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この世界には光と闇がある(含シャニマス『かいぶつのうた』『バイ・スパイラル』の話)

この世界には光と闇がある。

いきなり何をほざいてんだと言われそうだが、実際人はあらゆる物事を光と闇、善と悪、正と誤などの二項対立に照らして捉えながら生きている。

この記事は単なるコミュ考察や感想ではなく普遍的な話題に及ぶものなのだが、私のアカウントは元々シャニマスについて書くために作ったものであるため、分かりやすく主にシャニマスの内容を引き合いに出しながら話をさせてもらうことにする。

イルミネーションスターズ(左から風野灯織、櫻木真乃、八宮めぐる)

シャニマスはシャイニーカラーズという名称の通りなにかと光のモチーフが取り入れられることが多いのだが、その作風やキャラ造形の奥には一貫して暗闇の面に対する視点も含まれている。

たとえばセンターユニットであるイルミネーションスターズのアイドルたちからして、冷静に見ると『普通』の範疇から逸脱した欠点とも言える部分を持っている。

真乃は登場初っ端から公園で鳥とお話してるような独特のマイペースさを持った変わり者だし、灯織は生真面目さのあまり時に対人コミュニケーションに難が出るほど空回りしてしまうし、めぐるは能天気に見えて自身がハーフである故の周囲から見た異物感について内心敏感に自覚している。

幽谷霧子

私の担当アイドル(アイマスシリーズのユーザー界隈では特に思い入れの強いキャラを『担当』と呼称する)の霧子もそうで、傍から理解され難い独特の世界観を持っているし、他者に優しさを持ちたいと願う故に自らの意思だけでは救えない人間がいるという世の中との摩擦に思い悩んでしまうし、現実に生きていたとしたら『生きづらい人』なのは否めないと思う。

イベントコミュの『バイ・スパイラル』は、シャニマスのシナリオの中でも特にそうした人の暗部への肯定を含む色が分かりやすく出ている。

物語では確執を抱えたまま283プロに所属した斑鳩ルカが事務所の他のアイドルと関わり合う様子が主軸となる横で、ゲーム好きの大崎甜花がオンラインゲーム上で知り合った友人Aと交わすやり取りが並行して描かれる。

甜花はぐうたらでゲーム好きという漫画的なダメ人間キャラを付与されているが、自身のアイドル活動で成功を収めているし社会常識をきちんと持ち合わせている

意気投合し初めは和気藹々とゲームに興じていたAと甜花だったが、何らかの事情で社会的に疎外された闇の立場にいるAは会話や行動の端々から次第に甜花が恵まれた光の立場にいると見做し、嫉妬から一方的に遠ざけて関係を断ってしまう。

後悔で自暴自棄になる最中、Aは己の精神的な脆さや痛々しさをも売り物にされているルカの動画を偶然見たことで、負の共感によるカタルシスで救いを得るという筋書きになっている。

『バイ・スパイラル』は精神面での陰に焦点を当てたものであるが、その他にも『YOUR/MY Love letter』や『はこぶものたち』などは所謂モブキャラにあたる一般人を主軸に据えたストーリー構成となっており、社会的な意味で光の当たらない場所にいる人間にもしばしばその視点は向けられている。

シャニマスのシナリオには時にそうした闇の側面を抱えたままでしか生きられない人たちをも肯定しようとするメッセージが多分に含まれているのは明らかなのだが、それがこうして大衆娯楽として受け入れられているという事実は、つまるところ世間の人間の大半は自覚するしないとに関わらず基本闇の側に傾きながら生きているということを意味している。

『バイ・スパイラル』は最終的に光で救われる人も闇で救われる人もどちらもいるから上手く共存していこうという話の方向性に着地するのだが、基本的に描き方の視点は闇の側に寄っている。

本作のキャラの中でも闇の象徴的な立ち位置にいるルカにスポットを当てているせいもあるのだろうが、ただ単に光の側にいる善良な283プロのアイドルたちがルカやAを諭して終わる話では一方的な説教になってしまうため、こういう形の作劇でなければ届くべき人に届かないのだろう。

