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ミュシャ展、エジプト展レポート【モロー、青木繁、hentai、宗教、現代アートもあるよ】

2023/05/13

どうも、魔法少女です。

ミュシャ展とエジプト展に行ってきた。それぞれの感想と比較について纏めておこうと思う。


【ミュシャ展】

ポスターに宿り街を包んだ女神たち。

ミュシャのルーツ(飽くまで私の想像)

○古典芸術

後年、渡米し始めたあたりからポスター制作から遠ざかろうとしていたことや、スラブ叙事詩を制作しているところを見るに、ミュシャは民衆芸術協会に所属したりそれまでのフランスの保守的な芸術をはみ出したポスターの平面的でイラストチックな絵を描きながらも心のどこかで古典的な絵画、油絵への執着があったのかもしれない。「

一時期彫刻や室内装飾といった立体の制作に取り組んでいたところも、「デザイナー」ではなく「芸術家」として見てもらいたかったところがあったのだろうか。

○宗教

チェコの民族意識や敬虔なクリスチャンだった母の影響、神話や歴史を題材にした本の挿絵をよく書いていたこと。それぞれが絡み合ってミュシャの中に女神を作り上げたのではないだろうか。ミュシャの描く女性はクッキーや香水、タバコといった俗物を手にしながらも、その周りを彩る神秘的な自然紋様と相まってどこか神性を感じさせる。ミュシャのポスターが単なる「広告」ではなく芸術の域まで到達しているように感じさせるのは彼の中の民族や歴史、勿論自然への強い信仰心に依るところなのではないだろうか。最終的には「スラヴィア」(右図)というスラヴの女神まで描いている。ミュシャの女神はマリアのような母性というよりは処女という感じがする。

○浮世絵、日本の芸術

ミュシャの活躍した19世紀後半、ヨーロッパはジャポニズムの盛りであり、周知の通りモネ、ゴッホといった印象派、当時の最先鋭の芸術家たちもおおいに影響を受けている。ミュシャも流入する日本美術の影響下にあったに違いない。ミュシャも「Le Japon Artistique 」を持っていたらしい。「『メディア』のポスター」の背景の色遣いや雲の表現はモロに日本を感じる。縦長の画面も相まって花札の月を思い出した。加えてポスターも浮世絵も版画だ。

逆に、日本もミュシャの影響を受けていると思う。ミュシャのいた時代に日本で刷られた本の表紙はアール・ヌーヴォーを感じたりする。有名どころでいうと「乱れ髪」(1901年刊行、、、ギリギリか?)の表紙が挙げられると個人的には思う。

○月

ミュシャの作品には多く月が登場する。というか大抵の作品には直接的な月はないがとにかく円が描かれている。ミュシャは四種類の作品をひとまとめにし、4点セットのような扱いで発表することが多かったらしい。これは四季や自然、時間の移ろいをモチーフにしているのだろうか。まん丸から始まり少しずつ満ち欠けしていく月も、この「自然の移ろい」というワードに呼応するかもしれない。

また、円はやはりミュシャが描き続けた女性の円やかな、柔らかいイメージと調和している。

○自然(の移ろい)

自然、植物を題材にしているのは所謂アール・ヌーヴォーの大きな特徴なのでいうまでもないが、上でも述べた通りミュシャは特にその「移ろい」に着目していると感じた。曲線を描きながら画面をスルスルと包み込む蔦のような模様は移り変わる自然や季節の静かながらダイナミック動きを絵画という「静止」、あるいは動画のワンフレームのなかに表現しようとしているように見える。ミュシャの作品に感じる静かな動きの視覚イメージは、まさにミュシャの描く植物の伸びやかさに呼応する。

