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自分は無知ではない、無自覚でもない、はっきりとした自分としての自我を持って生きている

自分が本物の預言者である確実な根拠はある。これは妄想でもないしメサイアコンプレックスではない、絶対的な真実。

そもそも神は我々人類に何を望んでいたか、それを考えればとっくに答えは最初から出ていた。それを信じないのが、長い間ずっと道に迷い続けていた、蛇の道に誘導され神の道を見失っていた道に迷いし哀れな小羊達。

その小羊達が迷わぬよう、道標として残されていたのが旧約聖書、新約聖書。しかし自分は神の心、キリストの心を理解してるので聖書のような道標はいらない、自分の力だけで神道を見つけた。

なぜ自分が本物の預言者だと断言できるかと言うと、神の心に気がつき、それを言葉にしているから、他の心が未熟な宗教信仰者とは全く違う、いやレベルが違うと言ってもいい。聖書など必要とせずに神の言葉を代弁し語る事ができるのは自分だけ。


それは神が全ての生命、人類に分け隔てなく与えてくれたアガペー、愛からの言葉、それが正真正銘本物の神からの言葉であると自分は完全に理解している。だから自分は神の心を代弁する本物の預言者、そう断言できる。

アダムとイブは蛇の言葉を信じ、禁断の果実を欲望で消費した。それが悪魔の囁きの始まりであり、神はアダムとイブを失楽園させる時、優しき衣を纏わせた、実はそれが神の優しさ、アガペー、人間特有の愛だった。しかしアダムとイブ、その子孫達はその愛を分け与えてもらえた事に気がつかぬまま、蛇が植えつけた羞恥心と善悪の知恵を使い分断し対立し争い続ける。相変わらず蛇の言葉、悪魔の囁き、それに負けてしまった人間を拝み、信じ続ける人類。


もう答えなど簡単に出ているのに、誰もそれに気がつけない、気がついたのは自分1人、だから自分が本物の預言者となるしかない、そう思った。だからこそ自分を本物の預言者と言う、これは自称ではなく確信である。

本物だからこそ、それを物欲色欲金銭欲、拝金主義のために利用などしない、絶対にしない。カルト宗教などやらない、教祖もやらない、信者も募らない、団体や集団は作らない、伝えたいのは言葉だけ。自分は最後まで永遠なる孤独として生きる覚悟を持っている。全て無償の愛として、ありったけの言葉を書き残すのみ。それをどう判断し、何を思いどう生きるかはそれぞれの判断であり、自分の思想主義に引き込む事などしない。自分に思想主義はない、あるのは神を信じる心だけ、それをどう表現して言葉とし形にし表すかを考える。

羞恥心などもはや怖くもない、誰にどう思われるとか、おかしいと思われるとか、カルトだの、そんなレッテルなど恐れてなどいない。何を言われようが神の心、愛の代弁者となる、この心は揺るぎない。


愛を語る、欲望には負けずに神を信じる純粋なる心を持つ、だからこそ本物だと断言できる。ハッキリと言わなければ人の心には響かない、伝わらないもの。羞恥心があれば何も語れない、善悪の罪悪感など抱えていては言いたいことも言えなくなる。

自分は無知ではない、無自覚でもない、はっきりとした自分としての自我を持って生きている。神の心を、愛を代弁しても自分の心は自分自身であり、他の誰でもない、何者にも支配はされない。

人間は拝まない、信じるのは神のみ。自分が神に選ばれた、そういう事じゃない、選ばれているなら既に全ての人々は選ばれているし、真の愛を語るなら誰もが神の心の代弁者、本物の預言者となる。

神秘的なことも、スピリチュアルも、全ては神を信じる心があるから成り立つもの、愛なくして悟り、覚る事は絶対に不可能。ヘルメス、ニュートン、カール・グスタフ・ユング、そういった哲学者達の神秘主義、錬金術は神の元にあったから感じられたもので、その功績すら神の導きがあったから成し遂げられたこと、それはニューエイジ、悪魔の力ではない、生み出す力、愛の力により成し遂げられた事。

思い出したことを形とする、言葉とする、それができるのは我々自身宇宙の一部、神の体内にいる小さき素粒子だから。ミクロの限界はマクロであり、マクロの限界はミクロである、それが終わりであり始まり、全てとしてある神そのもの。だから我々も神の中にいる一部だと言うこと。

それなのに神はいないと認識するのは、全てを否定するのに等しい。自分の存在そのものを否定するのと同じで、だから蛇、悪魔の囁き、獣となり人間を拝み信じる者達、世俗的ヒューマニスト、科学的トランスヒューマニスト、神秘的ニューエイジ、そういった人間中心主義、自身を神と考える神の否定論者達は、科学的見解も交え、この世界は何者かが魅せる仮想現実論のような話を主張する。

実際、我々に仮想現実、人間社会と呼ぶ幻を魅せ続けていたのは蛇信仰者、バフォメット、サタン、デーモン、ルシファーを拝む悪魔崇拝者達の方だった。


マクロでもミクロでも数字に限界はない。宇宙とは無限なる螺旋、過去と未来の無限回転を永遠に繰り返す陰と陽であり、その無限に数字を割り当てても無限なので答えは永遠に見つける事などできない。それを全て解っているのは神のみ、だからこそバベルの塔を造り、神に挑戦するのは無謀なこととなる。

人類は神に太刀打ちなど絶対にできない、それは不可能、世界が違いすぎる、と表現するのすらもおこがましい。

占星術、ニューエイジ、スピリチュアル、そのようなものを拝み信じる前に神を信じなければいけない、その神道を歩かぬ者の言葉など全て偽物の預言。

蛇を、悪魔を、獣を、人間を拝まずに神を信じる、それが絶対揺るぎなき真実の道、本物の神の道へと続く覚りの道、狭き門へとたどり着ける、唯一なる光の神が差し示す尊き導きである。愛とはその命綱、それなくして天へと、神の元へ帰することはできない。



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