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【小説】 オドリバ・フューチュラマ

 これは俺が高校三年生だった時の話なんだ。

 同じクラスに、内田さんっていう女の子がいた。その内田さんにさ、文化祭を一緒に回らないか、って誘われたんだよな。いつか、って、ああ、夏休み明けくらいだよ。ほら、俺らの高校の文化祭は九月の下旬にあるだろ。

 うん、驚いたよな。そうなんだよ、俺のクラスっていうのは、いわゆる理系クラスっていうヤツでさ、教室にはほとんど男子しか居ないんだよ。

 教室のドアを開けるだろ、うちの学校の制服は学ランだったじゃないか。だから視界が真っ黒なんだ。教室のほとんどの椅子に座ってるのが、どれもこれも真っ黒なんだ。

 女の子もいるにはいるんだけどさ、いまいち在籍してるかよく分からないんだよな。理系クラスの女の子って、意味わかんねえ他クラスのヤツと付き合ってるよな。本当に意味が分からない、どこで仲良くなったんだって思うような、他クラスの明るいヤツとさ。

 それで彼女たち、教室から出て行って、そいつらとコソコソ校内で会ったりしてるんだぜ。あいつら、俺たちのことなんてまるで存在しないかのように生活してるよな。

 内田さんはそんな洒落臭い女子たちとは絡んでなくてさ、いつも教室の隅で分厚い本とか読んだり、机に突っ伏して寝てたりしてるんだよ。

 それでさ、内田さんっていうのは、こういう言い方をしていいのかわかんねえけど、超が付くくらいの美人なんだよな。

 それこそ、理系クラスの俺たち男連中なんか視界にも入れたくないだろう、ってくらいの美人でさ。話しかけられた時、俺はもうびっくりして固まっちゃったんだよ。

 あれは夏休みが明けてすぐのことで、登校すると彼女が俺の席にやってきたんだ。それで机に手なんてついて、俺の文化祭の日の予定とかを聞いてくるわけ。彼女の右手の小指には絆創膏が巻かれてたな。

 俺はほら、演劇部に所属してただろ。その時は三年生の夏休み明けだから、もう引退してたけどさ。だから、後輩たちの舞台を観に、演劇部の部室である視聴覚室に行こうと思っていたんだ。

 そう、できることなら文化祭の日の一日中な。演劇部にとって文化祭ってのは本当に大事な日なんだよ、お前には分からないかもしれないけど、客前で演じることで部全体のそれからの方針が決まるっていうかさ、秋の大会の前哨戦として最適な公演日ってわけだ。

 それで、そういう大事な公演を見届けるっていう予定があることを伝えようとしたんだけど、いざ内田さんの大きな目に見つめられると何も言えなくてさ。吸い込まれそうなくらい大きな目で俺を捕らえて、小林くんは文化祭の日は何か予定あるの?、って聞いてくるから、恥ずかしながら俺は首を横に振ることしかできなかったんだよ。

 出し物?ああ。俺らのクラスはみんなやる気が無くてさ、本当は一回話し合いが開かれて、みんなでカレーでも作って売りますか、ってなったんだけど、検便が面倒くさいから、やっぱりうちらの出し物は休憩所で、ってことになったんだよ。

 教室に冷房を付けてさ、ほら九月の下旬なんてこの辺はまだ暑いだろ。冷房を付けて、それで、椅子とか並べて、机とかさ。ちょっと過ごしやすい空間を作って、休憩所ってことにしたんだよ。

 内田さんもその決める話し合いに参加してたかな。いやあ、悪いけどもう覚えてないな、何しろ五年も前のことだからさ。

 それで、どこまで話したっけ。ああ、そうなんだよ。内田さんは、じゃあ一緒に文化祭を回ろうって、言ってきて。びびったよ。あの内田さんと一緒に校内を歩けるんだぜ。それも彼女から一緒にって、そんなの断るわけがないよな。

 え?いや、それが無いんだよ。いや、正確に言えば無くはない。まあ話したって言っても、業務連絡くらいだけどな。

 ほら、俺と内田さんは保健委員だったから、よく一緒に保健委員会の集まりで隣の席に座ってたわけ。別に同じクラスの委員で横並びにならなきゃいけない決まりはないんだけど、俺は運悪く委員会に他のクラスの友達がいなくてさ。彼女は元々誰かとつるむタイプじゃないから、自然とそうなったんだよ。

