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殯の宮(もがりのみや)

黄土焼きのべんがらを塗りつけた、艷めく朱色の四柱に囲まれた寝台。
その寝台に、八重咲きの玫瑰まいかいが朝露のなみだを堪える様で、丁重に寝かされているのは、姥太母うばたいぼ
姥太母は、大きく黒い体の、売り払えば農場主の懐を豊かにさせるほど丸々とした子を何匹も産んで、その一つ一つに同じぶん愛情を振り撒き、満福の腹を抱えて、優雅に午睡ごすいを貪る気高い母豚の眠りの底に居た。
姥太母の意識は起きていたけれども、どうしても瞼が言うことを聞かずに、脂肪の厚み分の重力に落ちまけていた。
体の節々どころか、四肢、手足の先、身体全土に至るまで、既にそうだった。
姥太母の今の精神は、 自分をぐるりと取り巻く世界がある事に、目覚めたばかりの子供のような、幽体離脱の初期状態のような、こんはくが互いに食い違っているような、認識の居所が悪いような、意識の位相がずれているような、目覚めているのに自分はそれを自覚できない、ともかく普通と違って変な浮遊感がある、居心地の悪い状態だった。
寝台が置かれている殯宮もがりのみやは、常に霧深い不気味な森の中にあり、只人は森には入るどころか、殯宮のある方角に視線を向けることすら、何かしらの障りがあると言って憚られた。

森の中では、黒い蜥蜴が人知れず倒れ象牙色に朽ち果てた石木の上で、ほんのりとした温かさの中の木漏れ日に身を置き、束の間の日光浴をしていた。

天蓋の垂れ幕には、それぞれの四方の方角を意味する、飾りが下げられていた。
東には、人の生のうち、若芽の季節である青春の緑色を表した翡翠。
南には、その次にやってくる、最も活動的な季節を意味する紅珊瑚。
西には、動の後の静を司る、白秋を司る真珠。
北には、やがてしぼまり、終わりとなる玄冬を象徴する黒檀。
それら森羅万象を司る瓔珞ようらく飾りが、人の生と季節の移り変わり、それに喰い喰らわれる畜生たちのように連なって蠢く、この世の全てを表していた。

そしてこの四柱は、星辰の善き日、禍星まがぼしの気配の全くない日に芽を出し、千年鶴の生き血が渇き、万年亀の甲羅が苔むす程の時間をかけて大きく育った、菩提樹を切り出したものだった。
天蓋の裏の天板には、黒牡丹と黒薔薇くろそうびの花が、干されて乾いた体のまま、水を失ったままの不凋花ドライフラワーの意として、地に健気にも咲いていた頃とは逆向きに、びっしりと敷き詰められた花畑の顔をして下げられている。

蒲団ふとんの敷布には、氣脈きみゃくがどう描かれているかの地図が記されており、世界が創られたおりに、龍が走った跡を知ることが出来た。
最近の若い地龍どりゅうが抉ってできた狸穴まみあなのような場所に、力場から溢れた氣が流れ込んで新しく出来上がった龍脈も直ぐに記され、毎日少しずつ変るさまは、まるで生きている植物の蔦模様だ。
この星の毛細血管を記した布の地図の上に、黒牡丹と黒薔薇の、乾いた花弁がひらひらと気まぐれに落ちて来て、地に触ると同時に、少しの破片になって別れた。

寝台のそばに、面を白布で覆い、おぞましいほど指の鋭くて気味の悪い男が近寄ってきた。
男の服装と全体の雰囲気は、黒子の衣装を纏った人形を思わせる。

そのあべこべな印象の男を、ここではとある遣いと記す。

遣いは、寝台の上の主を不意に刺激しないよう気をつけながら、敷布の上に落ちた黒い薄破片たちを、有り得ない長さの指で拾い上げ、刺殺の現場を検める役人の目付きで、眺めた。
目的の場所を緯度と経度を計算して求めるように、風水師や占い師が意味深な図形を描いた紙の上に、木の実やら貝殻やら石やらを、無造作に放り投げて、どの図形に、一体なんの物質が重なったのか、という事を元にして占うように、遣いは、縦横無尽に走っている気脈の筋と、落ちてきた死花の破片達の場所を何度も確認して、天の意向と、気紛れな運命の開き、降ってくるであろう吉兆の影を握ろうとした。

