見出し画像

金魚の鰭

私は、花も恥じらう乙女として恥ずかしいくらいの汗をかく。あがりやすく、赤面症もあって、顔が赤くなりやすい。
友人に言わせると、この時期少しでも体を動かした後の私の顔は、砂浜に打ち上げられて、情けなく口をぱくぱくするだけの、体は濡れているが、生命は干からびかけている魚らしい。
それで、あの時はたまたま部活の走り込みで、子供でもないというのに盛大に転んでしまい、私は教師と先輩方に許可を貰って、誰もいない校庭の隅っこの水道で、流血沙汰となっている膝を洗っていたのだ。
親に買ってもらったばかりの白いハイソックスは、垂れた血で既にところどころ赤く染っており、毎月恒例でやってくるあれの時のことを思い出した。多分、普通の怪我の血も乾いてしまったら落ちにくくなるだろう。
仕方が無いので血を乾かさないように、脱いだハイソックスを水で濡らし、手で絞る。この二つの濡れた丸い塊は、ビニール袋に入れておくしかないなと考えながら、持ってきたバックの中身にそれがある事を祈りながら、しっちゃかめっちゃかに漁りだす。
三角形に折りたたまれたビニールらしき触感を探り当て、取り出すと近くに踝までしかないソックスも入っていたのが見えた。なんという僥倖だろう。
汗が滲みた靴を素足で履くほど、乙女にとって苦痛なことは無い。
そういえば母が、必要になるかもしれないし、そんなに嵩張らないでしょう、と私のバックに無理やり何かを入れてきたことがあるな、と思い出した。
ありがとう、母。いつもは口煩くて神経質で、本当にそこら辺にいるだけの地味なおばさんで、嫌だなぁと思っていたが、今の私には貴女が慈愛の女神に見える。調子に乗るので、絶対に本人には言わないが。
砂利と瘡蓋になりかけた小さい血の塊を洗い流していると、上の視界に何か白くてひらひらするものが映った気がして、そちらに目線を送った。
私はてっきり、昼だと言うのに我慢が出来ずに飛び出してきて、あれだけ焦がれた陽の光で、全身を焼かれている愚かな大水青蛾だと思った。
白い影の主は、三年生の先輩であった。
私の今いる水道の方へ、淑やかな歩き方でやってくる。
白く見えたのは制服のワンピースだった。私だけではなく全生徒が着ているものだが、傍から見ると、顔立ちも雰囲気も幼稚な人たちばかりだから、制服に着せられているように見える。
けれども、彼女のはなんというか、純白の一重の立葵や白芙蓉などの、夏だけに咲く白い花から仕立てあげた、選ばれたものだけが着れる装束のような気がしてならない。
そしてこの先輩は、漫画の登場人物かと思うほど、優れた容姿の人でもあった。
眼差しは東洋の黒真珠を思わせる美眉で、鼻立ちと唇は茨に囲まれた寝台に眠れる美女、肌も城の奥深くに秘匿されて日に焼ける事が無い故の白さなのに、耳は砂漠の熱砂から、オアシスの姫が布をまかれて常に護られているように、髪に隠れてはいるが、風に吹かれると、冷たく白い石に囲まれた窓の向こうから、姫が顔を覗かせるようにして、時たまちらりと見えるので、他の女生徒は求婚をしに押しかけてきた、野暮な殿方のように色めきたつのだ。
とにかく、世界中の美人のそれぞれ良いところを譲り受けた美貌の持ち主で、私が特に羨望の眼差しで見ていたのか、眩く輝く黒髪だった。
髪を染めるな、と全くもって意味の無い校則できまっているけれど、先輩の髪は本当に黒すぎて、光に透かされると蒼が反射して見える程だったので、脳が死んでる馬鹿な教師共は、染めているんじゃないのかと殺気立ったらしい。
