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追憶の海 後編

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「ここ、ですか?」

 アイラが思わずそう言ったのも頷ける。二人はひどく悪趣味な屋敷の前に立っていた。デッドエンドは奥に行けばいくほど、荒んでいくというのにこの屋敷(というのが正しいなら)だけは法則から外れ、ひどく異質な存在としてそこにあった。
 2mは超える金色に輝くのロダンの考える人の像が二体、門の両端に鎮座している。以前ケイが来たときはこの像はなかったはずだ。門は鉄でできた豪奢なゴシック様式。この趣味の悪さがわかるだろうか? 合っていそうで全く合っていない不統一感。外見だけでこれなのだから中に入る者はさらに覚悟を決めなければならない。

「斬新なセンスを持った方ですね」
「センスの悪さは誰もが認めているところだから気にすんな」
「ここに知恵を貸してくれる方がいるんですね?」
「ああ。偏屈な奴だが何かを知ってるとしたらあいつくらいだ。任せとけ」

 期待に満ち溢れた目で問われ、泥舟も大船に見せなきゃいけなくなってしまった。勿論何かを知っているとしたらここの主しかいないと思っているが、もしここで何も情報が得られなければ正直お手上げだ。
 これは一種の賭けなのだ。しかしコインが表か裏なのかは賭けに乗ってゲームを始めなければわからない。ケイは門に向かって声を張り上げた。

「マダム・ストレンジ! どうせそこで話を聞いてるんだろ! 門を開けてくれ!」

 ケイは門の格子を掴みがちゃがちゃと揺らした。盗み聞きが大好きなあいつなら絶対聞いてるはずなのだ。

「マダム・ストレンジ! 開けろ!!」

 痺れを切らしたケイの語気が荒くなるのと、脇から轟音が聞こえるのは同時だった。

「ケイさん!!」
「……ん?」

 アイラの叫びにケイは間抜けな声を出して左ななめ上を見た。
 門の脇には金色に輝く考える人の像があったはずだった。しかし今やその像は考えるポーズをやめ仁王立ちしていた。異様な光景だ。さらに驚いたことに像は口を開いた。

『誰が《奇妙な婦人》だって? 相変わらず失礼なガキだね! 私の名前はマダム・ストレンジだよ!』
「やあ、マダム・レストレンジ。素敵な門衛だね。見たところ最新のAIを入れたアンドロイドみたいだけど?」

 両手を広げて褒め称えたがあまり効果はなかったようだ。レストレンジは鼻で笑い、その動作が器用に像に反映された。とんでもない技術だ。

『白々しい。今頃おべっかを使っても無駄だよ。お前が言っていたように会話は全部筒抜けなんだ』
「そう言わずに。あんただけが頼りなんだよ。俺の依頼人を助けてやってほしい」
『……依頼人?』
「ああ。俺はこいつの依頼を受けた」

 ケイはアイラの肩を引き寄せた。

「レストレンジさま。アイラ・シュトラ・エア・ニルヴァーナと申します。どうか。どうかお力をお貸しください!」

 両手を組みアイラは懇願する。

『……』

 沈黙が場に降りた。像はアイラを凝視している。アイラも瞬きひとつせず像を見返している。

『しょうがないね。話を聞いてやろうじゃないか。入っておいで』

 ケイは心の中で喝采をあげた。レストレンジがどういう心変わりをしたのかわからないが一つ関門を越えたのは確かだ。

 錠が外れる音がして門が二人を迎え入れるために奥に開いていく。
 門の先には大理石の石畳がまっすぐと伸びており庭園には青々と木々が生い茂っている。まるで異国のような景色はデッドエンドにはあり得ない光景だが、それをこの場所に存在させるだけの力がこの屋敷の主にあることを物語っていた。

「絶対、俺の傍を離れるなよ。ストレンジは用心深いからな。そこら中、トラップだらけで下手すりゃ一瞬でお陀仏だ」
「わかりました。決して離れません。ところでマダムとケイさんは長いお付き合いなのですか?」

 いつからの付き合いだったか、と考えて連鎖的に出会ったときのことを思い出し、後悔した。

「初めて会ったのは四年前かな。別に親しいわけじゃない。予め言っておくけどあいつはここの統治者だ」
「デッドエンドの、ですか?」
「そ。巷じゃ『デッドエンドの強欲で絢爛なる統治者』って揶揄されてるけどな。色々と裏であくどい事をやりながらこの街をここまで形作った。恨み辛みもかなり買ってるが、尊敬してるやつもそれなりにいるよ」
「じゃあケイさんはマダムのことを尊敬しているんですか?」

 ケイは口ごもった。かわいい顔してなかなか鋭い質問をしてくる。
 白い大理石に陽光が柔らかく反射する。

「そんなことはどうでもいい。あいつはここ一番の情報通だ。俺が望むものを持っているなら利用させてもらうだけだし、あいつもその点は同じだろうからな。お互い様だ」

 緑の回廊を抜けると白亜の宮殿が建っていた。地球の東欧の建造物であるモスクを模したものだという。財と贅を尽くした

「ここにマダム・レストレンジが?」
「ああ。二人しか住んでいないのにこんなでかい屋敷を造るんだから気がしれないよな」

 両手で押すと扉はいとも簡単に開いた。扉の先はホールになっており、淡い光で満たされている。四方の巨大なステンドグラスから光が差し込み、極彩色の光の塊が床に映り込んでいる。ケイの後に続いたアイラがわぁと感嘆の声を上げるのが聞こえた。この光景は何度来ても圧巻だ。夜にこの屋敷を訪れると天井に宇宙の星々が浮かび上がるのだ。
 ホールの中央に一人の男が立っている。光に包まれて、さながらスポットライトをあびた舞台役者だ。男はケイが軽く手を挙げると歩き始めた。コツ、コツと靴音が響き反響する。礼拝堂であったモスクを忠実に象っただけあって音は建物いっぱいに響き渡る。

