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愛とは そこに在るエネルギー そして循環

「愛」を連発して、目に見えないものに関する情報を売る人
誰かを助けているようで、実は自分の手柄、自分のためのエネルギーを他者から奪う人
ネット上で「誰かを救う」という歪んだ正義感から、特定の誰かのネガティブな情報を流し続ける人

愛を連発する人には辟易とさせられた

昨日、『VIVANT』第10話を観ていたら、主人公が、数十年生き別れになっていた父の愛を感じ取ったときのことを語っていて、その時の「愛」には素直に頷くことができた。
無心に放つエネルギーと、それを受け取る人がいること。受け取られた思いがまた他の誰かに向かって注がれること。ああ、愛だと思った。愛とはエネルギーの循環なのだと感じた。

辟易とさせられるときの「愛」は、「奪う」ものだったり、溜め込んで我欲を満たすのに使われているのかもしれないとふと感じた。金銭欲とか自己顕示欲を満たすために他者のエネルギーを奪うということ。言葉巧みにお金を使わせること。そういう愛もどきの力の行使は、悲しみを生む。そこにエネルギーの循環はなくて、人を孤独に陥らせる。循環という現象自体、「奪う」ことができない。奪おうとした瞬間、循環のサイクルは断ち切られてしまう。

ただ、「与える」ばかりでは身がもたない。愛とは与えられたものを他者に還元し物事を循環の中で生かすこと。たとえば、母親という存在が時に強いのは、エネルギーの循環を生み出せるからではないか。日々の家事はまさに物事を循環させること。生命の営みは循環そのもの。
あるいは無償の行動。見返りを求めない行動も、愛からのものだとみなされる。
受け取ったものに感謝し、周囲にシェアできる人は、愛ある人だと称される。

この数年間、違和感や悲しみ、時に怒りを感じざるを得なかった事柄では、奪ったり、溜め込んだりすることで循環が断ち切られているのだった。比較。差別。排除。不安。分断。脅し。

愛は無視し始めると、いとも簡単に見えなくなる。そして、世の中は我々を盲目にする仕掛けに満ちている。

負けそうになったら、自分で循環を作り出す。炊事でもいい、掃除でもいい。生きるための営みは循環そのもの。そして自分の心身を動かすこと。見えないエネルギーそのものへのアクセスよりは、自分の心身との関わりを。ヨガだって、自分の心身と向き合うものではないか。くれぐれも、見えないものだけにフォーカスするものに気持ちを奪われすぎないように。

自分の心身の感覚と繋がっている実感あっての本質へのアクセス。

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