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生きていてよかったって 思える日がくる

ということを 安直に言っていいのか、そんなことを考えることがある。 


さっき はっきりと書けばよかったんだけど、私はすごく悲しみからの怒りを感じながら 数日過ごしているんだと思う。「と思う」と書いたのは、それをストレートに表現することを避けて、気持ちを抑えているから、どれくらい 怒ったり、ショックを受けているかわからないからだ。

自分自身は、なんとかここまで来れたけど、それはたまたま幸運が重なったから、今ここにいるだけで、ここにいるまでの過程を「こうしたからこうなった」っていう因果関係で、確信をもって言うことなんてできない。「神のご加護だろう」としか思えない。「生かされている」ということ。

「あの子の振る舞いは甘えだ」「あの訴えは単なるわがままだ」「この人だけ特別扱いするなんて不平等だ」と 弱っている人を断罪し続ける多くの人たちに言いたいのかもしれない。あなたなら、さぞかし強い気持ちで、あの人たちが置かれている辛い状況を克服できるのでしょうね、と。

教育とは 回り回って、結局 何ものかへの暴力に帰するしかないものなのか。

私が「運がよかっただけ」と思える状況をもたらしてくれたのは、やはり教育という営みではなかったかもしれない。おだやかな、医療従事者の冷静ながらも温かい言葉や、少し心身に余裕がある人たちの、ちょっとした善意、あたたかい眼差し、誠意に満ちた助言だった。誠意。
彼らは決して、困り果てた私に「甘えている」と吐き捨てたりはしなかった。

つまり、周囲ができることは 実は限られているのかもしれなかった。それぞれにそれぞれの生活や守るべきものがあって、困っている人に自分の持てるものを全て捧げることはできない。でも、相手の生きるエネルギーを奪わずにいようとすることはできる。相手の話に耳を傾けることはできる。ただ、聞いてくれただけで救われることも、ある。

唐突だが、宇多田ヒカルの曲を聴く時、そういう思いが いつも確信として感じられる。彼女がずっと闘って守り抜いたものが、獲得したものが、曲の魂だからだろうか。

生きていてよかったって 思える状況が、どんなふうに訪れるのかもまた人それぞれだろう。だから、わたしたちが誰かに渡せるものが何かという問いの答えもまた簡単ではなかろう。

ただ、わたしが「生きるのをあきらめなくてよかった」と思えたことは事実。一方で、その思いを嘲笑う人がいるのも事実。

宇多田ヒカルの紡ぐ言葉と音に 心を委ねながら、ただただ、自分の家族が「他者の生きる希望を打ち砕く言葉を吐かないような人」として在ってくれることを、心から祈りながら、時を重ねていこうという思いを新たにしている。

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