というのは、私がこの学校に入学する前に、業を煮やした先輩が、鬱陶しい小蠅を追い払うより冷徹な目で、地毛証明書を馬鹿共の目の前に突きつけた、という噂が密かに持て囃されていたからだ。
本当に馬鹿だ、上の人間の命令しか聞けない能無しどもは、そよ風に遊ぶあの綺麗な色を、優れた絹髪の持ち主の中でも、選りすぐりのものにしか得られない、鴉の濡羽色だと分からなかったのだ。
私は、もしその噂が本当だとしたら、神様に許されて、美しく生まれついただけの人が、もっと言うと人の体にある色を、それを生粋のものだときちんと医学的な根拠を示さなければならないなんて、学校というものは本当におかしいところだ、と思った。
目に見える顔立ちや、髪質だけではなく、雰囲気も百合の香りを纏っているようで、日陰にいる私がこれだけ汗をかいているというのに、夏の青空に立ち込める柔らかな入道雲のように、ふわりと涼しげで、どこへでも飛んで行けてしまえそうだ。
そういえば、天使だか天女だかは、代謝が存在しないと聞いたことがあったような。
「まぁ、大丈夫?」
真夏でも溶けない新雪で出来た玲瓏な像が、おもむろに口を開いたので、私に対して声をかけたのだと、咄嗟にわからなかった。
「……あ、大丈夫です。少し転んだだけで……。」
「待ってて、保健室から、消毒液やらガーゼやら持ってきてあげるわ。今、先生はいらっしゃらないから」
鴉の濡羽色に染められた髪の糸を靡かせて、古い少女漫画の主人公が颯爽と身を翻すように、先輩は保健室のある方向へ小走りにかけて行った。
いらっしゃらないから、ですって。
きょうびそんな言葉使いをしている人なんて、ミンクの毛皮を首に巻いたマダム以外聞いたことがない。嫌、それもだいぶ昔のイメージだ。
つられて思わず、私の頭の中の話し声もお綺麗になってしまったが、実際に言ったら馬鹿にしているのか、と言われるに違いない。
なのに、先輩の所謂お嬢様言葉は、雪融け水が小川を作って、雪の中を割って進むよりなだらかで、金糸雀から鈴を転がすような鳴き声がするように、ごく当たり前に聞こえた。
レッドデータアニマルもびっくりな、こんな絶滅危惧種の美少女が存在していたのか。

「御免なさい、少し滲みるわね」
「あ、いや、自分でやります」
「駄目よ。あなたからじゃ見えにくいでしょう。こういうのはきちんと消毒しないと、グラウンドの砂なんて、どんな菌がいるか分からないわ」
救急箱を抱えて戻ってきた先輩は、私の足元に姫に跪く王子のように座り込んで、救急箱を開けだした。
すかさず私は止めようとしたのだが、このように言われて、意志の輝きの強い瞳で見つめられると、狼狽えることしか出来なかった。
先輩は、白芙蓉のスカートが汚れるのも厭わずに、
落ち着いた手つきで、私の傷の処置をしてくれている。
私は小さい頃に、ホームレス同然の孤児が、お金持ちの家に貰われて、身も心も美しい夫人の手のひらの同じ温度の愛と石鹸で体を丁寧に洗われて、身綺麗にされて、見たことも無い綺麗な服を着せられている、という児童書のワンシーンを読んだ時に、至福の心地になった事があるが、今この場面でも似たような感覚に陥った。
恐らくは、美しいものに優しくされ、世界に受け入れられて、自分も美しいものの仲間入りをできたような、錯覚の迷宮に入り込んだだけなのだろうけど。
絆創膏では足りない広範囲を擦りむいたので、小さく切られた清潔なガーゼをテープで付けられて、私の処置は終わった。
先輩は、立ち上がりスカートの砂やゴミを払った。
その動作は、黒真珠の眼に馬の睫毛を生やした、孤高な眼差しのヘビクイワシが、羽繕いをしているのを思わせた。
「あら、あなた随分汗をかいているわ、大丈夫?
