら、見る人が見たらすごいセンスなのかもよ」と言い返した自分を必死に憐れむ。そして、それと同時に彼のファッションを指摘する人間がまた1人減ってしまったことへの罪悪感を覚えた。

恋が一瞬にして冷めた瞬間だった。私の目を覆っていた黒く分厚い煙のようなものは一気に晴れていき、自分の見ていた夢は愚かすぎる幻想だったと気づく。そして、即刻、ロックのウイスキーを流し込まないと、この場に居続けることは不可能だと確信した。





恋は確かに盲目であるが、フラフラ歩いて笑いながら進むべき道を見定めているうちは、まだ十分に幸せなのだと気づいた。それはまるで、太陽を見るときに目を細めるのと似ているからだ。しかし、過去に私が迷い込んだ幻想の世界はそんなに美しいものではなく、誰がどう見ても石ころであるものを必死に、”石ころは石ころでも、これは珍しくてかっこいい、隕石だよ!すごい価値だよ!”と言っているようなもので、非常に滑稽な光景であった。



恥じる領域を大いに越え、恐怖とも捉えることのできる自我の損失を経験した私は、大人になることができただろうか。

少なくとも、ここに過去に出来事を流ちょうに語ることができている時点で、B君に夢中だったころの私よりは成長していると信じたい。

そして、22歳になったいま、恋愛と縁が離れていた私に、私から贈りたい言葉がある。





誰かを愛し、盲目になってしまってもいい。ただ、その時もう一人の私は、私のことを安全な道へと導く、杖のような存在であってほしい

と。







ではまた、シーユー。


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