○ミュシャとモローと青木繁

ミュシャの、ポスターではなく油絵や水彩画を見ていると、なぜかふと「青木繁っぽいな」と思った。理由はうまく説明できない。女性の書き方や構図、色遣いにそう感じたのだ。次に、モローっぽさも感じた。装飾的なところとかがそうかもしれない。モローの激しい色彩を若干柔らかくした感じ。青木繁はもろーの影響を受けている。本人も認めていた。モローも丁度19世紀に活躍した画家だ。年代の順番としてはモロー→ミュシャ→青木繁であるので、ミュシャもモローの影響を受けていることは充分考えられる。なんてことを考えながら歩いていると、、、私は衝撃的な作品に出くわした。「レアンドロスの死」という水彩画である。これ、何処かで見たことあるぞ、、、。そう、青木繁の「大穴牟知命」である。似ている、、、どちらも神話をベースにした作品であるし、ドガを参照していた青木繁はミュシャを目にすることもあった筈。現に青木繁の生きていた時代から上記の通りミュシャは日本でブームになっていた。これは、青木繁やってるんじゃないだろうか、、、(妄想)


自分の制作に引っ張れそうなところ

○消費社会⇔自然讃美の皮肉的な扱い

単純に仕事としてお金にしなかまら、その中で自分の表現したいことを忍ばせていくというのは通年の芸術のあり方として重要なことだと思う。ミュシャの場合、「ポスター」という消費、人工物まみれの近代社会を代表する媒体に、それと正反対の自然への信仰を過度な程にのせているのが個人的にシニカルで面白いと感じる。

○ポスターという街中を侵食するもの

誰にでも目につくことは重要なことだ。自分のテーマをポスターや看板に潜ませて気付かないうちに人々の意識に(まさに)刷り込むというプロパガンダチックな手段はなんというか、、、カッコいい。非常にスマートだ。


【おまけ】

同じ福岡市美術館の一階で企画展として仏像が展示されていた。十二神将の仏像だった。十二神将は十二支から来ているものだが、円卓の騎士も十二人だし、黄道十二宮(これもミュシャのポスターを見て思い出した)も十二だ。(まあこれは十二ヶ月というのがあるが)なにか関係があるのだろうか、、、詳しい人に教えてもらいたい。




【エジプト展】

まずはミュシャ展との偶然の呼応について述べておきたい。それは、月と太陽だ。エジプトの文化、宗教も「丸」が鍵になってくるようだ。ミュシャは「移ろい、循環」から月をイメージした。エジプト人は「再生」から太陽をイメージした。


思ったこと

○ヒエログリフと漢字と数字

展覧会の中でも度々登場した太陽の軌道を表すヒエログリフが個人的に気になった。横線の上に丸を書いたものなのだが、ちょうどΩに似ている。あと、面白いことに日本語の「旦」にも似ている。象形文字だからおそらく同じような成り立ちなのだろう。人間の意識はやはり面白い。確かエジプト文明では再生を表しているとかだった気がする(本当にうろ覚え。間違ってるかも)Ωはギリシャ文字最後の文字であるため破滅をイメージさせる。また、このヒエログリフは調べたところ千万を表すらしい。この莫大な数字もΩのイメージに合うような、、、

○肉体信仰(のような)

エジプトは人間の肉体の形に特別な感情を抱いているように感じた。エジプトの壁画といえば不自然に正面を向いた体の描き方、とてもリアルとはいえないあのデザインが思い出されるが、あれはなにも古代エジプト人の観察力及び描写力が劣っていたわけではない。現に、人間以外の動物はかなり特徴をとらえて描かれている。ただ、人間の体だけが、「特別なもの」とされていたために「完全な形」、つまり、正面を向いた形で描かなければいけないという意識があったために例の独特な絵になったらしい。記号化されているということだ。加えて、ミイラにしてまで肉体を保存しておくというのも人間の肉体への執着を感じる。一方で、「心臓には人間の心や思考が宿る」という人間性の核を意識した思想が二項対立として存在するのも面白い。自分の中で人間の肉体、人型を通じて人間の精神を表現するというのは自分の中でゴームリやクインとリンクした。

