見出し画像

【小説】くすのき ー第2話ー

 文化祭の喧騒は池内悠にとっては煩わしさ以外何物でもなかった。
 小さい頃から神童と言われてきた。
 地元の小学校では誰よりも成績は頭抜けてよく、中学受験の塾に4年生から通い始めると、全国のライバルたちにも気後れすることなく、常に全国で10番以内の成績を収めた。特に算数の能力については特別なところがあり、計算や式などを書かずとも、頭の中でほとんどの問題をこなすことができた。IQが高いとか、親が学者とか、家が大金持ちとか、いろんな噂がされた。学校の先生も彼に対しては、腫れ物を触るようなよそよそしい対応しかできなかった。理科の授業で、少し下手なことを言おうものならば、彼の持っている理科の知識の方が段違いに上で、小学校の普通の担任の先生レベルではまるで太刀打ちできなかった。英語についても幼少期から家庭教師のような外国人が来ていて、小学校の半ばには日本語同様に話せるようになっており、中学校に入るとフランス語についても日常会話ができるようになっていた。誰もが彼が、関東でもトップの中学校に進学し、そしてきっと東大に行き、学者や国家公務員などになるのだろうと思った。あるいは、大学は海外の大学に行きたい、というようなことを聞いたことがある、とも言われた。
 しかし、実際のところは、彼は中学受験に失敗してしまい、トップの国立大学附属の中学には進学できなかった。理由はシンプルで、2月3日の試験前日にインフルエンザにかかってしまい、別室で受験をさせてもらったものの力を発揮し切ることはできなかった。すでに私立のトップ校には合格していたけれども、彼は自分の家庭環境なども考えて、私立に進学することはためらった。結果、地元の中学校に進学した。
 中学校に入ってからの彼は、相変わらず学力では学年トップではあったけれども、小学校の頃のようなl、誰も寄せ付けない圧倒的なレベルの学力ではなくなってきた。見た目には特に変わったところはないのだけれども、毎回100点だったテストは95点などを取るようになり、数回に1回は、学校で1位を取り損なったりした。誰もが彼を「成績のいいやつ」と思っていたけれども、もはや彼は神童とは言われなくなっていた。
 その理由は周りの人にはわからなかったけれども(特段の関心も払われなかった)、池内自身にはよくわかっていた。
 中学受験の2月2日の夜、2日目の受験を終えた彼は急に高熱を出した。それまでに彼は覚えている限りは特に際立った高熱など出したことがなく、40度近い高熱は彼の意識を混乱させた。体が熱いというより、体の節々が軋み、身体中の体液が熱を帯び、そして体中の血液が沸き立ち、全身から汗が噴き出てきた。あまりのことに、親も混乱をしてしまい、慌てて救急車を呼んだものの、救急車側からもう少し様子を見てはどうかと言われた。確かに夜中を過ぎると彼の熱は38度くらいには下がり、一応小康状態に入ったように見えた。解熱剤を与え、頭にも手にも、関節にも保冷剤を当て、必死に熱を下げて、なんとか翌日の第一志望の試験会場には向かったものの、彼にはそこで普段の集中力を発揮することはできなくなっていた。
 「できなかった」、のではない。彼は、彼自身のこれまでの集中力、物事を高速で頭の中で処理することが「できなくなっている」ことに、あの高熱を経て、その能力が消えてしまったことに気づいた。算数の問題を見て、小括弧の中の計算をし、中括弧の分数の計算をし、それを式の左右で分母を払う計算をし、最後に移項をして答えを出すという処理が、頭の中で1秒もしないでできたのに、もうこの日からはできなくなっていた。そして、1つ1つを紙に書き出して計算をし答えを出すという、普通の取り組みを取り入れることで、彼は普通の人と同じように問題を解くことしか「できなく」なっていた。
 あの高熱の前後で彼の能力には明らかな差ができてしまった。つまりそれは、あの高熱により彼は、何かの能力を失ったということを示唆していたし、池内自身もそのことを実感していた。
 だから、彼にとっては、それ以降の人生は抜け殻だった。
 彼にあった能力は、特殊で、特別で、最高のものだった。誰もが得たいと思い、得ることのできない能力だった。しかし、その能力を元々持っていない人は幸せだった。なぜならば、その能力を持っている自分を経験した人は、その能力を失った自分に対して、なんの興味も持てなくなるからだった。人間というのがいかに平凡でつまらないものなのか、それを突きつけられ、絶望するからだった。あまりにも尊い力であったが故に、もはやそれを無くした人生にはなんの価値もないように思えた。