人はおそらく誰しも人生の中で何らか光にあたる正しい価値観に抑圧されたと感じる経験があり、闇に向かって流れるものの方が圧倒的に共感しやすい。

であれば、自分は呑気に恵まれて生きてる世間の奴らとは違うんだと、お節介で押し付けがましい偽善の光に逆らって生きてやるんだと、内心そう思っている人間の方が本当は圧倒的に世の中の多数派なのではないだろうか。

突然別作品のことに話題を変える。

私はサンリオキャラも結構好きで、中でもデレマスの方の担当アイドルとコラボしていた縁もあってマイメロディが好きなのだが、そのマイメロを主役にした『おねがいマイメロディ』というアニメがある。

シリアスな話題の引き合いに出してしまっているが心が参ってる時でも明るく観られる楽しいアニメです

女の子らしくて可愛くていつもチヤホヤされているマイメロディの横で何かと割を食わされてきた乱暴者のクロミが逆恨み的に闇の魔法で次々騒動を起こして、マイメロとドタバタバトルを繰り広げるギャグアニメとなっている。

物語の中ではクロミがマイメロに恨みを募らせた理由となる出来事があれこれ語られるのだが、例えばクロミが意中の先輩の気を引くためにわざと落としたハンカチを横から勝手に拾って台無しにしたり、クロミがお洒落して付けたつけまつ毛をゴミと見間違えて引っペがしたりと、誇張されてやり過ぎなくらいマイメロは無自覚な善意の加害者として描かれている。

作劇の形としておそらくこれを見た人は持たざる者であるクロミの側により共感するだろうし、大半が判官贔屭的にマイメロよりクロミの方を好きになると思う。

幼児向けのラインギリギリのぶっ飛んだギャグの数々に私自身も散々笑わしてもらった大好きなアニメで、ある種そういうネタ的な邪悪さを持ったキャラとして見てもマイメロは好きだし同じくらいクロミも愛しいと思っているのだが、その一方素朴で平和な可愛らしいキャラとしてのマイメロをずっと昔から応援していた人の中には、あのアニメが嫌いだという人もいるんじゃないかと思う。

アニメのイメージに沿ってマイメロが腹黒ぶりっ子のサイコ野郎として語られるのを見る度真面目に嫌な気分になって悲しんでいる人も、それを表で言ったら厄介な奴だと煙たがられるから口に出さないだけで、この世のどこかしらにはおそらくいる。

この話と少しだけ似通った構造のものがシャニマスの中にもあって、霧子の【奏・奏・綺・羅】だ。

劣等感の強さ故に事務所の他アイドルたちとの間に未だ壁がある七草にちかが、偶然バスに居合わせた霧子と互いを尊重した距離を保ったまま少しずつ歩み寄る話となっている。

イラストでは物語上の立ち位置になぞらえて光の中に霧子を置き闇の中ににちかを置いているが、こちら側の現実での立ち位置は、実際逆なんじゃないかと思うことがある。

個別メインシナリオのWING編において、にちかはプロデューサーからアイドルの才覚に疑問を抱かれるほど徹底して持たざる人物として描かれていて、決勝で過呼吸を起こす様子など、痛々しいまでの過激な描写が目立つ。

そうした負の方向に心を揺さぶる鮮烈さを備えたにちかのシナリオは分かりやすくライトユーザーにも強いインパクトを与え、にちかを応援して幸せにしてあげたいと多くの人に言わしめるものとなっている。

一方霧子はというと、個性的な人物ではあるせよ本人の性格は基本的に角が無く大人しいし、関連するシナリオも一言でテーマを説明しづらい難解なものが多く、どちらかといえば一部の好きな人がとことん好きになるようなマイナー好みの側のキャラなのだと思う。

霧子は自らが才覚や環境に恵まれた側の人間であることにも自覚的で常に他者に対して謙虚に振る舞っているが、むしろそれを逆手に取って二次創作などで大喜利的に本人の性質から大きくかけ離れた悪辣さを付与されてしまうことも多い。