「ようこそおいでくださいました」

 男は俺たちの前で立ち止まると片手を胸に当て腰を折った。

「久しぶり」

 ケイが声をかけると、ツェップスは顔を上げて口唇を持ち上げた。

「ええ、本当に。風のうわさで就職先が決まったと聞きましたよ。おめでとうございます」
「相変わらずだな。わざわざ一介の学生の就職事情にまで通じてるとはさすがだわ」
「私はアルバイトを本業にするのかと思っていたのですが……。どうやら思い違いだったようですね」

 彼がいうアルバイトは勿論BARでのアルバイトではない。シークの方だ。ケイは苦笑した。

「あれで一生食っていく気はもとからなかったよ」
「そうなんですか? 結構な腕前じゃないですか」

 この男に褒められると満更でもない気分になるから困る。自分が一番結構な腕前の癖にどの口が言うんだ、とも思うが男のやんわりとした雰囲気にそんな気持ちも霧散してしまう。

「ま、今日はそっちの関連でここに来たんだ。マダムに頼みたいことがあってね」

 ツェップスは返事の代わりに頷くと、首を傾けてケイの背後に視線を向けた。

「アイラ・シュトラ・エア・ニルヴァーナと、申します。あの、あなたは……?」
「私はこの屋敷の取り纏めをしております執事のツェップスと申します。」

 ツェップスが目を細めて微笑んだ。この甘いマスクが数多の女の人生を崩落させてきたのだ。同じ男のケイでもツェップスの柔らかな物腰にはドキリとさせられることがあるくらいだから、女がこの男のすべてを手に入れたいと思うのは当然のことなのかもしれない。そんな男がどうしてレストレンジの傍についているのかは未だに解明できない謎だ。

「マダムは?」
「上でお待ちになっていますよ。主人を待たせてもいけませんし、向いましょうか」
「頼む」
「かしこまりました。では、お手を」

 左手を差し伸べられてケイはツェップスの手を無造作に握る。男の手を握る経験なんてこの年じゃ滅多にない上に、経験したいともあまり思わないがここにくるとそうも言ってられない。

「お嬢さんも、どうぞ」

 ツェップスが伸ばした右手をアイラは戸惑ったように眺めている。

「空間転移のコード所持者がツェップスになってるんだよ。こいつを経由していかないとマダムのところに行けないんだ」

 ケイが説明すると、アイラは納得したようだ。神妙な面持ちでツェップスの手を取った。普通の女ならよくわからなくてもひょいひょい手を伸ばすのにやっぱりアイラは変わっている。

「手を離さないように気をつけてくださいね」

 ツェップスの忠告にケイとアイラは頷く。

「では、行きます」

 青白い燐光がツェップスを中心に広がり、二人を包み込んだ。空間転移の際に発生する燐光の色彩は様々で何に由来するのかはわかっていない。地質に含まれる鉱石が原因だとも、転移する瞬間の磁場の歪みが人の目にも見えるものだともいう。ちなみに後者は人類にとって有限な空間をすり減らす背徳すべき行為であるというのが反政府組織の主張だ。視界が青色のベールに包まれる。体が宙に浮く感覚、無重力状態で内臓がひっくり返る気持ち悪さが体を覆う。だがそれは一瞬のことだ。空間転移の時間は距離にもよるが年々短縮されている。マダムの場所へ行くにはそれこそ目を瞬くより早いかもしれない。

 地面に足がつく感覚にほっと一息つく。無事に転移できたようだ。暖炉で薪が爆ぜる音がする。

「遅い! あたしを待たせるたァ、クソガキがいいご身分になったもんだねェ」

 飛んでくる罵詈雑言は相変わらずだ。隣でアイラが目を丸くしている。

 《盗城者》《夜の闇》《成り下がりの女王》
 二つ名は様々だ。

「いつまであたしを見下ろしてるのさ。早く座りな」

 向かいにあるソファを顎で指し示す。
 傲岸不遜、尊大無比な夜の女王。マダム・レストレンジ。彼女こそがデッド・エンドの統治者だ。

「さて。お前があそこまで啖呵を切ったんだ。さぞ良い仕事なんだろうね」

 紅を引いた唇がゆるりと弧を描いた。アイラを上から下まで舐めるように眺める。ふいに彼女の双眸が細くなったのをケイは見逃さなかった。
 アイラはツェップスに頼んで持ってきてもらった水を飲んでいる。暢気なものだ。ケイも喉の渇きを覚えて紅茶を口に含んだ。甘い。できる執事はしっかりとケイの好みを覚えていてくれたようだ。

「良い仕事かはわからない。けどこのお嬢さんは金に糸目はかけないって言ってる」
「ほう?」
「でも正直俺だけじゃどうにもならない案件でね」
「お前がそこまで言い切るのも珍しい。しばらく仕事してないから腕が鈍ったんじゃないか?」