 保健委員の委員長のヤツが、ほら野球部の杉田だったんだ。あの、背が高くて、いつも青いパツパツのインナー着てたアイツだよ。アイツ、もう三年生の夏は終わったってのに、プロを目指すからとか言って、夏休みが明けても野球部の練習に参加してたんだぜ。後輩からしたら嫌だったろうな。

 俺は正直、いやプロなんかなれるわけねえだろって思ってたね。お前なんかが入れるほど甘い世界じゃねえよって。それでもさ、独立リーグなんだけど、アイツ高校出たあとにチームに入ることができてさ、成績はどうなったか分からないけど、一応“プロ野球選手”にはなれたんだよな。

 で、その頑張り屋さんの杉田が、よく保健委員の集まりでこっちを見てきてたな。アイツは委員長だろ。集会の進行をしながら、俺らの前に立って色々話してるんだよ。

 その目線の先には、いつも俺の隣の内田さんがいたんだよな。ある日はさ、集会終わりに、同じ野球部員の、なんだっけな、名前は分からないけど、D組の保健委員のアイツに、耳打ちしててな。

 「かわいくね?」とか言ってるんだよ。内田さんの方をちらちら見て、親指で後ろ向きに指差してさ。

 俺なあ、本当になあ、あの運動部の奴らの「かわいくね?」って聞くやつが、クソほども気持ち悪いと思うんだよ。同意を求める感じっていうか、可愛いなら「可愛い」でいいだろ。自信を持ってでけえ声で言えばいいじゃん。それをさ、同じ部活のやつに「かわいくね?」って確認取るあの感じ?なんて言うかな、性欲を隠そうとして気取ってるあの感じ、本当に気持ち悪いと思うわ。ふざけんなよな。

 ああ、で。で、なんだよ。ああ、そうなんだよ。ええ、保健委員の業務連絡しかしたことがない内田さんと、一緒に文化祭を回りましょう、ってことで落ち着いたんだ。ああ。

 俺、その日はもう浮かれちゃってさ。ほら、登校してすぐにそんなに良いことがあったろ、それで授業なんか全部、上の空。化学の授業で実験をしたらしいんだけど、一切記憶にございませんなんだよな。

 文化祭の前日に、授業をやらないで、丸一日文化祭の準備をする日があっただろ。

 その日の俺は少し寝坊をしちゃってさ、学校に着いたのは九時を過ぎていた。教室に入って驚いたんだよ、みんながお揃いのクラスTシャツを着てるんだからな。FCバルセロナのユニフォームをもとにしたデザインのやつだった。俺はクラスTシャツなんて受け取ってから一度も目にしてないから、当然その日も忘れちゃったんだよな。

 数少ない理系クラスの女子たちが、教室の前の廊下で顔を寄せ合ってインスタのストーリーを撮っていた。目障りだった。内田さんはまだ来てないみたいだったな。彼女、普段は真面目なんだけど、たまに遅刻してきて昼過ぎに来たりするんだ。

 そんな特別な日なのに男連中ときたら、いつもみたいに椅子に座ってソシャゲとかやってるんだよ。女子たちや、他のクラスの奴らが青春を楽しんでるのに、俺らのクラスは未だに装飾ひとつ付けられてないで、いつも通りどんよりとした空気でさ。俺は荷物を置いたらすぐに教室を出てしまった。

 もちろん貴重品は持っていったよ。クラスのみんなを信じてなかったわけじゃない。あれだよな、学校行事の度に、財布が盗まれた、とか、荷物が荒らされた、とかなんとか、そういう話題に尽きない学校だったよな。

 それで教室の目の前にある階段じゃなくて、三年生のフロアの廊下を歩いた先にある、反対側の階段から降りようと思ったんだ。二階の渡り廊下を渡って体育館にでも行って、そこでバスケでもしようと思ってたんだろうな。文化祭の前日の体育館なんて誰も使ってないだろうから、今ならバスケがし放題だと考えたんだ。

 まあ、バスケって言っても、一人でひたすらスリーポイントシュートを打ち続けるだけだぜ。このスリーポイントシュートが入ったら、心の中でわだかまっている全ての不吉な感情が消え去ってくれるって、あの頃は本気で信じていたんだ。

 ああ。俺らのクラスは廊下の端にあるだろ、そこから他クラスの様子を見ながら廊下を歩いて、それで階段を降りようと思ったんだ。どうせその先に体育館があるんだし、どっちの階段から降りても一緒だろ。いつもと違う浮ついた雰囲気の三年どもを眺めてみたいって思ったんだよ。