現実における消費活動の場でも明暗が分かれていて、にちかは深い縁のあるタワレコとのコラボで単独の描き下ろし商品が多数販売されるという華々しい待遇を得ている中、霧子は本人の設定にまつわる分野では最大規模といえる献血コラボに際してもユニット単位で既存イラストを流用したノベルティが配布される内容に留まっている(これについてはむしろ年齢制限や投薬による体質的制限などがあってどれだけ望んでも参加できない可能性がある施策に希少価値の高いものを置かなかったのは有情だと私は思っているのだが)。

シャニマスの公式アカウントは話題性を牽引する追加キャラに関する施策などは爆速でリツイートしたり描き下ろしイラストを公開したりして大々的に盛り上げることが多い一方で、対外的な訴求力に乏しい霧子やアンティーカの話題などはしれっと無視してることが昔から結構ある。

企業の方針にはその企業なりの様々な事情があるし、コラボ内容云々は前提となる環境も異なるため、決して霧子の待遇に文句があるという話をしたいのではない。

もっと根深いこの世の構造的な次元の問題として、表面上は恵まれない暗闇の側にあるように見えていたものの方が、物質世界では往々にして知らず知らずのうちに実質的な優位になっているというという話だ。

逆境にめげず健気に奮闘するクロミが支持を集める裏でマイメロの存在は可愛らしさの陰にサイコパス的な要素を備えたキャラとしてのアングラな認知が上書きされ定着してゆくし、シャニマスのコミュは尖っていてなんぼだと声高に語る意見が優勢になって次第に負の感情に訴える過激な売り方こそが正解と見做されるようになってゆく。

それ自体が良いとか悪いとか誰のせいだとかいうわけではなく、様々な事象から導き出される普遍的な傾向として、この世で光が光のまま守られ肯定されることは、闇が闇のままで大衆に受け入れられることよりも実は遥かに難しい。

本来支配的な光に対するカウンターとしての寛容な受け皿となって共感を集めていたはずのものが、いつしか暗いものを賛美することこそ正道であるかのような同調圧力を生み、純粋に光を求めていた側はむしろ異物となって疎外されてゆく。

恵まれない側の視点から切実な立場のものに肩入れしていたはずが、いつの間にか自分がただ集団の価値観に追従し長い物に巻かれる立場になっているという、不可思議な逆転現象が起こる。

居場所の無い少数派のはぐれ者に寄り添い救いを与えていたはずが、いつの間にか多数が少数を排斥する構造へと不可解にすり替わっている。

人間が直面するこうした光と闇の複雑さに関して、昔の作品は深い示唆に富んでいる。

もはや昔を通り越して古典の名作になっているような手塚治虫とか石ノ森章太郎とかああいう時代の作品を見てみると、平成令和に生きている世代の人間には馴染みづらい表現の古さはあるにせよ、驚くほどストーリーが洗練されていて、尚且つその内容は昨今転がっている創作物より遥かに濃い闇といえるような要素に満ちている。

残虐表現が苦手な人には本当にきつい作品かもしれませんが、なにがしか創作を愛好する人なら一度は読んでおくに値すると思います

中でも永井豪の『デビルマン』(羽が生えた青い肌のレスラーみたいのが出てくるアニメの方でも日本映画史上最大級の駄作として引き合いに出される実写の方でもなく大元の原作漫画の方)は、その最たる例だと思う。

物語の大筋は、太古の時代神によって滅ぼされかけた地球の先住生物であるデーモンの一族が封印から目覚め、地上を支配するため人類に宣戦布告するというものだ。

残忍で暴力を至上とし、その醜悪さ故に神に呪われこの世の陰に追いやられたデーモンたちは紛れもなく闇の住人であり、光の中で繁栄を誇る人類への憎悪を募らせ報復を試みる。

人間の心を残したままデーモンに憑依され肉体だけが悪魔になってしまった主人公の不動明は、己の良心に従って人間を助けるために人でも悪魔でもないデビルマンとしてデーモンたちと戦う決意をする。