 意地悪く笑われ、ケイは閉口した。最近彼女から回された仕事をことごとく断っているのを根に持っているらしい。

「『海』を探してる」
「は?」
「海を探してるんだ」
「海、だって?」
「そ、海」
「……まーた、けったいな客を掴んだもんだね」

 レストレンジは目を瞠いて驚きを顕わにしたが大体の事情を把握したようだった。

「この惑星の海じゃ満足できないってのかい。ヴァーチャルにはダイブさせてみたのかい?」
「してない。あんなレプリカじゃなくてホンモノを探してるんだ。時間があれば火星あたりに飛べるけど、あいにく三日っていう期限付きだ。とてもとても」
「ははっ、労力だけかかって馬鹿みたいな依頼だね。お前らしくもない、このお嬢さんのかわいい顔に絆されたのか?」

 本人の前でなんてことを言うんだ。ケイは「そんなんじゃない」と言葉を返した。
 レストレンジが左手で髪をかき上げた。香の匂いが広がる。

「……海ねぇ。あたしにはどうにもならないねえ。悪いけど他を当たっておくれよ」

 煙管の煙をくゆらせて顔を背け、もうこちらを向こうともしない。
 ケイはこっそりとため息をついた。この女の気まぐれは筋金入りだ。

「どうかお願いします。どうしても海を見なければならないのです。どうにかして海を見れる方法を知りませんか」

 今まで黙っていたアイラが口を開く。

「くどいよ。そもそも何で期限を三日にする必要があるんだい? こいつが言っていたように期限さえなければ火星でも近くの海がある惑星に飛べる」
「……」
「だんまりかい。ま、元々依頼人に事情を聞くってのは筋じゃないからかまわないけどね。さっきも言ったようにこの惑星は創星の時に作った擬似的な海しかない。どうにもならないんだよ」

 アイラは悄然と肩を落としたが、ケイは腑に落ちないでいた。
 門でのやり取りを思い出す。あの時マダムは明らかにアイラを見て、態度を変えた。先ほどもアイラのことをつぶさに観察していた。それなのに話を聞き終わった途端、露骨に突き放した。情に絆されるような人間ではない。何か、理由があるのだ。
 これだけはしたくなかったんだが仕方ない。背中に手を回す。
 欲しいものは奪い取れ。
 デッドエンドの常識に乗っ取らせていただこう。
 ケイは銃を突きつけた。
 レストレンジの背けられていた顔がケイを向き──、

「──っ」

 ケイは息を飲んだ。

「ケイさん!」

 アイラが叫ぶ。
 頸筋に冷たい感触。何かを頸に押しつけられている。
 誰が?
 何を言っているんだ。そんなの確認するまでもない。
 ツェップス。

「──誰に何を向けているかわかっているんだろうね」

 レストレンジの声が冷え冷えと響いた。

 富と権力。デッドエンドの長はすべてを持っている。力とは時に暴力ともなる。そして彼女は己の絶対の剣となり盾となる右腕がいた。
 この化け物め。ケイは胸中で毒づくが、グリップを握る手にはじわりと汗が浮かぶ。
 ツェップスはケイが引き鉄を引き終わる前に、ケイの喉を裂き瞬時に絶命させるだろう。一瞬でも気を緩めたら待ち受けているのは、死だ。レストレンジの眉間へ焦点を当てたまま、決して引き鉄から手を離さない。

「デッドエンドの統治者ともあろうものが本当に知らないのか?」
「あたしの言葉を疑うのかい。知らないものを知らないと言っただけなのに銃で脅されなきゃいけないなんて。おお、こわい」

 くつくつ、と小さく嗤う。腕が伸ばされテーブルの銀杯に盛ってあった林檎を掴んだ。小さな唇が林檎を囓り、トパーズ色の瞳がケイを見上げた。湛えられているのは紛れもない好奇の色だ。ケイが次にどういう手に出るのか待ちわびている。悪趣味な女め。
 ケイはにやりと笑った。勿論強がりだ。だが、こういうときこそふてぶてしく笑うもんだと教わった。

「悪いな、育ちがよくないもんで。それに嘘はよくないと思うぜ。アンタはアイラに何かを期待していたはずだ。すんなりと屋敷に通したことからもそれがわかる。だが急に態度を翻した。一体何が興味を無くさせたのか――期限は三日、これを聞いてから途端に興味を無くした」

 形の良い眉が持ち上がる。レストレンジが小さく唇を動かした。どうやら「クソガキ」と言ったようだ。ふざけんなクソババア。
 レストレンジは囓りかけの林檎を脇に置くと気怠げに上半身を起こし煙管を咥える。

「ツェップス、放してやれ。お前もそんな物騒なもん早くしまいな」

 首を圧迫する感覚が消える。ケイは長い息を吐いて拳銃を下ろした。
 なんとか屋敷から放り出されずにはすみそうだ。

「痛むところはありませんか? 加減をしたので血は流れていないと思うのですが」

 背後のツェップスから声をかけられ、ケイは頸筋に触れる。途端に血の気が引く。正確に静脈を狙っていた。この男だけは敵に回したくない。

「問題ないよ」

 振り向いて答えれば、ツェップスが安堵した表情をした。彼の手に目を向けると封筒を開けるためのペーパーナイフが握られていた。ツェップスの手にかかるとどんな物でも武器になるに違いない。

