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かげふみ

 靴の入り口がへこんでいるのは、親とか教師とか女とかに何度も何度も指摘されても、いつの年になっても直せない癖だった。どんなに高い靴を買ったとしても、履く時に踏んづけてしまう。毎日履くたんびにそうするものだから、次第にへこんでいく。おまけに歩く時に踵を擦って歩くからなのか、靴底はすり減って、靴下はなぜかつま先ではなく踵に穴が空いた。

 今年の冬はやけに晴れの日が多い。雨が降ってないのかどうか、正確にはわからなかったが数少ない外出であるコンビニへの買い出し時はいつも晴れてた気がする。家に籠るのが当たり前な世の中だから雨の日は絶対に外に出ないからなのかもしれない。

 雨が降るとへこんだ靴の入り口から雨水が侵入してくるので好きじゃない。穴が空いてる靴下だと、排気ガスでも混じってそうな液体が肌に触れて、ひんやりとして夏だったらまだしも冬にはさすがに快適とは言えない。

 繁華街へ向かう道はすっかり晴れて建物と建物の隙間には影が出来ていた。歩き慣れた街並みには、踵のへこんだ靴がよく似合う。生まれ故郷をサンダルで歩くような心の余裕が感じられた。もう上京してきてから数年経っていて賃貸も変わってないから繁華街への道なりはすっかり馴染みのものだった。ちっとも馴染んでないのは顔の半分が覆い隠された人たちの姿と、同じように視界のすぐ下で息を遮る白い布だった。今日は普段のように添加物の並んだお店に行くのではなく、久しぶりにとある箱に向かっていた。


 連絡があったのは一週間ほど前で、ようやく開催できるし俺も回すからと、高校時代の昔馴染みの友人が音を流すイベントの招待だった。イベントというと何やら大それたものに聞こえるが、こんな状況でもあるからと人数がかなり制限されているようだった。誘ってくれた友人は名の知れた企業で働きながらもいわゆるDJとして、界隈ではそこそこ名が通っているらしい。そんな世界とは限りなく無縁だったのに、彼のおかげでそんな場所にも去年の今頃まではよく出向いていた。初めて行った時は暗い場所から明るい世界に飛び出したような気がする。限りなく灯りの少ない、影も見えない暗い場所にも関わらず。

 繁華街に出ると以前の活気が感じられるほどには人通りが多くなった。これだけ人がいることに少しの疑念と嫌悪感を抱いてしまうが、自分自身もそのうちの一人だと思うと、誰かもわからない行きずりの人たちを貶すことはできない。所々、賑わいを見せていた店のシャッターが閉まっている。お気に入りの大都会の中で古ぼけた佇まいの酸っぱい回鍋肉を出す中華屋もその一つだった。擦り減った靴の裏に染み込むぐらいに、店の床は油で塗れて照明を反射するほどの滑り気があったが、もうあの床を踏むことはないと思うと顔を覆う布に関係なくいつも以上に息苦しくなった。

 街の裏通りにあるホテル街の近くにその箱はあった。翌日無料配送でお届けされるようなダンボールの箱ではなく、バーテンダーが立って本当は全種類把握してないんじゃないかと怪しくなるぐらいにメニュー数の多い、カクテルバーのような出立をした店だった。ダンボール箱を毎日のように運ぶ運送業者と同じように、今日は敬意を持って店の人と接しようと思った。

 入る前に消毒と検温を済ませ、住所と名前を記入して身分証を見せた。受付のプラスチック板でくぐもった声がいうには、こうした徹底が運営する上では重要らしかった。オープンから小一時間経っていることもあり、紙のリストを横目に見ると二十名ほど入っているようだった。階段を上がり中に入ると、薄暗い店内はそれほど混み合っておらず、音がよく聞こえた。友人が回すの前の時間帯のDJが小気味よいリズムで、時折耳につくような電子音のハウスミュージックを流している。ブースの周りには僅かに身体を揺らしながら耳を澄ませている男女が数名いた。口と鼻がマスクで塞がれて、耳だけがあらわになっている大きな穴だから、身体の中に音がしっかりと入っていきそうだなと、彼らを見て思った。