こんなに暑いのだもの、熱中症ではないしから……」
いきなり、嫋やかな手が伸びてきて、捨てられた子猫が助けようとした人間に怯えるように、手を振り払ってしまった。
その時の私の心には、光よりも早く一瞬で、美しいものに触れて穢させてはいけないように、私なんかの汗まみれの顔に、触れさせてはいけない、という言葉が走り抜けのだ。
「だっ、大丈夫です。私ひとより汗をかきやすい体質で、頭も痛くないし、気分も悪くないので、多分、熱中症じゃありません!」
変に声が大きくなって、しどろもどろに答えた。
その時の私の心は、私の体調を気遣って、体温を調べようとした先輩の親切心を無下にした事への罪悪感と、こんなに汗をかいて臭いと思われてないか、というのがごちゃ混ぜになって、泣き出してしまいそうだった。
「そう?ならいいのだけれど。ごめんなさいね、いきなり。でも気をつけて、よく水分を取ってね」
先輩は、なんでもない顔でそう言った。
「はい。ありがとうございます。」
怪我の手当もしてくれたというのに、私はなんて事をしてしまったのだろう。
そもそも、私なんかがこんなにも美しい人の一挙一動をどうこうする権利も、資格もないのに。
先輩が去った後で、私は物凄い虚無感に襲われて、
とぼとぼ部活の集まりの方へと戻っていき、ついさっきまで先輩に体調は悪くない、と言った口で、早退させて欲しいと顧問と部長に申し出た。
二人とも、帰ってくるのが遅い私を心配していたし、水道から戻ってきた私の覇気がどう見てもないので、あっさりと家に返してくれた。
友人達も、顔色が悪いと言って、使い捨ての紙コップに、氷と麦茶を注いだものや、保冷剤を差し出してくれた。そのどれもが、今の私には辛かった。
ごめんなさい、皆さん。私は皆さんにそんなに優しくしてもらえるほどの価値は、ないんです。
誰かに迎えに来てもらいましょうか、と提案してきた顧問の言葉に、家も近いし、傘をさして帰るので大丈夫ですと答えた後の事を、はっきりと覚えていない。
唯一覚えているのは、運動用の冴えないジャージに汗の嫌な匂いをさせながら、学校指定の地味な雨傘をさして歩いている私は、とても滑稽に映るでしょうねぇ、と言うことだった。
あの先輩ならば、月下美人の香水に、白いレースの日傘に、爽やかな白いワンピースを着て、よく言われる、ひまわり畑だの砂浜だのに妖精のように現れる、夏の共同幻想の集合体のような姿で、見る人を酔って白い顔を赤らめた芙蓉の夢の中に誘うだろうに。
家に帰ってから、もう何もやってられなくなって、 シャワーも浴びずに、そのままベッドへ直行し、眠ってしまった。
起きた後に、うつ伏せになっていたから、不運にもシーツの匂いを嗅いで後悔し、やんわり死にたくなってしまった。
部屋から出たら、買い物から帰ってきた母親にばったり出くわし、あんた、そんなに汗臭いのなんでお風呂に入ってこないの、服も洗ってきなさいと問い詰められて、私は、バックの中に踝ソックスを忍び込ませてくれた肉親に、暴言を吐いた。

翌日、気だるい顔をして登校した私は、友人達に 昨日の今日で学校に来て大丈夫なの?と言われ、今日は体調じゃなくて、家でちょっと嫌な事があっただけなの、と説明をして、朝のホームルームが始まるのを待った。
心から心配してもらえるのは本当に有難いのだが、お願いだから、どうか一人にしておいて欲しい。
あなた達の優しい眼差しが、逆に今の私の心を掻き毟るのだ。
そうとは言えずに、お母さんとちょっと喧嘩しちゃったの、といつもの口調で言った。うん、嘘は言っていない。
私の席に顔色を覗き込みに集まってきた友人達は、それを聞くと少し怪しがりながらも納得して、授業が始まる前に少しでも委員や部活の仕事を減らしておかなければ、と部室や会議室に散っていった。
中には授業を受ける教室が違う子もいたので、そういう子は足早に駆けていった。
蜘蛛の子を散らすとはこういうことだろうか、とぼんやり考えていたら、教室の隅から三年生の先輩が呼んでるよ、と私に声がかかった。