それによると、どうやらもう時と量子の海の潮汐が狂い始めているらしかった。

遣いは、人ほど豊かな感情がなさそうな瞳で、姥太母を見て、潮時そろそろで御座います、と言い放った。

姥太母は、己の寿命を自覚済みの患者が医者に宣告される時のさらりとした覚悟で、それを耳で拾って、全身で聞き、心で受け止めていた。

寝台の脇に、妙を極めた花が咲いてある。
表は白い雛罌粟の花で、縦縞の緩い飾り皺を形作っているその裏側は、襞飾りの立派な帆立貝。亀の手貝の触手を思わせる細い蕊の中心には、大粒の黒真珠が嵌められている。

その花が植えられている素焼きの鉢の近くには、白地に青釉薬で水草の模様が塗られた睡蓮鉢が。
睡蓮鉢の中に、花弁の先に肖像画の乳母の乳首の色を称えて咲き誇っている蓮の花。
鉢泥の中から湧き生えた一つの蕾の中を、遣いの指がまさぐると、匂い付けのために一日中入られた茶葉が零れ出して、床にいくつかぱらぱらと落ちた。
永遠に閉じられていたはずの曼荼羅の花の茶壺の蓋を開け、手に直接触れぬために、白い紙の上に包む優しさで、茶葉を乗せた。
遣いは、月が薄い雲の衣を纏った時の光と同じ、ほんのりと蓮の香りが広がる茶葉を、紙の上で斜めにして急須に流し入れると、機械仕掛けの絡繰のような隙がなく冷たい動きで、火鉢の中の白檀の炭で清水を沸かした湯を注ぎ入れ、蓋をする。
小鳥の嚥下が済むぐらいの時が過ぎてから、急須の中身を、しきみの木をくり抜いて造られた茶杯に注ぐ。

木の器から、少しだけ伝わってくる熱を確かに掌で感じながら、遣いは部屋の真ん中へ進み出た。

姥太母は、微かに生きていた聴力で遣いがすぐ近くまでやってきた気配を感じ取ると、少しだけ顔をそちらに向けた。
それも、石像の顔の影が陽の角度によって変わる、誤差の範囲のような少し、だった。
遣いは、重い老体の何処と何処を支えれば、寝台の上の本人が楽に起きあがれるのか、という事を知り尽くした最小限の動きで、姥太母の身を起こすのを手助けした。
その体は、単に脂肪や肉の重みだけでなく、人知れず森の中に千年も生えていた大樹が倒れる時に、長寿の生き物が死ぬ時に、それまでの生が一斉に流される時の負担を、皺だらけの皮一枚で支えた、重さなのだ。
遣いは、姥太母の口元に茶杯を触れさせた。
姥太母は、粘土を捏ねられて出来た手で、母の乳房を探り当てた嬰児ちのみごのように、親鳥から直々に餌を与えられた小鳥の雛のように、蓮の花の上の朝露を取りこぼさないように、体全身を使って探し当て、小さな口で吸い上げる蜜蜂のように、疑問に思うことなく、息を吸って吐くより自然に、その馨しい仏界の茶を、三千世界の死に水を、飲み干した。

世界の何処を探しても、今の姥太母以上に、満足している顔のものはないだろう。

遣いは、原始大海の潮を注いだ綿花の揺籃ゆりかごの中に、産まれる前の嬰児|《あかご》を寝かしつけるようにして、姥太母を再び楽な姿勢に戻してやると、睡蓮鉢の近くの、白い雛罌粟の花の方へ進んだ。
懐から、黒玉の鞘に収まる黒曜石オブシディアンで出来た小刀を取り出すと、雛罌粟と帆立貝の合わさった花の中、そこより少し手前の空間を、斜めに十字に切り裂いた。
薄い灰色の刃の部分で斬りつけられた真空に歪んだ光が入り、軋み音を上げた。
そして、遣いの手の中にぽとりと、花の蘂であった黒真珠が落ちてきた。
それは、奇妙な花の種子になるものであると同時に、子犬が産まれて初めて世界に対して開いた黒粒の瞳と同じ輝きの、唯識の種子しゅうじであった。
毒を以て毒を制すように、黒色によって御された烏珠の海の宝玉に、自身のおぞましい指で全くひびがない事を確認すると、遣いは、再び姥太母の元へ戻った。

