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天地伝(てんちでん) 1-7

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    七

 小屋の中はうす暗かったが、夜目がきくので、あまり不便ではなかった。なにより、打ちつけた鼻のうずきのほうが、気になった。血のでたところを、ちろちろ舐めていると、背中を足でつつかれた。「何人だ?」と、小声でささやかれ、わずらわしく思いながらも、首をひねって辺りを一度、ぐるりと見まわした。
 「三人じゃ。窓際、壁越し、目の前。京也は、馬のそばの藁の上じゃ」と、答えるや否や、タイマは、目の前の男の頬をはり倒した。
 わしを殴った時など、比較にならぬほどの力で殴り倒したため、男は泥土の上でそのまま失神した。次に、「なんじゃあっ」と干からびた叫び声が、タイマに飛びかかろうとした。窓際で腕を組んでいた男のようだ。その無骨な腕が届く前に、首をつかんで宙空で留めた。
 「八枯れ」と呼ばれ、わしは藁の上に着地した。気絶していた京也の首根っこをつかみ、戸口のそばまで、引きずった。どうやら顔と腹を、少し殴られただけのようだ。致命傷に至るような、目立った外傷はない。そうタイマに知らせると、「そうか」ため息をついた。
 「壁際の。お前が、主犯だろう?」
 いつもと変わらぬ調子でそう言うと、壁際の男の方を向いた。もちろん、右手には向かってきた男を一人、ぶらさげているので、時折苦しそうなうめき声が、もれている。
 壁際の男は、唖然とした表情を浮かべたまま、「そうだ」と、小さくつぶやいた。タイマは、手に持っていた男を、その主犯に向かって投げつけた。主犯は、男をぶつけられ、その衝撃の反動で、泥土の上に転がってもがいた。どうやら、投げられた男はすでに失神していたようで、びくともしなかった。主犯は、気絶した男の体をどかして、タイマを睨みつけて叫んだ。
 「何なんだ、あんた」
 「さあ、何なんだろうね」
 「ふざけんな。その子供を、こちらへ渡せ。あんた、わかってんのか?その小僧は」
 「坂島の跡取りだろう?」
 タイマは着流しのそでに両腕をつっこんで、ため息混じりにそう言った。主犯は、目を見開くと同時に、月明かりに照らされたタイマの白髪を見つめ、息を飲む。瞬間、さあっと顔から色をなくして「天狗じゃ」と、つぶやいた。間違ってはいないが、妙なことを言う男である。信仰でもあるのか?
 「この小屋は、お前のものか」
 タイマに睨まれた主犯は、本当に天狗とでも思っているのか、突然、勢いをなくして「ちがいます」と、消え入るようにつぶやいた。タイマは白い髪をかきあげて、大きなため息をついた。
 「事情をあまり聞く気もないが、どうせここで見逃しても、同じことをやるんだろう?それもつまらないな。どうするか」
 タイマは顎をかきながら宙を見すえて、首をかしげた。小屋の中は一時、静かになった。夏の夜特有の、湿っぽい土のにおいと、家畜のにおいが混ざりあい、にごった臭気で満たされていた。
 主犯の男は、力なくうなだれると、小屋に射しこむ月明かりの下で、肩を震わせていた。頭を泥につけて、しぼりだすような声で、嘆きはじめた。タイマはそれを見ながら、眉間に皺をよせた。
 「俺たちは、もともとは武士です。そりゃあ、下の方のもんだったが、それでも、昔はこんなに食うに困ることはなかった」
なんの話じゃ。わしが小声で、つぶやいたが、タイマは黙って、腕を組んでいるだけだった。男は額を汗と泥まみれにして、顔を歪めていた。
 「それが突然、お上が外のもんなんか入れて、平等だなんだって、言いやがって。金を持っている連中だけ、新しい文化だ、なんだって、にぎわいやがって。必死に働こうとしたって、侍なんかに口はない。すぐ首になる。乱暴だと、蔑まれて、異人には馬鹿にされて、殴られて。おれたちは、刀無きゃ、なんもできねえって、言われてるみたいで、何が日本の誇りだ、自立だ、ちくしょう。どうすりゃいい。こんな世、もう生きていけねえ。たまらねえ。新しいもんなんか、くそくらえだ」
 「だから、政治家の子供をさらったのか?ずいぶんお粗末だな」
 「そいつらが居なけりゃ、俺たちはもっと自由でいられたんだ。金持ちにはわかるめえよ」
 「まあ、そうだな。誰にもわかるまいよ、個人の苦楽など。お前にも金持ちの苦労がわからないように、お前の苦労など貧者にはわからない。なにより、前までお前が足下にしていたものに、次は足下にされているだけだろう?逆恨みは止すんだな」
 主犯の男はぐっと、暗い双眸を細めて、タイマの冷徹さを睨みつけた。
 「一度、甘い蜜を吸ってそれを忘れることなんか、できるものか。俺たちは、神に転がされる蟻じゃねえんだ」
 わしは大きくため息をついた。うんざりしながらも、成行きを見つめていたが、いい加減で飽きてきた。ともかく何か不満があって、誘拐をしたことだけはわかったが、なんで京也である必要があるのか、さっぱりわからない。面倒に思い、あくびをもらしてしゃがみこんだ。それに反して、タイマは何やら難しそうな顔をつくって、「ううん」と、小さくうなっていた。
 「なんじゃ、こいつの言うこともわかるのか」