私はもう、どきっとなるなんてもんじゃなく、何十人もの狩りの下僕を連れた貴族に追い立てられる牝鹿のように、心臓が破裂するほど動き出し、もういっその事その矢に射止められた方が、その場にばったり手折れ込んで、楽になれるのじゃないか、と思った。
が、それは杞憂だった。二つある教室のドアの、生徒用の出入口の方に恐る恐る目をやると、声をかけた同級生の傍らに立っていたのは、見かけて挨拶ぐらいはした事はあるが、全く親しくもない、知らない先輩だったからだ。
私は、恐ろしい狩人たちがいなくなった森の中を悠然と歩き回る牝鹿のように、警戒心なくそちらに歩み寄った。
見知らぬ先輩は、いきなり呼び出しだしてごめんね、と謝った後に、あの子が呼んでるから、貴方を連れてきれほしいって言われたの。と発言した。
あの子、そう言われて私の身は大理石の彫像のように固くなった。
私は、三年生に特に親しい人もいないし、怖い先輩に目をつけられるような馬鹿な振る舞いなどせず、地味に目立ず生活していたつもりだ。ならば、そんな人畜無害のどうでもいい人をわざわざ呼び出すなんて、昨日の失態以外あるまい。森から、狩人たちは去ってなど居なかったのだ。それどころか身を潜めて、目当ての牝鹿がかかるように、小狡い手を使って罠に嵌めたのだ。
私は、生け捕りにされ、首に縄を締められた牝鹿のように、知りもしない先輩の後ろ姿を追っていくしか無かった。まだ廊下で駄弁っていた人にとっては、用があった先輩に呼び出された後輩という、なんでもない光景なんだろうけど、私は、学校の中でただ一人、貴族の館の裏口から、料理人のいる厨房に連れられる、まだ生きていて自分で歩いてくれる便利な食材、いいや死刑執行人に処刑場に連れられる、囚人の気持ちを味わっていた。

使われていない空き教室まで連れてこられたところで、見知らぬ先輩は、じゃあ私はここまでだから、と言って、自分の教室にさっさと帰って言ってしまった。
この空き教室は、学校を改築した際に余った部屋を、とりあえずの物置として使っていたものだったのだが、教師達が面倒臭がって、鍵も何もかけられないでいるのだった。
その、開けては行けない扉に手をかけた瞬間に、あの先輩に無礼な行いをしたのだから、三年生全員が敵に回ったのも同じか、と実りの収穫目前の嵐に仕方がないと言う農民のように、自分でも驚くぐらいに静かに受け入れた。
あの人は美貌で人を狂わす女帝みたいなものだから、指先ひとつでどんな事でも命じられるに違いない。下駄箱に鼠の死骸や、机の引き出しに泥を投げ込まれたり、二階から私物を落として壊されたり、一人で御手洗に入っていたら、上から水をかけられたりするんだろうか、と漫画で読んだことでしか知り得ない知識を、無駄に総動員した。
それどころか、三年生の息のかかっている二年や、もしかしたら一年生、私のクラスメイトや友人達も、私を無視し始めるのかも。
私は、意を決して扉を開けた。

「あ、やっと来てくれたわね」
扉の空いた音で、こちらを振り向いた先輩の顔は、愛らしさを振りまく天使そのものだった。
私は、拍子抜けしてしまった。
「ごめんなさい、私が直接呼びに行ったら、貴方によからぬ噂がたってしまうと思って。さっきの人は私の友人で口が堅くて信頼できる人だから、安心して」
私の背中に壁があったら、それに寄りかかって倒れ込んでいたことだろう。
「昨日の事、覚えてる?私あれから、ずっと気がかりだったの、貴方を不愉快にさせてしまったんじゃないかって。ごめんなさいね。」
あぁ、私はなんて心の醜い人間なんでしょう。
よく世間では顔がいいならその分心が悪い、という言葉があるが、この人の前では、ブスの嫉みにしか聞こえない。
それに、この人の、心からの謝罪が込められている瞳で見つめられて、許さない人がいるだろうか。
「い、いえっ、私の方こそごめんなさい!先に謝るのは、私の方なのに、むしろ先輩に余計な気遣いをさせてしまって……怪我の処置のお礼もしていないのに……」