 それで何の毛なしに右手の教室に目をやった。俺のクラス、つまり三年G組を出てからもうだいぶ廊下を歩いてたから、あれはC組かB組の教室だったと思う。センスがないオレンジ色のクラスTシャツの教室だった。

 あれなあ、驚いたんだよ。なにがって、ほら、その教室の、後ろの方にな、サッカー部の集団がいたんだ。教室の前の方では、黒板の近くで何やら段ボールを丁寧に切る生徒たちがいて、後ろの方でサッカー部の連中がそれに乱雑に色塗りをしていた。そしたらな、その中の一人に俺は声をかけられたんだ。

 ギョッとして目を逸らそうとしたら、そいつの顔に見覚えがあって、それが一年の時にちょっとだけ仲の良かった、伊藤ってやつなんだ。

 伊藤はサッカー部らしくないやつで、教養もあるし他人の心を思いやることができるいいやつだった。勉強もできるし、女の尻ばかり追いかけてるわけでもなかった。

 そんな伊藤がこっちに手を振るだろ、そしたら数メートル先に居る俺に、伊藤の周りから放たれる汚ねえ視線の束が刺さるんだよ。

 なんだあいつ?、って俺に言いたげな、それでいて、なんだあいつ?笑、って思わず言い出しそうな、薄ら笑いを顔面に貼り付けた髪の尖った日に焼けた男たち。

 伊藤には悪かったけど、俺は思わずその場から逃げ出したね。それで、そこまで廊下をはるばる歩いてきたのに、なぜか踵を返して元の教室まで戻ってしまった。

 音を立ててG組の扉を開けると、さっきと変わらない陰湿な空気が教室に充満していた。一瞬、僅かな注目が俺に向いたけれど、それも一秒もしないうちに消え去った。
 
 平熱の低い理系クラスで、俺だけ既に文転することを決めていたからか、クラスで一人だけ文化祭にはしゃいでいるようで本当に恥ずかしかったな。理系科目が自分に向いてないって気づいたのは、三年生になってすぐだったよ。

 だけどその教室の空気に触れて、俺は平穏な心を取り戻していた。この落ち着きが俺にとっては心地よくて、文系クラスの、異性の尻ばかり追いかけ回している奴らの体力が羨ましくさえ思えていた。

 教室の入り口で立ち尽くしていたら、いつの間にか登校していた内田さんと目があった。彼女、いつも通り教室の隅で寝ているのかと思ったら、こういう時はしっかりクラスTシャツを体操服の半ズボンに入れててさ、それでいて髪の毛の先をくるくるさせてるんだから、本当に驚いた!

 目の下にキラキラのシールみたいなのもつけていて、そ、それ、どうしたの、の、それ、って俺が聞いたら、◯◯さんにつけてもらったの、って。(◯◯さんっていうのが、たしか隣の理系クラスの女子で、これが、ひふ?さんだか、ひる?さんとかいう苗字で、まああまり俺が聞き慣れた名前ではなかった。)

 それで、普段から可愛い内田さんがもっと可愛くなってるんだから俺なんかもう心臓爆発しそうでさ。実際ちょっと爆発してたんだけど、内田さんはそれに気づかないフリをしてくれてたみたい。

 うちの学年には理系クラスが二つあって、隣のクラスは生物・化学選択の生徒が所属することになっていたからか、なぜだか女子が多かった。

 俺らのクラスは物理・化学選択の奴らがほとんどで、俺は本当は地学が学びたかったんだけど、地学を選ぶやつが少なすぎるから、って理由で、俺たちの学年は地学の授業はやらない、って高校が決めたんだぜ。それで仕方なく物理・化学の二つを選んだんだよ。生徒の可能性の幅を狭めることに積極的だなんて、まったく嫌な学校だよな。

 それで内田さんといえば、世にも奇妙な、物理・生物選択らしくて、彼女たち数名は物理の授業が終わると、三階の剥き出しの渡り廊下を小走りで渡って、隣の管理棟にある生物教室まで向かっていた。

 正直、モーメントの計算も、銀鏡反応の実験も、あの頃の俺にとっては何の意味もなかったんだ。文転して学びたいことがあったわけではないけど、学びたくない理系分野なんて目にもしたくないし、もう、どうなってもいいから苦しい思いはしたくなかったんだよな。あの頃の俺は、もっぱら自室にこもって演劇のことばかり考えていた。