実際に古代エジプト人は肉体を五つの要素(肉体、影、名前、パー

《霊的パーソナリティ》、カー《霊的生命力》)に分けて考えたりしていたらしい。

○ミイラ

ミイラは初めて生でみた。これは本当に良かった。写真撮影が禁止だったのが本当に悔やまれる。せめて紙と鉛筆があればスケッチ出来たのに、、、アイビスペイントでスケッチしようとしたが流石に断念した。悔しい。まず、人間の頭より文字通り一回り小さい。これが面白い。筋肉や脂肪が萎んで皮膚が頭蓋骨にピッタリとくっついているからだろう。以前頭蓋骨の原寸大の模型を通販で注文した時、届いた商品を見て、「こんなに人間の頭部は小さくない。原寸大というのはウソなのかしら」と思ったことがあったが、あれが本当に原寸大だったことを今日知った。それだけ人間の表情筋というのは大きいんだなあ。そしてその作成技術にも驚かされた。乾燥した風土が手伝っているところもあるだろうが、鼻から器具を突っ込んで脳みそを引きずり出すらしい。(余談だが、古代エジプトでは脳みそは単に涙や鼻汁を作る器官だと考えられていたらしい。思考、感情といった人間性はもっぱら心臓が持つものとされていたようだ。)7000年(7000年!?)経った今でもその顔つきがわかるくらいしっかり保存されていたのが衝撃だった。あとその頸の断面図も良かった。しっかり脊椎?頸の骨が残っていた。

○像が小さい。ミニチュアサイズ

人間の像がどれもミニサイズだったのも印象的だった。護符などとして装身具として身に付けられていた文化のせいだろうか。それともデカい像はミイラで充分だからだろうか?とにかくあれだけこまいものを精巧に作成する器用さが面白い。

○エジプトの像とギリシャの像

エジプトの像がギリシャのコントラポスト発明以前(アルカイック期とか)の像にどことなく似ている気がした。ポージングや表情の硬さが似ている。特にアルカイック期のアポロが似ている。

○エジプトのピアス

デカい。何ゲージだよ。でもデザインは可愛らしい。

○エジプトの男女の表現とエロアニメとジェンダー観

エジプトの壁画では男女は肌の色で識別されるらしい。男性が赤褐色、女性は黄色。官吏はみんな赤褐色の肌をして描かれる。ただ、女性でも位が高ければ赤褐色で描かれたりしたらしい。エジプトのジェンダー観が伺える。この肌の分け方は日本のエロアニメに似ている。男性は暗い黄色めの色、もしくは焼けた褐色の肌、女性は白い肌で描かれることが多い。これは単純に男女が交わり合った時にどっちがどっちか分かりやすいからだろう。

○エジプトと仏教

エジプトの宗教観も蓮から始まるらしい。仏教と同じだ。蓮の泥水の中から花を咲かせるあたりから仏教はインスピレーションを受けたらしい。エジプトはどうなんだろう、、、





【おまけ】

同アジア美術館で展示されていたアジアの近代美術展も面白かった。というかファンリジュンの作品が看板になっていて、吸い込まれてしまったのでエジプト展より真っ先に見た。あとなんかミュージアムウィークかなんかで無料だった。最高。

ファンリジュンの作品は初めて生で見たがやはりイイ。イデオロギーへの静かで不気味な反発がよく表現されている。これは是非自分にも取り入れたい。他にも、アジアの国々がワヤンクリなど、自国のアイデンティティを活かしながら欧米の侵略への対抗や戦争の傷跡などを表現していた。政治的な意味を持った作品はやはり強いパワーを感じる。もうひとつ面白かった作品が(確か)ベトナムのアーティストの作品。ペダルを踏むと像がお辞儀するのだが、頭がパカっと開いて中の空洞が見える。これはベトナムの形式化してしまったお辞儀などの文化を表現しているらしい。本来は鑑賞者がペダルを踏むらしいが、作品保護のために係員が30分毎にペダルを踏むシステムになっていた。残念ながら折りが合わず実際にお辞儀しているところが見れなかった。映像は見れたけど。作品保護の理屈はわかるのだが、鑑賞者がペダルを踏むところまで含めて作品なのでは?そこはやはりミソだろうと思う。別にモノ自体だけに芸術が宿っているわけではない。モノと鑑賞者のアプローチ、関係にも宿るはずだ。これはアートの芯を歪めているのでは。


【まとめ】

○円と宗教観

ミュシャの月や女性、エジプトの太陽、仏教の円相、キリスト教のシンボリズムでも円は永遠を象徴するし、神話にはウロボロスなんかもいる。円は完璧な図形だと感じられる。定義としては一つの点から同距離の点の集合だが、正無限角形とも捉えられる。やはりそこには無限や循環を感じさせる。0も円だ。そして0と♾️は似ている。


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