 タイマは苦笑を浮かべて、わしを振り返ると「まあ、だいたい。流行りものも、目を通したしね。福沢諭吉とか、吉田松陰とか、加藤弘之とか、ちょっと前の新聞とか、見つからないように手に入れるのには、苦労した」と、つぶやいていた。わしはますます混乱して、眉間に皺をよせると、「その呪文を、やめろ」と言って、辟易した。そんなこと、こっちの知ったことではない。
 「仕様がないな。まあ、簡単に言うと、」と、タイマは宙を見据えたまま、頼んでもいないのに、とうとうと語り始める。
 「慶応から、明治になって、鎖国状態だったこの国が開国したあと、階級差別が、貧富の差別に変わっていったんだよ。武士が、国を動かしていたが、その役職も一応は、なくなる。武士も、商人も、町人も、農民も、みんな同じ位になるんだ」
 まず、冒頭からついてゆけない。ケイオウだかなんだか知らんが、あとが面倒なんだから変わらなければいいだろう。うんざりしながら、呪文の嵐に、耳をふさいだが、それでも止むことはない。これは拷問なのか?
 「で、明治憲法のお定めになるところでは、国民は天皇の子供として、戸籍上みな家に入り、苗字を名乗り、統一され、政府から、どこの誰がどのような生活をしているのか、だいたい把握され、まあ監視下に置かれるようになる訳だ。でも、この国民統合の装置は、独逸の憲法をそのまま、模倣して実行しただけだ。しかし、そうやってきれいにまとめて、保護されていくと、曖昧だったほうが良かった人間たちは、困ることになるんだよ」
 「要点だけを話せ。いやもう話すな。黙れ」
 わしがぐったりした声を上げても、タイマは嬉々として、話すのをやめなかった。嘆いていた男など、もはや蚊帳の外である。わしにとっては、彼岸よりも、ここが地獄である。
 「新しい制度が入れば、古い制度は壊れる。なんでも、新しくしたところで、古い制度が守っていたものもあったと、言うことだろう。本当に、生活をしている人間たちは、新しいものについてゆくのに、必死なのさ。流れについて行けなくなったら、犯罪をやるか、狂うか、死ぬか、する。こいつは、犯罪にいった。それも政治家の孫をさらうって形で、報復だか、なんだかをしようとした。だが、これこそまさに日本の闇だ」
 「意味がわからん」わしは、尻尾を振って、あくびをもらした。
 「古いものを捨ててもね、中身が古くちゃ、新しいものも古くなるんだよ。そもそも主体性のない人間に、自由を与えたところで、この始末だろう?育てるより先に、取り除かなくちゃ駄目なんだ。だが、早く変わろうと焦ったばかりに、腐った根の上から、新しい種を植えてしまった。だから、新しい種も一緒に腐って、育たないんだ。なぜかわかるかい?」
 「知るものか」
 「諸外国を見て、格好悪いって思ったのが敗因なのさ。人にも言えるだろう?他人の姿はたしかに、自分を計る尺度になり得るが、それに合わせたところで、そう簡単に変わるものではないんだ。例えば、足のない人間に、足のある人間と同じように歩け、と言っても無理なことと同じようにね。それぞれの特徴と、生きてきた時間や空間と言うものが、あるんだよ。彼には彼の生き方がある。それを一生懸命になって、模索しなくちゃいけない。でもそれをサボると、こうして横にずれていくんだ」
 長話も、ようやく一段落したらしい。タイマは表情をかがやかせて、主犯の男に笑いかけ、「なあ、当たっていたか?最近読んだ、探偵のようにはいかんもんだが、なかなかだろう。面白かったか?」と、ふざけたことを、真剣に言った。わしは、疲労感のたまった眼で睨みつけて、舌打ちをすると「だから、それが何なんだ」と、一度大きく尻尾を振った。
 ずいぶんいまさらではあるが、外見上、犬であるわしと話していることで、主犯の男はますます顔色を悪くしていた。しかし、それも知ったことではない。退屈な話の連続に、わしの欝憤は爆発しそうだった。
 「だから、勉強しろって。噛み砕いて説明したところで、お前はわかりゃ、しないじゃないか」
 タイマは、袖に腕をつっこんで、不機嫌そうに顔を歪めた。露骨な茶々を入れられたのが、気に喰わないようだ。わしは牙をのぞかせ、低くうなった。
 「くだらん。確実なことは、わしはまだ働かなくちゃいけないってことだけだ。まだ貴様と小僧を、乗っけて帰らねばならんのに、くだらんウジ虫の泣き言と、腹にたまらん小理屈まで聞かされて、うんざりしとるんじゃ。おい」
 わしは、下級武士で主犯の男、とやらを睨みつけた。男は、一度大きく肩を震わせ「はい」と、力なくつぶやいた。その情けなく下がった眉尻を眺めて、ため息をついた。
 「他言すれば殺す。覚悟しておけ」
 男はうつむいたまま、無言で小さくうなずいた。わしは、鼻から息を吐いた。気絶している京也を背に乗せ、にこにこと上機嫌になったタイマを乗せて、また闇の中を駆けだした。時折、背を押したのは、天狗のやわらかな追い風だった。
 「わからないってのも、なかなか良いものだな」と、途中また訳のわからないことを言われた。わしは鼻を鳴らして、夏のむし暑い空を駆け抜けて行った。


    八へ続く


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