「アイラと言ったね、海を見てどうするつもりなんだい?」

 珍しいことがあるものだとケイは驚いた。彼女が依頼のその後を気にかけることなど今までなかったことだ。

「どういう意味、ですか?」

 カ、ンッと煙管の灰を落とす。

「意味は自分自身が一番よく知っているはずだよ」
「わたくしには果たさねばならない約束があります。それだけです」
「そのために己の犠牲を厭わないと?」

 アイラの顔から感情が消え失せた。レストレンジの顔を凝視する。

「答えられないのか。金を持っているかも怪しいもんだね」
「お金ならあります」
「……まあいい。この惑星にお前が探す海はない。それは紛れもない事実だ。だが一つだけ可能性がある」
「ヴァーチャルで見せるってのはなしだぞ」
「最後まで話を聞きなよ。ツェップス、地図を持って来ておくれ」

 ツェップスはすぐに丸められた地図を手に戻って来た。テーブルいっぱいに広げられた地図を三人でのぞき込む。大陸を詳細に書いた地図のようだ。地図の中心に書かれているのが中央都市《ウルブス》だ。
 この惑星には巨大な湖がいくつもある。湖と湖がつながり海のごとく巨大なものあるがどれも真水で厳密に海とはいえないもの。

「ここだ。ニーザリングの北西の森。この森に大きなクレーターがあって中央に一本の楡の木が立っているという」
「はあ」

 ケイは指し示された場所を眺めてため息ともつかない返事をした。ここから北東に軽く千㎞はある。バイクを飛ばしても数日はかかる距離だ。

「──ある旅人は言った。木の根元で休んでいたら亡き妻が現れ、想い出を語り合ったと。ある兵士は言った。戦場から命からがら森に逃げ込んだら楡の木で死んだはずの上官と出会った、と」
 レストレンジが諳んじた内容にケイは怪訝な顔をする。
「幻覚でも見ただけじゃねえのか。薬でもキめてたとか」
「噂を聞きつけ都市から研究者がやってきた。麓の村の住民の力を借り、ありとあらゆる実験を繰り返したそうだ。そして彼らがたどり着いた結論は新月の夜、楡の木に触れると物質の記憶が具現化するいうことだ」
「なんっだそりゃ」
「人の記憶に反応するものだと思われていたのだが、どうやら物の記憶にまで反応するらしい。なんでも地球から持ってきた本の記憶が反応したとか」
「つまりなんだ。海の記憶がはいっているものをもって行けば海が現れるっていうことか? 信じられねえなあ」
「だから可能性の一つだと言ってるじゃないか。けど、今その森は政府が管理してる保護区に指定されているんだ。賭けてみる価値はあると思うけどね」
「それって政府がその現象を認めてるっていうことですよね?」
「そういうことになるだろう」
「じゃあそこに行けば海が」
「ちょっと待て」

 沸き立つアイラには悪いが問題は山積みだ。無論、保護区に指定されていたら信憑性はある。しかし。

「そんな場所どうやって入れっていうんだよ」

 フェンスに囲われ高度のセキュリティが組まれているはずだ。一般人が易々と入れる場所ではない。

「保護区内の転移装置のコードなら持ってるよ」
「──マジかよ」

 さらりと答えが返ってきてケイはあんぐりと口を開けた。

「ま、裏ルートで仕入れたから正規のもではないけどね。海の記憶もある。ツェップス」
「お持ちしてあります」

 ツェップスが黒い布に乗せて差し出したのは手のひらにのる程の大きさの白濁色の球だ。

「随分と大きいですが…真珠、でしょうか?」

 つかみあげて眺めているとアイラがのぞき込んできたので、彼女の近くに下ろしてやる。

「燕珠(えんじゅ)と呼ばれるものだ。かつて地球で燕が海の底へ滑空した際に拾ってくるという」
「ふぅん。これに海の記憶がね……、そもそも記憶ってなんだよ」
「そいつを耳に当ててみな」
「こうか?」

 燕珠を耳に当てる。特に何が起こるというわけでもない。

「何かあるのか? ……っ」

 頭を貫くような轟音が響き渡り、思わず手を離した。落ちそうになった燕珠をアイラが慌ててキャッチする。

「なっ」

 んだ今のは!

「くくく、驚いたろ。嵐の日の様子が刻み込まれているらしい」

 恐る恐るもう一度耳に当てる。轟々と風がうなり、荒れ狂う波の音が聞こえる。

「これが記憶、ってわけか」
「長い時を経れば物にも記憶が宿るという。我らの母なる地から長い時を経ている物なら記憶が宿っていてもおかしくない」
「なるほどね、納得。じゃあ遠慮なく」

 コートのポケットにしまおうとしたら、レストレンジに素早く奪い去られてしまう。
 チッ。小さく舌打ちする。

「金なら払うよ」
「金も大事だけどね。それ以外に一つ条件がある」

 条件?
 ケイとアイラは顔を見合わせる。レストレンジはアイラに煙管を向けた。

「あんた、海を見たら私のものになる覚悟はあるかい?」

 隣のアイラを見ると固まっていることからどうやらケイの聞き間違いではなかったらしい。

「は!? おい、いつからそういう趣味になったんだ!?」

 思わずケイが立ち上がると、眉間に衝撃が走った。レストレンジが林檎の芯を飛ばしたのだ。

「失礼なガキだね。あたしをなんだと思っているんだい」

 あまりの痛みにケイは額を押さえて蹲る。

「あの。でもそれはどういう……?」
「そのままの意味だよ。話を聞く限り天涯孤独な身の上なんだろう? 悪いようにはしない」

 ケイは意外に思いレストレンジを見た。強欲と呼ばれる彼女がこんな申し出をした理由は何だろうか。己に利がないと動かない彼女だからアイラによほどの価値を見出したらしい。アイラは長い間沈黙していた。

