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助けた人に礼を言う

え、この登場人物の台詞ってどういう意味?え?いや、え?

そんな多感な中学二年生の心を弄んd…もとい、興味をかき立てた我が聖典、宮城谷昌光の「孟嘗君」。

どれくらい謎な台詞があるかというと、例えば、

「隻真どの、貴殿がお仕えする人は大梁におられるが・・・」
 田文の声は、しかし隻真の足をとめさせなかった
「珞珞、石のごとし」
 それはあたかも草の声のようであった。(5巻208p)

みたいな台詞がしれっと物語の中に組み込まれているのです。

いや、珞珞って何?石のごとしって何?

この言葉の意味は、福永光司の名著「老子」を紐解き、丹念に読み進めていたある日、偶然、発見します。あれ。あれれれれ。この言葉、どこかで見たことあるぞ。ん?あ!

老子、第三十九章の最後の言葉、不欲琭琭如玉、珞珞如石。うるわしく玉のようであることを望まず、ごろごろと石のように転がるのだ、という意味。

小説「孟嘗君」はこんなののオンパレードなのです。

古典からくる謎台詞や、人生の酸いや甘いを体験したからわかる謎台詞。何度も何度も、人生の節目に、「孟嘗君」を手にとって、それらをひとつひとつの謎解きをクリアしていきました。なので、今現在で、通算27回読目。聖典でしょ。

で、一番最後に残った謎フレーズがこちらです。

「文どのか」
 涸れた声ではない。いのちのうるおいが残っている声である。
(中略)
「父上――」
 田文は白圭の手をさぐった。その手は乾いていた。自分を大きくしてくれた手は、この手だ、とおもうと田文は涙がとまらなくなった。白圭はしみじみと田文をみている。
「文どの、人生はたやすいな」
「そうでしょうか」
「そうよ……。人を助ければ、自分が助かる。それだけのことだ。わしは文どのを助けたおかげで、こういう生きかたができた。礼を言わねばならぬ」
「文こそ、父上に、その数十倍の礼を申さねばなりません」
「いや、そうではない。助けてくれた人に礼をいうより、助けてあげた人に礼をいうものだ。文どのにいいたかったのはそれよ」
 白圭はそれから洛芭や斉召などに顔をむけ、長生きこそ人生の真の宝だ、といい、田文がいちど別室にさがったわずかなあいだに、息をひきとった。(第5巻p270−271)

中学二年生のわたしには、白圭が何を言っているのか、本当にわかりませんでした。助けてくれた人に「ありがとう」というのは、わかる。だけど、自分が助けた人に、なんで「ありがとう」と言うのか。

で、それから20年以上たった今だと、この台詞がとても腹に落ちます。なぜ、助けた人に礼を言うのでしょう。助けることで、以下の現象が発生するからです。

[誰かの助けに応えることで起こること]
・想定外の領域に足を踏み入れる
・想定外の力を発揮する
・想定外の世界を知る

ずばり、答えは「想定外の世界を見せてくれるから」。

ひとは自ずと、自分が安心安全でいられるコンフォートゾーンを作りがち。何かのきっかけがないと、なかなか外の世界を冒険しません。ところが、だれかから発信された「助け」に応えようとすると、そのコンフォートゾーンから出ないといけない。しかも、出た先で踏み込む世界は、自分が全く想像もしなかった世界です。その未知の中で、だれかを助けるために、思いもよらなかった行動を取り、潜在的に眠っていた自分の力を発揮します(参考:愛を忘れず、伝えているか)。

なので、誰かを助ければ助けるほど、自分の視野と器が広くなります。想定外をどんどん想定内に取り込んでいくのです。

白圭が「長生きこそ人生の真の宝だ」と表現したのは、その大きくなった人としての器に、たくさん盛られた様々な人間模様をさして、宝と指したのでしょう。今なら、めちゃくちゃ、納得がいきます。


そんな白圭を目指した孟嘗君を目指しているわたし。微力ですが、助けには積極的に馳せ参じます。色んなことが相まって、そのひとが救われ、有難くもお礼を言われた折には、そっと答えようと思います。

「いやいや、こちらこそ。ありがとね」と。


ごちそうさまです。

まさかお金が振り込まれることはあるまい、と高を括っているので、サポートされたら、とりあえず「ふぁ!」って叫びます。