 カウンターに座っていた友人が気づくなり近寄ってきて、レモンの入ったカクテルで乾杯した。友人が飲む時に外したマスクの内側は、伸ばしきった見慣れない髭で口元が覆われている。誰に弁明しているのか、人と会うことも減って在宅勤務だから伸ばしていると、髭を口に含みそうになりながら話してくれた。声がギリギリ通るぐらいには、音量が下げられているようだった。換気も必要だし音が結構漏れちゃうからと、近所の人たちへの配慮として音の小ささを説明してくれる。これぐらいが丁度いい気がするし、うるさ過ぎるのも好ましくはないので、ありがとうと返すと、友人は何を言っているのか理解が出来ない様子で、目を開いたままカクテルを飲んだ。

 友人の出番が近づく前、カウンターに座っていた女性を目の前に連れてきた。どうせ一人で来てるんだったらこの子も一人だから喋るといいよと、気を使ったのか間が悪かったのか、お互いの自己紹介が済むなり、準備があるからと友人はブースへと向かっていった。カナと名乗った彼女は、小柄で赤い髪だった。


「新しく会った人でも、古い友人でもさ、久しぶりに人と会って話したかと思うと、あの話ばかり。仕方ないけどさ、もう飽きたよね」

 彼女はだいぶ前から飲んでいたのか、ずいぶん酒が回っているようで、口もよく回った。そんなこと言いながら、私もその話しちゃってるからブーメランなんだけどね、アハハと枯れた声で笑う。

「みんなの話題独占でさ。感染してもないのになんかこっちまで感染した気分っていうか。話題もだし時代もだし、何から何まで感染しちゃったみたいで。本当まいっちゃうよね」

 カナはモヒートを飲んでいた。細いストローで啜る時に見える唇は、適度に柔らかそうなのに分厚くはなかった。ミントの香りがほんの少しだけ吐息から漏れているような気がする。カウンターには彼女と自分以外は誰も座っていない。

「だからぜんぶ忘れて、パーっと弾けたくて、なんてことは浅はかに言えないんだけど。こんなところにいて、胸も痛まないことはないし。」

 テーブルに肘をついて身を乗り出すと赤髪が光に照らされた。照明の色加減ではどちらかというとピンクの方が近いような、若々しい春の花みたいな毛が頭を覆っている。耳にはシルバーのフープピアスが貫通していた。彼女はバーテンダーにもう一杯モヒートを頼み、黒革の財布から一枚抜いて渡す。友人が回し始めたらしいがカナの髪の毛と比較すると印象が薄い曲だった。

「でさ。この前テレビで言ってたの。あの人がさ、よく司会やってる。もう忘れることにしたって。今年は無かったんだって。なんか私それに腹たっちゃってさ」

 ブースの前は先ほどよりも人が集まっていた。知ってる顔も何人かいたが、席を立つのは憚られた。モヒートが彼女の前に置かれると姿勢を正して髪の毛がまた暗がりの中に入っていき、また赤く見えた。

「そんな簡単に忘れられるわけないじゃん。そりゃいつの日かあんな時もあったねってうすーい記憶を思い出しながら懐かしむぐらいにはなるかも知れないけれど、人生が変わった人も、本当に地獄のような日々を送った人もいるでしょう。無かったことにしたくなるのも、わからなくはないけどさ。なんかそれでいいのかなって」

 曲は変わったけれど、曲が変わったことがわかるぐらいで、それ以上に今の状況が何か変わることはなかった。手元のグラスはしばらく前から空になっていたが、もう一杯頼む気にもなれない。彼女は時折目を細めながらこちらの顔を覗く。その度に笑みを返しているが、白い布に覆われているため気づいているのかはわからない。

「人それぞれだし、その人なりの考えもあるだろうから、私がどうこう言うことでもないんだろうけどね」

 でも、どうこう言いまくってるよね、アハハ。と飾りで乗せられたパセリみたいに付け足して笑った。笑うたびに、ハイネックのニットから浮き出るように弧を描いた胸が揺れる。あまりじっくりとみすぎないように注意していたのに、彼女は腕を胸の前で組んだ。
 友人は、音が途切れないように次に流す曲を片耳に当てたヘッドフォンから聞きながら探るように指を動かしている。