「そのお約束をすれば力を貸していただけるんですね」
「約束しよう」
「わかりました。海が見れましたらのマダムもとに参ります」 
「よし。じゃあケイ坊、必ずこの娘を連れて帰ってくるんだ。どんな状態になっても、必ずだよ」

 その言葉にアイラの唇が震え始めた。恐ろしいものを見るようにレストレンジを見ている。

「そんな。――マダム・レストレンジ、あなたはまさか……」
「いくら巧妙に隠そうと思っていてもわかるものにはわかるもんだよ。でも安心していい。お前の望みは叶えてやる。だから後のことはそこのクソガキに言ってるんだよ。いいね、ケイ坊。約束できなければこれは貸せないよ」
「そういう話なら約束するしかないだろ。ちゃんと二人で戻ってくるよ」

 ケイの言葉にレストレンジは満足げに煙管を吹かした。

「どうする。すぐに行くのかい」
「転送地点からそのクレーターまでは結構距離があるのか?」
「そうだねぇ、政府は森を中心に半径十㎞を保護区域に指定している。転送地点はニーザリングに一番近い森の入り口だからかなり歩くことになるだろうね」
「早く出れるに越したことはないな」
「わかった。すぐに準備させよう。アイラ、悪いがちょっと席を外してくれないか。こいつと契約上の話がしたい。欲しいものがあったらなんでもツェップスに言ってくれ。美味い水も用意できる」

 ツェップスがアイラの手を取り立ち上がらせ、退室を促す。アイラは部屋を出る直前こちらを振り返ったが、ケイが笑顔で手を振ってやればまじめな顔で頷いて部屋を出て行った。

「さて、と。契約上のオハナシってのは何ですかね」

 煙草にライターで火をつける。そんな話は今までしたことがない。アイラを追い出す体のいい言い訳だ。

「ケイ坊、お前どこまで気づいてる?」
「何が」
「アイラのことさ」
「アイラがどうしたって?」

 首を傾げると、レストレンジはケイの顔を凝視しやがてため息を吐いた。人の顔を見てため息を吐くとは失礼なやつだ。

「お前は昔からろくなものを持ち込まないんだよ。凶星のもとに生まれてきたんじゃないのかね」
「言わせてもらうけど、ろくでもないものが向こうから寄ってくるんだ。俺は穏やかに過ごしていたいだけなのに」
「今回もそうだって言うのかい?」
「当たり前だろ。アンタだって今回は随分ご執心じゃないか。珍しいこともあるもんだ」
「過去の遺産が目の前に転がり込んできたんだ。みすみす見逃すなんて勿体ない真似はできないよ」

 金の亡者め、とは口に出さない。

「何か、言いたいことでも?」
「イエ、何でもないです」

 にこりと笑顔で問われ、ケイも笑顔のまま首を横に振る。

「ま、私は約束を守ってもらえれば十分さ。さあ、そろそろ準備もできた頃だね」

 レストレンジはテーブルの脇にあったベルを鳴らす。間を置かずにツェップスが部屋に入ってきた。ツェップスがレストレンジに何かを耳打ちし、彼女も頷いている。

「ケイ坊。どうやらこのまま転送できそうだ。というわけで、今から転送するから」

 体を見ると、既に淡い燐光が覆い始めている。

「はい!? ちょっと待て、アイラはどうすんだよ!」
「向こうできちんと合流できることになっています。ご心配なく」
「政府の転移装置はコードだけ持っていれば場所を問わずに使えるのがいいところだねぇ」

 思い思いのことを口にする二人にケイは猛然と抗議する。

「いきなりすぎんだろ!」
「早いに越したことはないって言ったのはあんたのほうじゃないか」
「それはそうだけど……!」
「あ、それとお前のバイクだけどな。担保として預かっておくから」
「は!?」
「約束通りきちんと二人で戻ってきたら返してやる。せいぜい頑張ることだな」
「おい、ふざけ――」

 ケイの叫びは最後まで言葉になることなく、女主人とその従者の姿はかき消えた

 *

「痛つつつ、ふざけんなよあのババア」

 盛大に背中から叩きつけられたケイは遙か彼方で煙管でも吹かしているであろうレストレンジに悪態をついた。大の字になり、空を眺める。移動距離が長いと転送装置でもタイムラグが生じるらしい。すっかり辺りは暗く、星がいくつも瞬いている。ケイが目を覚ましてまだ僅かだ。ツェップスの言葉を信じるならアイラも近くに飛ばされたことになるが彼女の姿は見当たらない。まさかどこか違うところに飛ばされたのだろうか? 近年の技術向上で空間転移の事故数は激減したが少なからず存在するのも確かだ。

「ったく、手間のかかるお嬢さんだよ」

 依頼人に振り回されるのはいつものことだったが久々の依頼にしてはなかなかハードだ。
 ケイが立ち上がりどこから探そうかと思案していると。

「あ、ケイさん! 目が覚めたんですね」

 背後からアイラが走ってきた。

「今までどこにいたんだ?」
「水がないか探しに行っていたんです」

 ケイの隣に腰を下ろす。ふわりとワンピースの裾が広がった。

「なるほど。で、川でも流れていたのか?」
「ええ。森を歩いていた男の人に聞いたら教えてくださいました。とてもきれいな川で……あ、水汲んできたんで飲んでください」
「どうもどうも……ってちょっと待てい」