「そんなのいいわよ、自分が言い出せずにいて、あなたの傷が悪化する方が嫌だったし」
先輩の言い方は全く嫌味ったらしくなく、本当に心から出た言葉のような気がした。
「あの、もし良かったら、今度なにかご馳走させてください。といっても、私の持ってるお小遣いじゃ、そこら辺の喫茶店に行くぐらいで、先輩の舌を満足させられないかもしれませんが」
「う〜ん、それもいいけれど、あなたさえ良ければ、ちょっと他にして欲しいことがあってね」
先輩は、小首を傾げて、空中で頬杖を着くように、右頬を右手で支えた。美人は困ってる表情さえ、画になる。
「なんでしょう?私が出来ることなら、協力します」
「これなんだけれど……」
そう言って先輩は、制服のスカートのポケットから、なにやら不可思議な形のチョーカーを取り出した。美しい柳枝の指の間に、幅の短い青いベルベットの布が挟まれ、私の目の前に、恐らくは何かの植物の種だと思われるものが垂らされて、ゆらゆら揺れている。
「なんですか、それ」
私は得体の知れない、造形が不思議すぎて不気味に見えるそれを、警戒する口ぶりで言った。
「これはね、私が食べた桃の種を綺麗に洗って、産毛を炙って、乾燥させて、首飾りにしたの」
おそらく、先輩のお家で食べるような桃は、西王母の蟠桃会で牡丹の百花仙子が出してきてくれるような、特別瑞々しく馨しい桃に、違いない。
そして、何故だか先輩が口の端から汁を垂らしながら、桃色の果実にむしゃぶりついているのを想像してしまった。
飢えた豹が、まるまる肥えた鹿の腹に齧り付いて、牙から血を流すように、口の端から糖のたっぷりした蜜を零して、手に垂れた雫を野性的に舐め取り、真っ赤な唇の上で舌なめずりをして……。
それは、本人の体や性的なものを考えるよりも、ずっと官能的なものだった。
おそらく、いや本当は家では、お手伝いさんに綺麗に皮を向かれて、一口サイズに均等に切られ、上品な小皿に乗せられた桃を、細工の華奢な金のフォークで、テーブルマナーの生きた見本のように、優雅に口の中に運んだのだろうけれど。
「これ、貴方が耐えられなくなるまで、つけていてくれない?」
先輩は、私に歩み寄って、飼い犬に首輪でもさせるように、ごく自然な動きで私の首にそれを嵌めた。
「あの、困ります。先生方に見つかったら、取り上げられてしまうし、それにもっとお礼の代わりになるような事がしたいんです。」
私は、本当に伝えたいところはそれじゃないだろう、と思いながら、目の前で起こった事実の意味が分からなくて、当たり障りのないことしか言えなかった。
「大丈夫よ、桃はね古来から魔除けとして使われて来たの。決まり事を守ることしかできない、そんな無頼な輩の目には、映らないわ」
私の耳に、予鈴を知らせるチャイムの音が届いたが、どこか現実感のない、異国の船の汽笛のように聞こえた。

先輩の言う通りなのかどうかは分からなかったが、教師どころか、友人達にまで、このチョーカーは見えていないようで、授業中どころか、一箇所の机に集まってお喋りに精を出している時でも、何も言及されずにいたので、本当にこれは、先輩と私にしか見えない魔除けのタリスマンなのかと思った。
しかし、ベルベットの起毛に似た質感は、汗を馬鹿みたいに吸い上げる割に、蒸発しないものだった。
三時間目を過ぎたあたりで、溜まった汗の痒みに我慢できなくなって、意を決して三年生の教室まで、足を運んだ。
先輩は、私がやって来るのを、予知していたように、出入口のドア付近にいた。
「あの……これ、もう外してください……」
私は、濡れた靴下を強制的に履かされて脱げない状態の一千倍の不快さを感じながら、意地悪な主へ小声でなんとか訴えた。
先輩は、意外と堪え性がないのね、と言った目付きで、私の顔を見て、さっきの空き教室へ、と合図した。
空き教室に入って、しっかりと扉を閉めたら、先輩は、黙って私の後ろに移動し、「首輪」の金具を外した。足のサイズに合ってない、きつい靴下をぐいと脱いだ時以上の開放感と清々しさが、私の首元に訪れた。