「結局あの話にばっかなっちゃうね、やだな。ねえ、あなたの話を聞かせてよ」



 フロントで財布を出そうとすると腕を止められた。袖の上から触られたのに彼女の指から冷たさが伝わってくる。いいの、私が誘ったことだし。受付の奥にいる顔の見えない誰かには聞こえないようにそっと呟いた。
 部屋に入ると、また髪の毛がピンク色に見えた。外はまだすっかりと暗く、フロントも薄暗かったため、髪の色はしっかりと見えていなかった。肌の白さが、髪の色味をしっかりと引き立たせている。小柄な身体を布団に投げ出すと、受付で渡されたペットボトルの蓋を開けて口をつけた。水が唇の横から頬をつたって白いシーツに一滴こぼれ落ちた。
 踵のへこんだ靴を脱いで、同じようにベッドに腰掛けると、彼女が身体を寄せてきた───。

「じゃあ、彼は昔からずっと陽気で日向を歩いてきたんだね。あなたと違って人気者だったと」

 カナは羽毛布団を締め付けるように腕で抱きかかえていた。骨が入ってないんじゃないかと思うぐらいに柔らかそうな二の腕には、ホクロが点々と散らばっている。そう言えば友人に挨拶もせずに出てきてしまったことを思い出した。

「まあ顔立ちもしっかりしてるし、文化的にも精神的にもいけてるというか、ぱっと見はかっこいいもんね。でも、外見とか趣味とか声のでかさとか、私はそんな物差しで人をはかりたくないし、そんなことで陰とか陽とか決まるものでもないでしょう」

 部屋の中はすっかり暗かった。もう暗くなってからはしばらく時間が経っているので、ホクロの位置もわかるし、髪の赤さも判別できた。自分の胸元の辺りで項垂れている赤い髪の隙間からわずかに漂ってくる匂いは、放課後のスイミングスクールを急に思い出させた。行きたくない気持ちばかりなのに、泳いだ後の棒付きアイスが楽しみで仕方なかった。

「それにさ。どっちがいいって話でもないもんね。今の時期はほら、外出して日向に出てる方が周りの目もあまりよくないでしょ。日の当たらない場所で、おうちの中でじっとしておく方がよかったりさ。もちろんお日様は気持ちいいんだけどね。まあでも、どちらが良し悪しとかじゃないんだよ」

 酔いが回っていればもう既に何も聞こえず、すぐに忘れる支離滅裂の夢でもみていただろうに、もう日が昇るような時間帯だった。彼女の口はホテルに入ってからというものの、身体を密に合わせている最中に及ぶまでなかなか留まることがなかった。途切れるたびに渇くのか水を口にふくむが、決まって口元から零した。ちょうど手の触れた掛け布団の一部が湿っている。避けるように立ち上がってソファに腰掛け灰皿に手を伸ばした。

「かげふみって遊びあったじゃん。鬼ごっこの影付きのルールみたいなやつ。確かあれって、影の中にいたらセーフだったよね。鬼は影の中に入れない。でも制限があってずっと影にいることはできない。じゃないと遊びとして成立しないしね。子供ながらよくできてたよ」

 灰皿には既に5本ほど吸い殻が潰されている。風化した吸い殻が鼻を刺激する。どうしてこんなに匂いのキツいものをそう何本も吸っていられるのかと度々思い返しても、そんな考えは肺が汚れていくたびに頭の中で暗く塗りつぶされていく。吸い終わったら部屋を出ようと、脱ぎ捨てられた服をかき集める。

「影の中にずっといれたらいいけれど、それだけで生きていけないのも事実なんだよね。鬼につかまらないように、逃げるしかないのかなってさ、たまに思うんだよ」



 外はもうすっかり明るくなっていて、ビルの隙間から日が差している。繁華街の街は建物が大きく、道のほとんどが日陰になっていた。へこんだ靴の入り口を踏んでいる踵は、影を踏んでいるような気はしなかった。

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