明の奮戦により地上に侵攻するデーモンの刺客が次々退けられてゆく中、デーモン側は次第により狡猾な手段を取ってゆくようになる。

デーモンたちは明が悪魔に憑依された瞬間の映像を全世界に放映し、不動明こそ悪魔であると、人間の中に悪魔が紛れていると恐怖を煽ることで、人間たちの手によるデビルマンの排除と人類の自滅を画策する。

人と人が疑心暗鬼により互いを悪魔と断じ殺し合う魔女狩りが加速する中で、デーモンである明を匿っていたヒロイン美樹の両親は悪魔狩りの組織に捕えられ拷問を受けて死亡し、美樹や明を慕っていた不良グループの友人たちも暴徒と化した人々に悪魔の手先と見做され次々惨殺されてゆく。

徒党を組んだ暴徒たちが平然と笑いながら美樹の生首を掲げる様を見て人間に絶望した明は彼らを焼き殺し、人類という種そのものに決別してしまう。

明は親友にして実はデーモンの首魁サタンであった飛鳥了から共に悪魔として生きる誘いを受けるも、それを跳ね除けて人間のためではなく己の内なる怒りと信念のためだけに最後までデーモンと戦う道を選ぶ。

長きに渡る死闘の末に明は了との一騎打ちで敗北し、地上は完全にデーモンが支配する闇の世界となる。

ひとり生き残った了は、痛みを知る少数派であったはずの自分たちデーモンがいつしか力で人間を甚振りはぐれ者であるデビルマンたちをも犠牲にする傲慢な圧政者になっていたことに気付き明の亡骸に懺悔するが、既に彼(両性具有なので彼女でもある)の元にはより強大な力を持った上位種である天使の大群が戦争を仕掛けに迫っており、無慈悲な多数派による蹂躙の歴史がこの先も延々と繰り返されてゆく可能性が示唆されたところで物語は幕を下ろす。

この話の中で、光と闇は一体どこにあったのだろうか。

デビルマンとなった不動明は光の側にいる多数の人類から見れば紛れもなく悪魔の一員でしかなかったし、明自身も最後には人間を見限って殺してしまうのだから、決して光に属していた存在だとはいえない。それでも彼は最後までデーモンたちの邪悪な価値観に染まることを良しとはしなかったし、闇の住人だというわけでもなかった。

不動明の味方であった美樹や不良仲間や美樹の両親たちも、決して世間の多数派が掲げる法や正しさの光に従って明を助けていたわけではない。されど多勢に囲まれ凄惨な形で命を奪われることになっても、それでも闇とされるものには最期まで抗っていた。

彼らは単純な社会通念上の常識や多数の公益に適うものとしての意味での光とは異なる、言うなれば自分だけの光を追うことでしか生きられなかった人間なのだと思う。

よくオタク界隈の不文律として、一次二次問わず創作とは作者自身の暗部をも含んだ性癖を自由に発露し投影するためのものだと言われることがあるが、私はその考え方があまり好きじゃない。

私は幼い頃から著しく遵法意識を欠いていて、恋愛親愛問わず自分が深く愛した相手のためなら自分の命を捨てることにも他人の命を奪う行動を取ることにも、心理的には一切抵抗が無い。それは間違いなく一般的な価値観から見たら異常である。

そんな人間でも日々同好の仲間に囲まれながら好きなキャラや作品の魅力を語り呑気に推し活に興じて楽しく暮らしていられるのだから、紛れもなく私自身も寛容の論理に許されながら生きている人間だという自覚が大いにある。

その上で、私はもし仮に幽谷霧子からあなたの後ろ暗い部分も何もかも全て許して受け入れあなたを愛しますと言われたとしても、そんなもの許さなくていいからあなたは人の平凡な優しさに囲まれて、穏やかでありふれた幸せな時間の中で、ずっと明るい光の中に生きていてくれと思うだろう。