 かごバッグから取り出した水筒に入れられた水を受け取る。アイラは嬉しそうにかごバッグを付きだした。

「あ、これはツェップスさんが渡してくださったのです。軽食まで用意してくださったのですよ。ケイさん、お腹空いてるでしょう?」

 気持ちを鎮めるために水を飲み干す。アイラは嬉しそうにバッグの中を漁っている。

「男に会った、って?」
「ええ。制服を着た真面目そうな男性でした。わたくしを見て不思議そうな顔をしていましたけどとても親切に教えてくれましたよ」
「馬鹿! それはここの警備員だろ。今頃変なやつがうろついていたって話が回って――」

 ケイの言葉を肯定するようにサイレンが鳴り始めた。

「やっぱりー!」
「え? え?」

 上空にライトの光がいくつも周回する。

「とりあえず森の中へ逃げるぞ!」

 ケイはアイラの腕を掴んで森の中に飛び込んだ。

「こちらにはいません」
「こっちもだ。本部、B区画は問題なし」

 足音が遠ざかっていく。木の上から様子を窺っていたケイは詰めていた息を吐いた。

「……行ったようだな」
「わたくしたちを探しているのでしょうか」
「だろうな。降りるぞ」

 手伝いながらアイラを地面に降ろすとケイは地図を広げて、星の位置を見ながら現在地を確かめる。転送された場所は概ね予想通り。なので、目的地までの距離も変わらずだ。ケイはパンッと地図を閉じた。

「すぐに出発しよう」

 獣道を歩くケイはナイフを一閃させた。
 ぶちぶちと絡み合う蔦をむしる。森の奥へ奥へと進むほど植物は好き放題伸びていてもはや道すら見つけられない。自分で切り拓いていかないと前に進めない状態である。シャオのところから回収したナイフが早くも大活躍だ。

「保護区にするなら管理ぐらいしっかりしろよな」

 悪態をつきながらナイフを振るう。

「アイラー、大丈夫かー?」
「大丈夫、です!」

 後方から明らかに強がりな返事が返ってきて、ケイはつい苦笑した。吐息が白くなって空に消えていく。もう三時間は休みなしで歩き続けている。夜も深くなり気温もぐっと下がってきた。

「お。ラッキー」

 両手で草をかき分けた先に開けた場所に出た。高い木々で覆われたここなら野営をしても見つかりにくいだろう。

「今日はここで休もう。無理して夜動き回るくらいなら今日は休んで明日の朝から動いた方がいい。」

 追いついたアイラにそう告げるとほっとしたようにアイラは頷いた。

「それにしてもレストレンジのやついい加減なこといいやがって。何が森だよ、もはや山だろコレ」

 ケイとアイラは焚火を囲んで暖をとっていた。ケイはツェップスが用意した軽食を食べ、アイラは水を飲んでいる。ケイは周囲から拾い集めた枝を折り、焚火に放り込んだ。

「でも、優しい方でしたね」

 ケイは噴き出した。

「ああいうのはがめついって言うんだよ」
「……あの人も優しかった」

 アイラがぽつりとつぶやいた。その声に含まれる悲哀の色にケイは手を止めた。踏み込んでいいものかと逡巡したが結局口を開く。

「亡くなった旦那さんのことか?」
「私を本当の家族のように扱ってくれました。海が大好きでいつも眺めて、あの人が笑えばみんなが笑顔になりました。私たちにとってかけがえのない人だったんです」

 ケイは小さく笑った。彼女の話しぶりがあまりにも他人行儀でおかしかったのだ。

「随分変な言い方をするな。あんたはその人の妻だったんだろ」

 彼女の説明は客観的すぎる。

「私は一緒にいれれば満足だったのです」
「どういう意味?」
「……」
「言いたくないならもちろん言わなくてていいよ」
「あの人は妻として幸せだった。そして私も幸せだったんです」
「えっと、それはどういう…」
「私は妻であり、娘でした。そう思って生きているんです」

 アイラはにっこりと笑った。ケイはいまいち意味が呑み込めず首を傾げた。

 *

 翌朝、まだ朝露の残る時間帯に起きた二人は山の頂を目指して歩き続けた。

「ついたぞ……ここだ!」

 そして再び陽が沈む頃、ようやく二人は目的地に着いた。レストレンジの話にあった巨大なクレーター。その斜面は土や岩がむき出しになっており、隕石の衝突によって山が抉れたのがわかる。そいして中心に一本の巨木がたっていた。

「あれが噂の楡の木か。でかいな……」

 クレーターの大きさと比較したら雑草みたいに生えてるひょろっこい木を想像していたのだが、そんなことはなく青々とした葉を茂らせる大木だった。幹の太さなど手を繋いだ大人十人が囲めるくらいはあるだろう。

「でも、どこからあそこまで降りるんでしょうね……。あ、あそこに道のようなものがあります!」

 アイラの指さす方に近づいてみると、かつての調査の時に使用したものなのか階段状に均された道がひょろひょろと木まで伸びている。ケイはコートから燕珠を取り出した。

「あそこにこれを持っていけばいいんだよな。月ももうすぐ昇る」

 本当に山の中に海が現れるのだろうか。

「ケイさんはここで待っててください。私が木の近くまでこれを持って行ってみます」
「一人で? 大丈夫か?」
「ええ、何が起こるかわからないですし。それにもし警備の人に見つかったらここで止めておいてください」
「まあ、依頼人のあんたがそういうならいいけどさ」