 それで内田さんは、そのひふさん?と一緒に生徒会の手伝いをしてくる、とか言って、小さい手を俺に振って階段を駆け降りていったんだ。

 生徒会の連中はみんなどうしようもない奴らばっかりで、推薦で大学に行くために信任選挙で演説ごっこして偉くなった気でいやがる。それでも副会長のやつとは少しだけ馬があってな、そういえばこの前、体育館で後夜祭の設営をやるとか言っていたなあ。

 俺は内田さんに向けて振った手をだらりと垂らすと、体育館に行く意味が無くなってしまったので、気の向くまま校内を歩くことにした。

 後夜祭なんて、軽音の馬鹿どもが手垢の付いた愛とかをステージに上がって歌って、それを聴いてる青臭い群衆が感動して泣いたりしてるだけの時間だろ。そんな空間、火炎瓶でも投げ込んで燃やしちまえばいいのにな。

 そんなことを考えながら、校内を練り歩いていた。歩くことだけが俺を大丈夫な気分にしてくれると思っていたんだ。より静かで落ち着くところを求めて足を進めると、自ずと俺は管理棟の中を彷徨っていた。

 俺らが普段授業を受けてた方の校舎が、教室棟だろ。それで生物教室とか、保健室とか、そういう色々な教室があったのが反対側にある管理棟だよ。

 まあ覚えてなくても無理がないよな。それで、その管理棟の、四階の一番北側にある教室が、我らが演劇部の牙城・視聴覚室だ。普通の教室の引き戸のドアとは違う、防火扉みたいな重い開き戸が付いていてな。俺も初めて行った時は、本当にこれを開けていいのかって心配になったよ。

 それでもあの時、ためらわないであの扉を開けてよかった。だからこそ俺は演劇部に入ったんだし、今でもこうやって舞台に立ち続けようとしているんだからな。

 翌日が文化祭公演なんだから、演劇部も忙しそうに準備をしていた。俺が扉を開けたとき、視聴覚室では、カーテンを閉じて暗幕を締めようとしている最中だった。俺らの演劇部では「窓殺し」って言ってたんだけど、あれの正式名称って何なんだろうな。

 暗幕が締められかけてるから教室の中が暗いだろ、それで扉が開いて、明るい廊下と逆光になって、後輩たちは誰が入ってきたのか分からなかったみたいだった。

 俺が小声で、おはようございますゥ、って言うと、みんなが、小林先輩!って大きな声で駆け寄ってきてくれた。みんな良いやつらなんだよ。もう引退した一個上の先輩が、差し入れも無しに公演前日に急に押しかけても、ちやほやしてくれるんだよな。

 それで差し入れとして箱アイスでも買ってくればよかったなと思ったけれど、忙しそうだったから、そのまま俺はみんなの手伝いをすることにした。

 うちの視聴覚室は構造上の問題で、冷暖房が付いてなかったんだ。冬場はストーブをつければいいんだけど、暑い時は「送風機」とかいう変なスイッチを押すことで、なまぬるい風を循環させて、室内をなまぬるく保つことしかできなかった。

 だから俺が行った時も室内はもわっとしていた。受験期ということもあって、その頃の俺は冷房が無い屋内の空間に長時間とどまる経験が減っていたんだよな。そうだよ演劇はこの陰湿な暑さなんだよな、と思いながら、俺は一口大にちぎられた黒いガムテープを後輩から受け取って、暗幕と壁に貼り付けて固定したりしていた。額に汗が滲んでいた。

 それで暗幕の準備ができたからって、照明を点けたら、より一層つよい熱気が舞台上を覆いこんだんだ。それは決して比喩なんかじゃない。照明のライトっていうのは本当にめちゃくちゃ熱いんだ。だから舞台上に立って照明に照らされてるだけで、汗が噴き出してくるもんなんだよ。

 もちろん引退済みの俺は、演出の女の子や、役者たちの邪魔にならないように舞台から離れて後方に座っていた。うちの部室では、照明の子たちは上手の舞台袖の辺りに機材とかを置いて色々いじくってたんだけど、音響の奴らは教室の最後列にテーブルをドンと構えていたから、そのテーブルの傍に座ることにした。

 今日は最終確認としてシーン練を少しやって、そのあと午前中のうちに一回通し稽古をするみたいだった。

 俺は現役だった頃はずっと役者をやっていたから、上手の袖で控えているときに照明の子たちが巧みに光を操っている姿を見て、かっこいい、と思っていたんだ。それと同時に、裏方へのコンプレックスを抱いていたんだよな。