世の常から外れた人間を掬い上げる創作の世界までもが人の闇の側面を際限無く肯定するという形で少数派に見せかけた多数派の自尊心を満たす麻薬に留まるものでしかないとするのなら、それでもその先にある光を求めることでしか生きられない更なる少数の側にいる人間たちは、一体どこに救いを求めたらいいのだろう。

先に挙げたデビルマンに関して、当時の創作表現に対する世間の風当たりや制作環境については断片的な情報の聞きかじりでしかないが、作者が過去の作品の表現に対し人格否定を伴う強烈なバッシングに晒された経験などから、画一的な正しさを押し付ける世間への抵抗としてより過激な表現に挑戦していた側面もあったという。

だからといって、デビルマンは単に作者が自身や同好の士の後ろ暗い性癖を公に晒して満たすためにヒロインが暴徒に襲われ生首にされるような場面を盛り込んだ作品だったと、この世の平凡で明るい場所にある価値観に否を突き付けるために主人公が敗北し絶望に終わる陰惨な展開を描いたものだったと、そう片付けてしまって良いのだろうか。

無条件の暗部の肯定という論理は万人を受け入れる究極の寛容であるかのように見えるが、そこに立ち止まり甘んじることが牧歌的な少女趣味の象徴としてのマイメロディを愛する故に傷付いた経験のある誰かの心を置き去りにしてゆくことをも意味するのなら、分け隔てない優しさを持った幽谷霧子の人格を自らに都合の良い許しの方便として消費する行為に痛みを感じなくなることをも意味するのなら、たとえ断頭台に掛けられ身を焼かれて塵の一片になったとしても、私はどうしても首を縦に振ることが出来ない。

非常に大袈裟な論理の飛躍かもしれないが、それは身を挺して不動明を庇っていた美樹らの中にあった小さな光をも蔑んで惨殺した民衆や、無自覚な暴虐者と化して自身の想い人でもあった明さえ死に至らしめた飛鳥了の立場に知らず知らず自分も立つことと、究極的にはどこかで繋がるように思えてしまう。

シャニマスの中に『かいぶつのうた』というコミュがある。

コミュ内ではアンティーカの面々がお菓子ブランドとのタイアップでハロウィンライブや特別番組などの様々な企画に挑戦することになるのだが、その過程でイベントマネージャーの雨竜と舞台監督の御子柴という人物らに出会う。

雨竜は常に礼儀正しく卒の無い仕事でアンティーカとプロデューサーを陰からサポートし、業界で『怪物』と称される大物の御子柴は突然街中で被り物をしたまま奇声を上げるなどのエキセントリックな行動でしばしば周囲を振り回しつつも、イベント自体は無事大盛況に終わる。

常道にあるものを光としそこから外れたものを闇と喩えるなら、奇矯な感性を曝け出し怪物呼ばわりされ周りから浮いている奇人変人の御子柴は闇で、良識を備えた理知的な社会人として振る舞っている雨竜は光の側になるのだろうが、実態はその逆だったということが最後に明かされる。

雨竜の人生や人物背景について直接語られることはないが、彼女は何かしらの信条の下、非凡な性質を持ちつつも自らの意志で表面上はありふれた人間の側に身を置いて生きる道を選んでいる。

作中では、企画の一環でアンティーカの面々がおおよそ人狼ゲームに則った『怪物探し』というゲームを行う様子も描かれる。

通常の人狼とは異なるルールとして『想い人』なる役職が設定されており、物語上で独特の意味を為す。ゲームの終盤、最終的に霧子・結華・咲耶の三人が残り、最後の選択で霧子が追放される結果となる。

本当のところ誰がどの役職であったのか具体的に明かされる場面は省略されているため読者にも想像の余地が与えられているのだが、上記の発言を額面通り捉えれば勝ち残った怪物の結華は自分を守ってくれている想い人であった霧子を最後の最後でそうとは知らず追放してしまったということになり、その辺りの含意も非常に象徴的である。