「いやだ、汗疹になりかけてるわ」
先輩は、冷蔵庫の奥の方で存在を忘れられてカビてしまった野菜を見た時のような、なんでもない口ぶりで言ったのだが、自分の首が振動管となって耳に届いた先輩の声に、体がびくり、と反応してしまった。
自分の体の汚いところを、それこそ性器や、それに準ずる、触れることで快感を得られる体の部位でなくても、いつもと様子が違う身体のある部分を、骨の髄まで美しさが満ちた人に見せるのは、こんなにも恥ずかしい事なのか、と私はその時初めて知った。
後ろを見なくても、声の主が薄ら笑いをしているのが分かった。
それから、どうやら先輩はまた自分のポケットの中をごそごそと探り出したようだ。
勝手に後ろを見るのも、なんだか言いつけに背いているような気がして、動けなかった。
素敵な洋服しか入ってない箪笥の中をひっくり返すように、耳に心地良い布が擦れる音しか入ってこない。美しいひとの所作は、音までも洗練されているのだろうか。
何か、ぱかっと容器の蓋が開くような音がした。
それこそ、化粧用のコンパクトか何かのような―。
「っ」
いきなり、私の首の後ろに雪兎の尻尾が当たった感触がした。思わず、後ろを振り返った。
「御免なさい、びっくりしたわね」
先輩は、毛にブラシが絡んで、一瞬だけ痛い思いをした犬が身をよじって逃げようとしたのを、窘める声で言った。
「これわね、烏瓜の花の粉、天花粉というの。要するにベビーパウダーね。」
そう言って、先輩は煌めくミラーが貼り付けられた、銀幕の女優が使っていそうなコンパクトを目の前に示した。コンパクトの下部には、白さという概念を砕いた粉が、びっしりと敷き詰められていた。
烏瓜と言われて、学校の敷地に夏になると咲いているレースのような花か、と直ぐに合点が言った。


ああ、世間のほとんどの人は、蝋石(タルク)を砕いた無骨な粉しか身につけられないというのに、この人は、あの夏の一夜夢の花の粉を、舞妓の白粉のように毎日はたいているのか、ならばこの、絹も青ざめる肌の美しさも、しょうがないのかもしれない。
それなのに、この人は、溝に落ちて臭くなった犬を綺麗に洗ってやったあと、惜しげも無く高級なバスタオルで吹いてやる飼い主のように、汗と雑菌まみれの汚い私の肌に、自分で使っていた道具で、選ばれた美しさの人しか使用できない、魔法の粉の恵みをもたらそうとしているのか。
「あの、そのパフ後で洗った方がいいですよ」
私は、礼を言うどころか、トイレをした後に必ず手洗いはするぐらいに決まりきったことを言った。
「ふ、当たり前でしょう?別に貴方じゃなくても誰かが一度でも使ったもので、自分の肌に触れたくなんかないわ。これは捨てるわよ。たとえ自分の肉親の頬でも、排泄もしないエンジェルのお尻を拭ったものでも、同じ事よ」
先輩は、吐き捨てるように言った。私は、その言葉で完全に恐縮してしまって、ただ黙って、なされるがままにしているしか無かった。
産まれたばかりの子猫か雛に触れているような、心地よい感触が首元にもたらされる。
本気で叱られて気持ちが沈んでしまった子に、優しく語りかける親のように、先輩はまた話し出した。
「烏瓜の花の別名は、玉梓(たまずさ)とも言うわね。これもいい名だわ。それから、男嫌いという花言葉もあるんですって」
先輩がいうと、なんだか余計に、意味深に聞こえた。
「由来は、夕暮れから夜の間だけに、あの繊細な花を咲かせて、一番綺麗な姿を人目に見せないからなんですって、そんなの傲慢だと思わない?着飾った姿を男に見せないだけで、男嫌いの名札を下げられるなんて、可哀想だわ。烏瓜の花は自分で自分の姿を一番愛でているのよ。余計な事を行ってくる人間が一番嫌いなんだわ、だから夜にしか咲かないのよ」
私は、次々に飛び出でくる先輩の自論、もとい先輩の世界の中での常識を、黙って聞いているしかなかった。
「私ね、烏瓜の花は白昼夢を吐くのだと思うの。」