 俺は演劇部だなんて言って、高校時代の三年間ずっと役者しかやってなかった。演劇ってのは役者だけで成立するわけじゃないからな。脚本、演出を始めとして、音響、照明、舞台美術を作る人とか、衣装とかメイクを担当する人、色々な裏方がいて出来上がっているんだ。

 それでも俺は役者しかやってこなかった。だから、機材の知識があるわけでもないし、木材の切り方が分かるわけでもない。脚本が書けるわけでも、演出ができるわけでもないんだよ。後輩に伝えられる技術を持ってるような役者でもないから、ただただ演劇部で珍しい「男の役者」ってだけで三年間生き延びてしまったんだ。

 それで、いざ後輩たちに「小林先輩、今の通し(通し稽古)はどうでしたか?」なんて聞かれても、内容の無い薄いことしか言えないでいたんだ。

 そんな自分が嫌で嫌で仕方なかった。

 気づくと、照明が明転していて後輩たちが部室内の好きなところでお弁当を広げて食べ始めていた。もう昼休憩なのか、と思ったよ。演劇っていうのは時間を食べちまうものなんだ。窓辺でソシャゲをやっている男子、円になってお弁当を食べている女子、引退して数ヶ月しか経ってないのに、すべてが懐かしくて俺はすこし気持ちよくなっていた。

 そんな賑やかな教室の中央で、誰もいなくなった舞台を前にして、演出の女の子が正座で座り込んで、しわくちゃになった台本に、何度も何かを書き込んでは消して、書き込んでは消してを繰り返していたな。

 演出の人が公演期間中にまとい込む気迫ってのは、決して文字には表せられないものがあるんだ。それは普段は優しかったあの先輩もそうだし、いつもふざけていたあの同期だってそうだった。

 演出ってのは常に時間に追われていてな、色んな部署と板挟みになる辛い立場なんだよ。それでやる気のない一部の部員が居るから苛立つだろ、それに加えて思い描くような舞台が作れなくてやきもきする。孤独で頼れる人がいないから、精神的にかなり追い込まれるんだ。

 俺はそんな「演出」という立場を、三年間見て見ぬふりをしていたよ。ずっと役者として舞台上にすがりついて、一度も舞台から降りようとしなかったんだ。よく分からないけど、俺が悪かったんだろうな。
 
 今あそこで悩んでいる演出の彼女も、いつもなら「先輩、先輩」と話しかけてくれるのに、今日は本当に追い込まれているようだった。

 俺は何かを助けてあげたかったけれど、演出経験者でもないのに何かを助言できるわけでもないから、教室の後方から、正座で前屈みになっている彼女を見ていることしかできなかったな。

 そのとき、ノックの音がしたんだ。そして視聴覚室の扉が重々しい音を立てて開いた。みんなの視線が集まると、見慣れた顔が現れて俺は拍子抜けしちゃったな。後輩たちはきょとんとしていた。

 そう、内田さんだった。内田さんが少し開いた扉から顔を覗かせて、あのぉ、と室内を見回してきた。そして俺の顔を認めて、笑顔になったんだ。

 どうしたの、と俺が尋ねると、彼女は、ここにいると思って、と言って再びかわいく微笑んだ。後輩の前だろ、俺はなんだか恥ずかしくなっちゃってな、視聴覚室から出ることにしたんだ。

 去り際に、逃げるように、それじゃあみんな頑張って、と声をかけると、はい!とみんなが返事を返してくれた。

 一番仲の良かった男の後輩が、遠くで小指を立ててニヤニヤしてきやがったから、アゴで、うるせえ、って返して笑ってやったよ。演出の彼女はちらってこっちを見て会釈をすると、またすぐに誰もいない舞台を眺め始めていた。

 視聴覚室の外は、暗幕で熱を閉じ込めていた視聴覚室よりいくらか涼しかった。それでも九月だから暑かったけどな。

 内田さんは、小岩井のぶどうジュースを二本持っていてな。校内だと、下駄箱の近くの自販機でしか売ってないあの小岩井ぶどうだよ。今じゃ信じられないけど、あの頃はペットボトルのジュースは内容量が500ミリだったんだぜ。

 それで、小林くんこれ、嫌いだったりするかな、と言いながら彼女は俺に片方を差し出してきた。嫌いなわけがないよな。嫌いだったとしても喜んで飲むし、なんなら彼女が俺にジュースを買ってきてくれたことが嬉しくて、飲まずにそのまま保存しておきたいと思ったくらいだよ。