 ケイは燕珠をアイラに渡した。

「そうだ。ケイさん、これを預かっていてください。大切なものだから濡らしたくないんです」
「わかった。何かあったらすぐ呼べよ」

  *

 アイラは頷き、ケイに麦わら帽子を預けるとゆっくりと階段を降り始めた。斜面は急で転ばないように注意をしながら底に辿り着く。

「すごい……」

 根元から見上げると改めてその巨大さに息を飲む。アイラは燕珠を根の傍に置いた。
 十秒、三十秒…一分。
 しかし、何も変化は訪れない。
 雲が晴れ、月が姿を見せる。眩い月の光が楡の木に降り注いだ。葉が瑞々しさを増し、葉脈に沿って仄かに煌めく。葉から幹に、根に、輝きが流れて行き、その光が、燕珠に触れた時──ごぼり、と音が鳴った。水が湧き出る音。燕珠から勢いよく水が噴き出した。
 アイラは一歩、身を引いた。
 膨大な量の水が洪水のように迫ってくる。潮の香りがする。

「ああ、エマ様……海が……!」

 水に、飲まれる。

 クレーターの淵で様子を見守っていたケイは楡の木を中心に溢れ出す水の量に目を瞠った。

「ヴァーチャル、じゃない。これは、空間変異……!?」

 楡の木、いや燕珠を中心に空間が組み替えられていく。ヴァーチャルが特定の仮想空間に自分の精神をダイブさせることなら、空間変異は現実世界と衝突し、異空間に現実が浸食され引き摺りこまれることだ。まず起きることはない現象だし、容易に起こることになれば現実世界が崩壊しかねない。
 今や周囲の様子は一変している。空はいつの間にか夕焼け空になり、ケイの足元には波が打ち寄せている。潮の香り。手を伸ばして触れれば、水は生温く、舐めれば塩辛い。

「本当に海だな……。政府が保護下に置くわけだ」

 ケイも直接海を見るのは初めてだ。

「アイラは?」

 穏やかな海面が広がるだけで彼女の姿が見えない。まさか波に攫われたのか? ケイが焦りを覚え始めた頃、水面から手が、そして顔が突き出された。弱弱しくも近くの楡の根本に身体を寄せるのが見えた。

「アイラ、無事か!?」

 ケイがアイラのもとに行くため海に飛び込もうとしたとき、

「こないでください!」

 鋭い制止の声にケイは足を止めた。このような強い声を彼女から聞いたのは初めてだった。


 アイラは波に足を攫われないように注意しながらケイを見た。困惑したように海岸で立ち尽くす彼の姿がくぐもった視界に映る。

「ケイさん、そこで私の話を聞いてください」

 バチンと体内で何かが弾ける音がした。右目がブラックアウト。もうあまり時間がない。

「アイラ……お前……」
「お願いします」

 アイラの懇願にケイは言葉を窮したように口を閉じた。やがてその場に座り込んでがりがりと頭をかく。

「勝手にしろ! 俺はシーカーとして依頼人の欲しがっているものを探すだけだ。その後に何をどうするかは依頼人の自由だ。お前が──アンドロイドでも俺の依頼人だということに変わりない」

 アイラは目を瞠った。いつわかったのかと同時にやっぱりという気持ちが湧き上がる。機械の自分に感情というものがあるかはわからないけど。でも彼だったらそれぐらい見抜くのは当たり前かもしれない。

「ふふ。さすが、ですね。いつわかったんですか?」
「とっかかりはいくつもあった。お前は気温を感知しなさすぎたし、どんなに勧めても水以外食べ物を取ろうとしなかった。最初はサイボーグか何かかと思ったよ。けど俺がどこに住んでいるのかと尋ねたときお前は西の十六エリアと答えた。そこでおや、と思った」
「どうして」
「今、都市に西の十六エリアは存在しない。三年前に閉じたんだ。西エリアの閉鎖は随分大きな騒ぎになったしデモもかなりあったからな。この惑星で知らないやつはまずいない」
「そう、だったのですか…。ではわたくしが見たデータは古かったのですね……」
「勿論それだけで確信が持てたわけじゃない。アンドロイドは感情を持たない。感情を持てるはずがないんだ。だから余計にわからなくなった。だが、お前は地球にこだわっていたし鍵はそこにあると思った。昔、文献で地球産のアンドロイドは今よりも高度な知能を持っていて感情もあるというのを読んだのを思い出した。しかし、地球の文明は第三次大戦でロストしていて全ての地球産アンドロイドも機能を停止している。けど星間戦争が終わると多くの人間が過去の遺産を探しに地球に飛んでいった。その際に持ち込まれたんじゃないかと思ったんだ。その中に一つくらい動力が残っているものがあってもおかしくない」
「大体あっていますね。でも一つだけ。確かにわたくしは地球から持ち去られました。でも動力が残っていたわけではありません。動力はとうの昔に切れていました。目を覚ましたのは四日前のことです。体内に膨大なエネルギーが送り込まれ動力機関が活動を開始するのを感じました。目を覚ましたのはゴミ処理施設でした」
「膨大なエネルギー……ゴミ処理施設……?」

 そこまで呟いてケイはアッと声を上げた。中央都市のゴミ処理施設に雷が落ち火事になったというニュースが流れていたのを思い出したのだ。

「目を覚ました私は状況を把握しようと電脳空間に接続しました。そこには驚くべき内容が流れていました。私が活動していたときから五百年も過ぎているというではありませんか。しかもここは地球ではない別の惑星だなんて」
「それから、どうしたんだ?」
「私は地球で停止するまである命令を下されていました。目覚めた今、最優先事項はその命令を遂行することでした」
「それが海を見ることだってわけか…」
「ええ。私がいた場所からは海が見えず、探しているうちに私の動力がきれてしまいまし。五百年経ち、違う惑星で叶えることができるなんて…」