「歳をとった蛤は、蜃気楼を吐くと言うでしょう?だったら烏瓜の、蜘蛛の職人が作った編み細工のようなあの花は、きっと夏の木漏れ日にだけ現れる、白昼夢を見せる煙を、吐くのよ」
それなら、美しい人は、美しい言葉も吐くのだ。と素直に髪を梳かされている幼い子のように、ぼんやりと私は、思った。
「貴方、蜃気楼か白昼夢を見た事がある?」
「……蜃気楼はありません、そういうのが見える海に行ったことがないもので。白昼夢は……」
質問をされたのと同時に、発言権を得た私は、そこまで言って、今ここの光景そのものが白昼夢のようです、という言葉を言いかけて、ついに口から出せなかった。
頭の中に残された、小さいけれども冷静な一人の私が、そんな事を自分が言うのが滑稽だ、と審判を下してきたのだ。
先輩は、きちんと返答してこない事はどうでもいいのか、黙々と作業に没頭している。
「なら、今度家に遊びに来なさいな、叔父が撮った蜃気楼の綺麗な写真を見せてあげるわ」
私は、緊張しながら、はい、と返事をするしかなかった。
「あぁ、烏瓜の花言葉には、良き便りというのもあるのだったわ。種の形が結ばれた文に似ているからなんですって。今のもので分かりやすく言うと、神社の御籤の形がそうね」
「まぁ、烏瓜の花の話が招待状代わりになるなんて、ある意味合っているのかしらねぇ」
だったら、私は烏瓜の花の妖しい匂いに誘われた、憐れな黒い蛾なんだろうか。

「私ね、矢車菊は孔雀の蕾か、人魚の半身だと思うの。」
綺麗に整えられた庭の中で、青や紫の寒色系、濃い茶や軽いピンク色の、飛び出た花火のような形の花を摘んで、先輩は言った。
先輩と私は、先日の約束を消化していた。
昨日は、婚約前夜の花嫁のように眠れなかったし、お呼ばれするのに、恥ずかしくない格好をしなければ、と何回も何回も服装を確認した。
旅立ち直前に航海図が見つからない船長の部屋が、一人だけ嵐に見舞われて大荒れになっているのと、同じぐらい部屋の中は散らかり、心の中は戦々恐々としていた。
まぁ、私のワードロープの中で一番見た目もお値段もいいワンピースでも、先輩にしてみたら鼻で笑う程度なんだろうけど。
本来は、写真を見せてもらう約束だったのに、何故か今は、自慢の庭園を案内されていた。
そこまで蜃気楼の写真を見たかったわけでもないし、自分から切り出すのもかなり失礼……というか、無礼で許されない行為な気がした。
結局、私は先輩という気まぐれな大嵐に翻弄される
小さくて頼りない葦の小舟でしかないのだ。
「ブルースターは、妖精が陶器の欠片を切り出して作った花のようだわ。見て、切ると中から乳液が出てくるのよ」

言われるまま、空色の広がった形の花を見ていると、先輩はそれを摘んで、勝手に私の髪の間に飾った。
花頭をなくした茎首から、白い血液が小さい玉となって溢れ出す。薬草のような苦い匂いが、つんと広がった。
あとは連れられるままに、ナスタチウム、ジニア、亜麻の花、キキョウ、薔薇、百合、金盞花、飛燕草などの花々を頭に付けられて、髪から花がひとつでも零れ落ちると、
「駄目ねぇ、この前に割れて捨てたものより、使えないわ」
と言われた。先輩の目に今の私は、自分で歩いてくれる便利な生きた花瓶にしか、見えないのだろう。

六月の雫を花びらに載せた、庭園を歩く花嫁のヴェールを持つ介添人のようにして、必ず後ろをついてまわる様に、庭に連れ回された後に、白いガーデンテーブルの上に硝子のポットと、白い陶磁器に青い模様のカップが置かれたテラスに連れていかれ、近くにある白いガーデンチェアに座るように命じられた。
テーブルもチェアも、使い古されてところどころ錆びていたが、田舎の物置に眠るよく分からない古道具のように、不潔な感じはしなかった。
恐らく、この庭園の花々の種も、それを彩る白い庭家具も先輩のご先祖さま、美しき一族が丁寧に守り伝えてきたものなのだろう。
こんな光景は、それこそ、甘くて吐き気がするほどベタベタな小説の中でしか見たことがない。