 俺は勢いよく蓋を開けて半分くらいまで飲み干した。渇いた喉に恐ろしく濃いぶどうが飛び込んできて、俺はちょっとむせそうになっちゃったな。

 そんな感じでちちくりあっていたら、階段の下の方からカンカンと誰かが登ってくる足音が聞こえてきたんだ。あれ、視聴覚室が四階の一番北側にあることは話したよな。その視聴覚室のすぐ目の前に、階段があるんだよ。

 それで誰だろうと思って内田さんの方を見ると、内田さんも、誰だろう、という顔をして俺のことを見てきた。少し眉毛を歪めた彼女の顔の美しさに、俺は思わず笑いそうになっちゃってさ。それで彼女に、ねえどうしたの、って言われて、ああなんでもない、って言っていたら、視界の端を沿うように、ひとりの制服姿の女子生徒が階段を登ってきて、俺たちの横を通り過ぎていった。知らない子だった。

 管理棟の四階に用事があるんだから、訪ねる先は視聴覚室か音楽室か、美術室しかない。俺たちの横をすり抜けた女子生徒は、箱アイスの入ったビニール袋を下げていたから、大所帯の吹奏楽部が練習をしている、音楽室に入っていくに違いなかった。差し入れでもしにきたんだろうな、見たことはないけど引退した三年生かな。

 俺は廊下を歩いてゆく女子生徒の後ろ姿に見覚えがあった。いや、正確には「どこか似ていた」と言うほうが正しかっただろう。それはいつかの記憶で、俺は千葉県立船橋芝山高校の屋上にいた。

 西尾さんは俺が二年の時のクラスメイトだった。正確には、三年と二年の時のクラスメイトで、最初の「三年」ってのは、中学三年のことなんだ。
 
 そう。俺と西尾さんは中学校が同じでな、三年生の時にクラスが同じだったんだけど、話したことは一度も無くてさ。たまたま彼女も俺と同じ船橋芝山を受けて、高校でも同窓生になったことは知っていた。

 それで高校二年生になって、俺は西尾さんと同じクラスになったんだよ。彼女、俺が言えたことじゃないけど、あんまり友達が多くないみたいでさ。内田さんみたいに一人を好んでるようなタイプでもなくて、どうにも悩んでるみたいだった。

 梅雨頃までは、教室で弁当を食べている女子の集団の中に居たんだよ。それでも美味しくなさそうに弁当をつまんでいてさ、夏休み明けにはあんまり教室に来なくなった。

 クラスのみんなは、西尾さんがいなくなっても誰も話題にしなかったし、俺だって深く調べようとは思わなかった。自分の判断で教室に行かないことを決めたんだろうし、詮索するのも無粋だと思っていたんだ。

 そのまま時は流れた。ある日の晩秋の放課後、俺はいつも通り演劇部の活動のために、管理棟の階段を登っていた。そのとき実は、直前に保健室に用事があってさ、部活に遅刻しちゃいけないからって、保健室のある一階から、四階まで階段をダッシュで登っていたんだ。

 そしたら、三階と四階の踊り場に差し掛かったときに、ひとりの女の子が階段を登っている後ろ姿が見えてさ。それが西尾さんだったんだよな。

 俺は久しぶりに彼女の姿を目にして、あんまりこういうことは言いたくないんだけどな、すこし彼女に興味が湧いたんだ。彼女は手元にビニール袋を下げていて、その中に白い絵の具みたいなものが入っているのが見えた。

 それで彼女の動向を伺ってみた。四階に上がった西尾さんは、視聴覚室をスルーして、そのまま廊下を歩き始めた。音楽室では既に吹奏楽部が楽器を鳴らしていて、彼女は歩みを止めることなく美術室に入っていった。

 まあ、こういうこともあるんだろうな。中学から一緒だったけど、西尾さんが美術に興味があるなんて俺は全く知らなかったんだ。

 俺は部活に遅刻した言い訳を考えながら、彼女の後を追うように美術室の方へと歩き始めたんだ。興味があったんだ、決して彼女に危害を加えたいと思ったわけじゃない。彼女に好意があったわけじゃないけど、彼女の後をつけてみたいと思ったんだ。