 アイラは楡の木に背中を預けて目を閉じた。在りし日に思いを馳せるように。

 ──ジッ

 ──ジジッ

 ベッドで女性が上半身を起こし窓の外を眺めている。髪には白い毛が多く混じっている。皺だらけの小さな手が肩にかけたストールを寄せる。もう一人、側の椅子に座っているワンピース姿の女性。アイラだ。今と容姿は何一つ変わっていない。

『海を、見たいわね』
『奥様……』

 女性はアイラを振り返り、微笑んだ。優しげな瞳をしている。

『ここには海がないわね。あの人が見ていた海をもう一度見たかったのだけど。もうあまり時間がないからそれも難しそう』
『そんなこと言うと天国の旦那様が悲しまれますよ。まだまだ元気にしていただかないと』
『あらあら、随分臨機応変な対応ができる様になったわね。本当に成長したわ……あなたは私たちの娘みたいものだもの。でも、いいの。自分のことは一番よくわかってるわ』

 アイラは何も言葉を発することができなかった。AIがどんなに成長しようとも人間にはなれない。アンドロイドの死とは動かなくなることだがメモリーさえ回収できれば新しいボディで動くことも可能だ。
 だがボディとメモリーが一つに混ざり合っている人間の死はわからない。情報として理解はできても、実感を伴うことはない。しかし、自分の死を悟りながら他人を気遣うなど人間とはなんて不思議な生き物なのだろう。

『けど私がいなくなったらあなたは一人になってしまうわね…』
『私は大丈夫です』

 死という概念がないに等しいアンドロイドの心配をするより自分の心配をしてほしかった。

『アイラ、お願いがあるの』
『なんなりと申してください』
『私の代わりに海を見てほしいの。あの人にありがとうとお礼を言いたかったのだけど、それは叶いそうにないからあなたが変わりに…あなたがいいって言ってくれたらだけど』

 この人はアンドロイドでしかない自分をあくまでも娘のように扱う。どんなに人間を模していようとAIが人間に近づこうと創造主には逆らえないようにできているのだ。人間からの命令は何よりも優先されるのだからもっと堂々と命じればいいものを。

『エマ様、必ず海を見ますわ。私があなたの目となって』
『ありがとう。私もあなたと一緒に海を見れたらよかったのだけど』

 私はアイラであり、エマでもある。
 でもそれも終わりだ。全て終わり。
 願いは叶ったのだから……。
 手を伸ばす、ゆっくりと身体が傾いでいく。

 そう、私は幸せだった。幸せで、幸せすぎて、違う、そうじゃない。あなたは、俺は。

 ケイはカッと両目を開いた。
 何度か頭を振る。なんだ、今のは。アイラの記憶? また空間変異が起ったのかと思ったがそれにしても鮮明過ぎた。まるでアイラの中に自分が入り込んだような。どういう理屈かはわからない。そもそもこの現象自体が理解の範疇を超えているのだ。

「っ、そうだ。アイラ!」

 ケイは海に足を踏み入れた。だが、すぐに違和感に気づく。水の感触も波の音もない。潮が引くように水がなくなっていく。
 まるで土に染み入るように、急速に。
 ハッとして周囲を見渡す。空に罅が入りバラバラと落ちた。その向こうは夜空だ。夕焼けの空が、砂浜が消えていく。空間が崩れ始めているのだ。
 待ってくれ。
 もう少しだけだから。
 ケイの願いは叶うことなく、世界は再び姿を戻した。
 天を仰ぐ。新月は雲に覆われ、雲間から淡い光が漏れてくるばかりだ。
 記憶の時間は終わってしまった。
 ケイは視線を戻すと迷うことなく歩き始めた。歩幅は段々と大きくなり、ついには駆け出し、斜面を滑り降りる。

「アイラ!!」

 彼女は楡の木に寄りかかって座っていた。回路がショートしたのか体の所々が黒く汚れている。目は閉じられたまま、ぴくりとも動かない。
 ケイはおそるおそるアイラの肩に触れた。冷たい。当たり前だ。彼女はアンドロイドなのだから温もりなどあるわけがない。

「ウソ、だろ……」

 呆然と見下ろしていると、長い睫が微かに震えた気がして、ケイは慌ててアイラの顔を覗き込んだ。彼女は笑っていた。
 初めて会ったとき、ケイを見て微笑んだように。だが、彼女の目が開かれることはなかった。
 ケイの手が固く握りしめられる。何かを耐えるようにぎゅっと目を閉じた。
 マダム・レストレンジはアイラが自身の望みを叶えた時にこういう結末が訪れることをわかっていたに違いない。だからこそどんな状態になっても連れて帰ってこいと言ったのだ。

「くそ……ざけんなよ」

 彼女はもういないのだ。
 それは人に長く寄り添った人間臭いアンドロイドの死だった。
 ケイは彼女から預けられた麦わら帽子をアイラの頭に被せた。髪を梳いて綺麗に整えてやる。
 柔らかな風が吹いた。ワンピースの裾が小さくそよぐ。ケイはいつまでもそこを動こうとしなかった。

【了】

いつも読んでいただきありがとうございます。 小説は娯楽です。日々の忙しさの隙間を埋める娯楽を書いていけたらと思います。応援いただけたら本を買い、次作の糧にします。