この話は結局のところ誰もが裏側は等しく怪物なんだというふうにも捉えられるし、雨竜のような光にも闇にも属せぬ人間こそが実は遥かに救い難い本物の怪物なのだという結論だったも取れる。雨竜は決して常道の光に従って生きている人間ではないのだろうが、闇を闇のまま肯定する論理で救われる人間の中には、おそらく入っていない。

『クリエイターなんてのはイカれててなんぼだよ』『つまんねえ仮面を被るのはやめちまえ』と光に阿る意思を捨てて無節操な闇の自由に迎合する道を示されたとしても、それだけでは納得出来ない彼女なりの何かがあるから、雨竜は一人であんな生き方を続けているのだろう。

人がいくら闇から目を逸らし表面的な光だけを追ったところで、この世から戦争や差別や貧困は無くならないし、政治や権力は腐敗するし、初恋は大抵実らないし、友情はいずれ途切れるし、推しキャラを性的消費して露悪的な二次創作で笑う人はいなくならないし、何を為そうが何を信じようが人は皆等しくいつか死ぬ。

自らもまたある時は誰かの加害者たり得ることを自覚しながらも、それでも『それだけではない』ものがあると、己が信じる光を求め続けることでしか生きられない人間に道を示すのは、時にどん底の暗闇にいる人間を救うよりずっと難しいことなのかもしれない。

物事は『それだけではない』という所まで含め描かれている部分があるからこそ、私はシャニマスが好きなのかもしれない。少なくとも物語作りの領域においては通俗的な評価以上に深く真摯に様々な人間へ目を向けようとしているのだと思う。

一元的な光も闇も良しとせず、何処にも属せぬような人間に果たして居場所はあるのだろうか。その問いにもし答えがあるとしたら、居場所というのは最終的に誰もが自ら主体となって作ってゆくしかないものなのだろうと、そう考えている。

私は日頃こうして文章を公開しているが、常に不特定多数の人間の目に触れることを念頭に置いた表現をしつつも、その実気持ちとしてはいつも『たった一人』のために書いているつもりでいる。

その『たった一人』は推し活のスタンスやキャラ解釈が一致するどこかの誰かか、普段何らかの交流がある身内と呼べる誰かか、何かの機会に反響を目にする可能性がある制作者の誰かか、あるいは画面の向こうの幽谷霧子なのか分からないが、とにかく漠然とした誰か一人だ。その一人は本当にこの世のどこかにいるのかもしれないし、本当はどこにもいないのかもしれない。 

それは耳触りの良い言葉をなぞっただけのお仕着せの光でもなく、無遠慮に光を呑み込むだけの放逸な闇でもなく、他ならぬたった一人だけに向けて対等に血を流しながら紡がれた答えでなければ本当の意味で人の救いにはならないと、私自身がよく知っているからだ。

個々の主張自体への賛否に関わらず、少なくとも一人ここにこうして独力で何かを探し何かを伝えようとしながら生きている人間がいると示すこと自体が、時には誰かにとって道を見付ける手助けになることもあるのかもしれないと、心の片隅で思っている。

この論理自体も、ある意味では『バイ・スパイラル』でAが身を削って生きるルカの姿に救いを見出す構造と同じだとも言えるのかもしれない。光か闇いずれか二択のラベリングが不可能なほど実情は複雑にこんがらがっているが。

光と闇とは視点によって移ろう流動的なものでしかなく、この世に絶対的な二極があって人は常にそのどちらかに属しているという見方そのものが、そもそも盛大な誤謬なのだろう。

それでもあえて矮小化された二元論を採って語るとするなら、この世界は決して弱者の痛みを知らぬ偽善的な光が醜い闇を高慢に虐げ消し去ろうとする様を常態としているのではなく、実質的な多数を占めているのはきっと行き場の無い一人の人間が最後に縋る小さな光を平然と嘲笑い踏み躙ってゆく闇の方である。

人が画一的な既成の光に属することも闇を肯定する論理の下に安住することも出来ないのなら、この世の外れの更に外れた場所にあるたった一人のためにしかならないものこそを、己だけが見出した一点の光としながら生きてゆくしかないのかもしれない。

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