 西尾さんは美術室の窓際で、一枚の絵を描いていた。いわゆる、イーゼル、とか、キャンバスってやつだろうな。あれに向かって油絵具みたいなやつを塗っていたんだよ。

 その絵っていうのが、女の子の絵でさ。長い髪を下ろした、芝山の青い制服を着た女の子なんだ。その子がスツールに座っていて、悲しそうな笑顔でこっちを見つめている絵だったんだ。

 もう絵は完成してそうだったけど、西尾さんは最後に、その絵の女の子の真っ黒な目に、白い絵の具で光を入れていた。そうしたら本当に、その絵の女の子が生きているみたいに見えてきたんだ。こんな小さな白い点を目に入れるだけで、表情が変わるんだから驚いたよな。

 西尾さんはすこし絵を眺めた後に、筆を置いた。そして席を立って、美術室を出ようとこちらに向かってきた。
 
 俺は思わず、まずい!バレる!と思ったよ、それで急いで柱のかげに隠れたんだ。西尾さんは俺に気づかずに廊下を戻っていって、さっき登ってきた階段を、再び、登っていったんだ。

「小林くん、屋上への行き方って知ってる?」

 窓辺の席に座った内田さんが、夕日に染まる芝山坂を見下ろして、そう呟いた。坂の下腹の方では、陸上部の連中が文化祭らしいアーチの装飾を坂につけていた。

 校内を彷徨っていた俺たちが三年G組に戻ると、教室中に、桜の花びらみたいなものが付けられていた。それは取ってつけたような装飾じゃなくて、意外と手の込んだ折り紙の作品だってことが見てすぐに分かった。

「山下くんって、折り紙、得意なんだーっ」

 クラスの明るい女子たちが、理科大志望の山下の周りに集まってくだらないことを言っている。半年後に千葉工大に進学した山下は、鼻の下を伸ばして意気揚々と桜を折り続けていた。

 手元の小岩井ぶどうはもう空だった。内田さんは俺の方を見て、再び問いかけてきた。そうだ、屋上への登り方。

 俺は屋上への登り方を知っていた。二年生の晩秋、赤髪の女の子の絵を描き終えた西尾さんが、四階建ての管理棟の階段を、四階から屋上へと登ってゆくのを見たんだ。

 それで彼女は、彼女の華奢な腕に似合わない、物々しい鍵を取り出して、屋上へと続くドアの鍵を開けていた。本来だったら、うちの高校の屋上には人は立ち入れないはずだった。

 四階と屋上の間の、埃まみれの踊り場から見上げた俺は、西尾さんが屋上に足を踏み入れてゆくのを見た。そして俺も、バレないように屋上へと続く階段を登っていった。

 俺がドアから顔だけ出して覗き込むと、彼女は俺に背を向けて緑色の屋上を奥に向かって歩いていて、そのまま躊躇することなく縁の少し高くなった部分に登ると、わずかに足元を見てから、「あ」、俺の視界から消えた。

 その日の部活動は中止になった。俺は、俺があの日見たことを誰にも言わなかった。彼女が飛び降りたこともそうだし、あの絵のこともだ。

 気づくと、内田さんが俺の顔を覗き込んでいた。窓の外はすっかり暗くなっていて、G組のみんなは上手く文化祭の装飾をすることができたんだろう、今までの人生で一度もしたことないような、不恰好なハイタッチなんかしている。明るい女子たちは既に帰っちまったみたいだった。

 俺は内田さんの顔があまりにも近すぎることに、すこし声を上げてしまった。彼女はさらに近づいてきて、俺の顔に両手を添えて頬を挟んだ。俺の口がひよこのようになって、彼女はキスするくらい俺に近づいて呟いた。

「思い出してるんでしょう」

 西尾さんは即死だった。内田さんは、俺がさっき四階の廊下で女子生徒の後ろ姿を見てから様子がおかしくなったことを見抜いていたらしい。

 西尾さんの最後の後ろ姿を見たのは俺だった。そして彼女の後ろ姿を、見知らぬ女子生徒の後ろ姿に重ねて動揺してしまったんだろうな。

 俺は内田さんに手を引かれて、闇に沈んだ三階の渡り廊下を歩いていた。月明かりに照らされる。三階の渡り廊下は吹きさらしで、足元の敷物が風で捲れていて、そこの窪みに少しだけ雨が溜まっていた。