絶対に失敗が許されない大業を、緊張する暇も与えられず、考えるより先に動かされ、遣いは姥太母の口に大粒の黒真珠を、嵌めた。
まるで死者となった肉体の食道と気道を通って、霊魂が飛び出してこないよう、用心の為の蓋のように。

宮の外では、時間が狂っていた。否、人間がつくりあげたものは、時の経過と共に跡形もなくなる。

それの塵を見た後で、誰がどうして、そこに立派な、かつて沢山の人の心を魅了したものがあったのだ、とどうしてわかるのだろう……?
時間の概念を覆された、光が進むよりもっとずっと先の未來を、宮の周りに持ってきてしまっていた。

二重の空間を覆いかぶせられた中で、振り子のように過去と未來をひっきりなしに往復している場は、癇癪持ちの子供のように、落ち着いている暇がなかった。

卵から雛が孵ったと思えば、すぐさま豹の中の胃液に溶けて、好みの番を見つけられる成鳥になった次の瞬間には、瞼が突き出て、巣に親だと思われるものが飛来すると、黄色の口をあんぐりと素直に開ける雛に逆戻りしていた。

雛を狙っていた古鱗の蛇は、食べ損ねたせいで飢え死にをしたり、小鳥と一緒に梟にかっ攫われたりしていた。

そこにいる生き物全てが、それを疑問に思う頭などなく、ただただ受け身で現象の被害を被るしかなかった。

認識も出来ない一瞬のうちに、唐突な、生と死を繰り返す刹那滅の、暴虐の嵐であった。
遣いは、自身の袖口から、懐紙に包まれた何かの小さい果実を取り出した。
おもむろにそれを口を運ぶと、獅子が肉にかぶりつくように、およそ人間が出せないようなぞっとする勢いで、噛み砕き始めた。
その実は、只人が齧ると幻覚を見る、檳榔ビンロウの実であった。
噛み砕かれた檳榔の実の赤い汁は、遣いの口から垂れ、臓腑が破れて、吐血するのを必死に抑えているような有様だった。
部屋、咀嚼音が響き渡る度、檳榔の実が細かくなっていく度に、赤い汁が口から男の体に飲み込まれていく度に、遣いの姿は、段々と人ではないものへと変わって言った。
肌が毛深くなり、体が縮こまり、関節が音を立てて砕け、長い指は獣のような形に変わり……。
遣いの姿は、いつしかこの地域でルクと呼ばれる狗賓ぐひん……闇に棲む翼ある狗になっていた。
ルクは、闇夜に火の粉を散らす金に光る眼に、氷柱色の毛皮で身震いをして、人の姿をしていた頃の黒衣を脱ぎ捨てた。
ルクは、主人の後をついて我が家に帰る猟犬のように、全く臆することなく、殯宮の中を見渡した。

四柱寝台の中に寝そべる姥太母を鼻先を向けて確認すると、狩りの褒美として目の前に投げ出され、主人によって切り取られた獲物の一部に齧り付くのと同じように、疑いもなく、姥太母の喉元に牙を立てた。

姥太母は、悲鳴を上げる間もなく絶命した。

その瞬間に苦痛を感じずに済んだ事は、全くの幸いであった。

ルクの歯形がくっきりとついた傷口からは、酸化した血でもこれ程黒くはならないだろうと思われる、腐れた魚油のような液体が、溢れ出していた。
それは、敷布に描かれた細かい通路を見つけると、水が細い管を勢い良く駆け登るようにして、すぐさま歪んだ形の蜘蛛の巣のように広がり、土に吸い込まれるようにして、消えてなくなっていった。

ルクは、野生の狼がほんの少しのことに気を取られ、どうでもいい事を眺めている目付きで、その事柄と事象を視ていた。

姥太母の遺体は、段々と腐るどころか乾涸び始めていた。
流れた液体と同等の水分が躰から奪われ、恐ろしいエイ木乃伊ミイラのように、皮膚から骨の筋張った形が丸わかりになっていた。
この世で最後の、最も残酷な狗賓のルクは、それをわによりもぞっとする顎の力で、噛み砕き始めた。
痩せ犬が干し肉を喰らう時のように、強靭すぎる顎で造作もなく、かつかつと音を立てながら、食べ進んでいく。

ルクが、乾涸びた姥太母の肉を、食べ終えるまでに一体どれほどの時が経ったのか、ここでは計ることは到底出来そうになかった。
塵ひとつ残さないよう、舌で舐めとる音だけが響く。

一体誰が、さっきまでこの寝台の上に、豊かな身体を預けていた姥太母が居たなど分かるのだろう?