先輩が何かを取りに席を外し、少し経ってから、何か大きな硝子瓶のようなものを抱えて、戻ってきた。
それは、鰭が美しい金魚を、より美しく鑑賞するために表と裏が平になった、硝子の太鼓鉢であった。
けれども、硝子口の上部は、魔女の館の薬瓶のように不織布をかけて麻紐で結べられ、中に入っているべき水は土になっており、観賞魚に見劣りしない色映の金魚草が幾つも生えて、咲き誇っていた。
中には、硝子瓶に隔たれた世界の中で枯れ果てたのか、弾けた種の莢が小さい髑髏に変わって、茶色い茎のまま立っているものもある。
先輩は、自分が美しいと思ったあれこれを、実際にこの世に作り出すことが好きなのだろうか。
普通の人にとっては、きっとあべこべで、妙に映ることなのだろうけど。
「貴方、自分一人だけが、この世で私の世界を理解していると思ってる?違うわよ、私はただ誰かに喋りたいことを喋っているだけ。甚だしい思い違いは、よしなさいな。見ているこっちが恥ずかしいわ」
名うての占い師のように考えを見透かされ、心の中を指摘されたとしても、私には腹を立てたり、ガッカリする権利なんてなかった。
だって、先輩の言う通りに、私と先輩は全く同等ではない。世界の誰一人としても、先輩の隣に立ってはならない。それは先輩を堕とす、卑しい行為だ。
「まぁ、ここまでやってきた貴方には、ご褒美に私が一番気に入っているものを見せてあげるわ」
そう言ってから、またあの時のように、先輩は自分の私服のスカートのポケットに手を伸ばした。世界に一つとない奇跡を奉じる奇術師の手に、赤い光沢のサテンの布がかかる。
また耳に心地よい音がして、ポケットの切れ込み型の暗闇から、先輩の月と象牙色に光る手が出現した。奇術師は、白手袋が嵌められたフィンガースナップの音を、周りの何千といる耳に聞かせた後に、布を鮮やかにとる。
先輩の手には、ひとつのスラリとした形の瓶があった。取り出されるまで、ポケットの中には、その瓶の質量と同じ分、膨らんでいるようには見えなかったのに。奇術師の手が再び人目に触れた時には、全くの無の空間から、白い鳩が産まれた錯覚に人々が狂乱する。
今度の瓶の中身は、無色透明なオイルに包まれた、何かの花弁らしいものだった。

取り出した手のゆっくりとした動きが伝わっていたのか、白いガーデンテーブルに置かれた後でも、中で少しゆらゆら揺らめいている。
「これはね、人は筋模様が綺麗なチューリップのハーバリウムと言うけれど、私の中では、これは金魚の鰭の標本なのよ」
そう言われると、途端に私の世界でもこれが、金魚の鰭になってしまった。
きっと目の前のこの人は、人語を理解して話す金魚だけ水槽に集めて、少しの間は機嫌良く眺めていたら、次第に飽きてしまって、スープになる前の鶏が羽を毟られるように、尾鰭や背鰭を毟って、この瓶の中に入れたのだ。
瓶の中の、無色透明な液体は金魚達の涙で、中の気泡はきっとため息に違いない。
なんて残酷なのだろう。
そして私も、目の前のこの美しい人に自分の体を傷つけられるのを羨ましく、生命を刈られた存在をとても恨めしく思ってしまった。
先輩は、テーブルの上に身を乗り出して、私の顔を覗き込んだ。
「顔が赤くなるあなたは、もしかしたら金魚かもしれないと思ってね。うちにいた子達よりは、賢そうな顔をしているわ。あなたの鰭はどんなのかしら。もし私のお眼鏡にかなったら、切り取ってこの瓶の中の金魚の鰭のように、標本にしてあげてもいいわ。」
そう言いながら私の耳を、端正な指先で擽った。
校則でマニキュアやネイルをする事を許されず、磨かれてトップコートを塗られただけなのに、それでも充分美しい爪が、豹の鉤爪が、捕えられて震えるしかできない牝鹿の耳朶に触れて、かり、と擦られる。
もう、この人にかなうわけもない。
私は身を固くすることしか出来ず、ますます顔を赤く染めるのだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?