 管理棟に一歩足を踏み込む。空気が一変に強張る。後方からはまだ教室棟の明かりが見えていて、色々な教室から男女の青臭い笑い声が聞こえてきていた。
 
 俺はその声に惹かれて立ち止まり、一瞬だけ振り返ってみた。すると内田さんが俺の名前を呼んで、すぐに手を引いて管理棟に引きずり込んだ。

 こっちの校舎は向こうと比べて温度が五度くらい下がる気がする。陰湿な雰囲気で、廊下の蛍光灯の一番真ん中のあたりが点滅していて、今にも切れてしまいそうだった。
 
 ここは普段、生徒があまり来ない場所だからね、そう言う彼女の左手は柔らかくて冷たかった。彼女の心は暖かく俺に寄り添おうとしてくれてるのに、こんなに彼女の手が冷たいことに俺は納得がいっていなかった。

 管理棟の三階には生物教室があって、俺は一年の時の生物基礎のテストで16点を取った記憶を思い出していた。内田さんは一体、物理と生物を学んで将来何になろうとしてたんだろうな。

「別に。物理と生物が学びたかったからだよ」

 三階から踊り場、四階へと登る。四階に着くと目の前には見慣れた視聴覚室の重そうな扉、もうここに用事は無い。そのまま四階から踊り場、屋上へと登る。

「物理と生物が学びたかったら、学んでいいんだ」

 俺が屋上へと続くドアを開けようとすると、鍵が閉まっていることに気づいた。あの時西尾さんが持ち出した鍵を、今から校内で見つけ出すのは難しいだろう。

 そのとき、危ないよ、という声がして、内田さんが優しく俺を後方に押しやった。そのまま彼女は、どこからか持ってきたショックレスハンマーで、屋上へと続くドアのガラスを勢いよく叩き割った。

 屋上は晩夏の夜の空気で満ちていた。西尾さんの事件以降、屋上の縁には高いフェンスが付けられて、今ではよじ登らないと飛び降りることはできない。

 屋上の緑色の床は雨風でべこべこになっていた。内田さんはハンマーをそこらへんに放って床に大の字になった。疲れているのか彼女の息は荒かったけれど、屋上に横になると、打って変わって笑顔を見せていた。

「星がたくさん見える」

 見上げると、無数の星が夜空に輝いていた。船橋は東京に近い街だけれど、こんなに綺麗に星が見えるんだ。

 俺は寝転がっている内田さんのそばに座り込んだ。上履きの裏に割れたガラスが刺さっていて、痛くはないんだけど歩くたびにじゃりじゃり言っていた。

「西尾さんと、一年生の時に同じクラスだったの」

 俺は内田さんの口からそんな言葉が出てくることに心底驚いた。彼女は、それで結構あの子とは仲が良かったんだ、と続けて、何かを諦めたような乾いた笑顔を貼り付けていた。

 教室移動はいつも一緒にしていたし、体育のペアもいつも二人で組んでいた。休みの日に遊ぶことはなかったけれど、学校帰りにマックに行ったりしていた。くだらない話をできる仲だった。いい友人だった。

 内田さんはそう言って上半身を起き上がり、俺の方に首を傾けて悲しそうに笑った。それはまるであの絵の中の女の子のようだった。いや、確かにそうだった。

 文化祭当日のことは覚えていないんだ。内田さんには会ったような気がするんだが、一緒に模擬店を回った記憶はない。

 彼女とはそのまま話すことなく、高校を卒業してしまった。俺は都内の平凡な私大に進学して、彼女は関西の有名な国立大学に進んでいった。それから今まで一度も会っていない。連絡先も交換してないし、彼女とは二度と会えないんだろうな。

 それで、俺ももう大学を卒業して春からフリーターになったんだ。いや、正確にはお笑いの養成所に通っていてな。やっぱり演劇部の時に舞台上で味わった、人を笑わせるあの気持ちよさが忘れられないんだよ。

 もう少しだけ、自分のわがままを通したいというかさ、自分の面白さを信じてみたいというか、やっぱり気持ちが舞台から離れられないんだよ。舞台ってのは麻薬でさ、舞台に立つ人間っていうのは薬物中毒なんだよな。これは決して比喩なんかじゃないよ。

 これから俺はずっとバイト暮らしかもしれないし、どこかで知らぬ間に野垂れ死んでるかもしれない。内田さんは大学を卒業したのかな、彼女のことだからまだどこかで学び続けているのかもしれない。

 俺が彼女と会うことは二度とないんだろうけど、実は正直、一度だけ、もう一度でいいから彼女に会いたいって、心の中ではすこし思っているんだ。





小林優希

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