ルクは姥太母の肉塊をすっかり食べきると、やまいぬが黄昏と逢魔が刻の余韻に浸る時のように、遠吠えの彷徨を発した。

森の木々にルクの遠吠えがこだまする。知らせる主など、とうにいやしないのに。

森の全土に、ルクの魂の叫びが響き渡ったと同時に、いきなりルクの腹皮が、闇が液状に飛びだすようにして、溶けた。

ルクは、苦痛に悶える暇も与えられないまま、そのまま、そこで足をぴんと伸ばして、倒れ込んだ。
目をかっと開き、舌をだらしなく伸ばして、開いた口からは、行き場のない涎が垂れていた。

黒い液体の中では、幼虫が冷たい水の中でのたうつようにして、何かが蠢いていた。

それは、 濁った羊水に包まれた嬰児だった。
嬰児は、さっきまで自身の身を包んで守ってくれていた液体を、体が濡れて、鼻や口に入って不快でたまらないと、不機嫌そうに嬰児なりに懸命に払おうとしていた。
不意に、死んだと思われていたルクが、生き返るようにして起き上がった。
ルクの体を動かしていたのは、蟻の命ぐらいに残った体力でもなく、苦痛を耐えて指名を果たそうとする精神力でもなく、魂の幽かな残滓でもなく、今ここで嬰児を死なせてらならない、とする世界そのものの意志であった。
人間に操られる人形がそうであるように、どことなく投げやりな動きで、完全に虚ろな死んだ者の目で、強大な力に操られて、母の獣が産んだばかりの我が子に絡んだ臍の緒や胎盤を舐めて、綺麗にしてやるように、嬰児……揺卵姫ようらんきの身体を舐め、死体の体に残った、生き物の最期の体温を分け与えていた。
揺卵姫は、生暖かいなにかに身体中を拭われるのが不気味で、本当に怖くて、嫌で嫌で堪らずに、ルクのことなど絶対に理解しない声で、泣いた。
揺卵姫の体にすっかり黒い汚れが亡くなると、今度こそ本当にルクはその場にばったりと倒れた。
その様子は、誰が見てももう二度と起き上がる事は無いとわかる姿だった。
そして、ルクも同じように、たった一枚の布の中に、溶けて消えていった。
それも、体が腐敗する時のように、肉や皮が先になり、取り残された骨が徐々に風化していくものではなく、存在核の魂自体も、何もかもが、蕩けていった。

外界から、もう何かが自分の体に触ろうとする気配がないことを分かった揺卵姫は、大人しくなり、自分の指をしゃぶり始めた。
揺卵姫が大人しくなった頃を見計らって、小さく肉々しい、熱い血潮が詰まったごく小さい水袋のような体の下の敷布が、風に靡く葦原のようにざわめき始めた。
砂浜で足元に波が集ってくるように、するすると四つの裾を揺卵姫に向けて、体を包み始める。
揺卵姫の体はすっぽりと、丸まった敷布の中に収まり、繭に包まれた蛹のようにして、微塵も動けなくなってしまったが、それを不満に思って声をあげて泣くことも無く、先程のように暴れて、体を自由にしようともしなかった。
そして、また遣いに化けた新しい狗賓ルクが来るまで、世界中の血脈に包まれて、真夏に羽化するまで地中に潜む蝉の幼虫のように、待ち続けるのだ。
姥太母もルクも、このようにして、常に蠢き、大食らいな世界のための糧へと成り果てていった。
この殯宮は、その為だけに、必要だった。
今も、人知れずそこに、存在する。




(画像は自分で撮った畑の芍薬を加工)

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