 中学校生活は当然彼に何も働きかけてこなかった。勉強は難しくはなかったが、それは普通に取り組み、普通に計算し、普通にテストをすることにおいてできているわけで、テストに向けてしっかり勉強をしなければ高得点は取れなくなっていた。部活には入らなかった。運動はそもそも彼の得意とするところではなく、かといって文化部のようなところで人と交わるようなことにも関心はまるで持てなかった。
 当然のごとく彼はパソコンとインターネットの世界に埋没するようになっていった。池内にはゲームよりも、プログラミングで様々な仕掛けをWEBサイトに作っていくことの方が興味がもて、自分のWEBサイトを開き、JavaScriptを勉強し、いろんな仕掛けを作ったり、ちょっとしたアプリケーションを作ったり、あるいはハッキングの真似事のようなことをしてみたり、年齢が進むとアダルトサイトなどを覗いてみたり、画像加工などをしたり、沼に入り込んでいった。
 中学2年生になると、彼にも思春期が訪れ、学校の中のある女の子に恋をするようになった。彼女は誰もが一目置くタイプのしっかりとした美人で、多くの男子生徒の憧れだった。彼女のどこに惹かれたのかはわからないのだけど、ある時期から彼には彼女のことが頭から離れなくなり、学校にいるときはその姿を横目に追い、家に帰ってからはPC上で彼女のことを調べたりした。そうこうしているうちに彼は、ふと、ある商店街の監視カメラのハッキングに成功する。その商店街は彼女が住む家の近くで、彼女が通学の行き来に使っている道でもあった。また、カメラのアングルを少し操作すると、彼女の家の方が見えることもわかってきた。
 池内は興奮した。家に帰るとすぐにPCを開き、そのハッキング用のサイトを開き、監視カメラのデータを調べる。朝の7時台には彼女が1人で歩いている姿がある。そのまま接続していると、夕方の18時前に彼女が商店街を友達3人と一緒に歩いていくのが見えた。そのままカメラを操作していくと、商店街の少し先、アーケードを出て2軒ほどの家に彼女は入っていった。そこが彼女の家であることは容易に想像できた。
 それ以来池内は、家にいる限りずっと彼女の家へカメラをむけ、彼女のことを想像した。カメラから家の様子を見ることはできない。あくまで家の入り口をみることができるだけだ。しかし彼にとってはそれで十分だった。彼にとっては、それだけで、十分にその性欲を満たすものだった。この映像の向こうに、この門の向こうに彼女がいる。家は2階立て以上のものだろう。一番上は見えないけれど、平屋ではない。彼女の部屋はきっと2階だろう。その部屋で彼女は今何をしているのだろう。夕食を食べたのだろうか、お風呂に入ったのだろうか。24時を回っても、彼女の家の明かりが消えるまでは寝ることができなかった。
 彼にとっては至福の時間だった。パソコンの画面の向こうに彼女がいて、その彼女の様子を想像するだけで毎日が充実した。そして、時折、買い物だろうか、彼女が家から出てくるところを目にしようものならば、無上の喜びに包まれた。時折彼は、神になったような気分になることがあった。彼女を支配し、彼女を常に見続けているのは自分だけで、彼女をコントロールしているかのような錯覚に陥った。
 しかし、冬になったある日、商店街のカメラは彼のパソコンからは操作することができなくなった。システムが変わったのか、それともそもそもネット接続をやめたのか。そして時を同じくして、SNS上に「商店街のカメラがハッキングされていた」という情報が見られるようになった。それは、基本的には商店街のシステムの脆弱性を糾弾するものだったが、一部には、「不正アクセスにより一部被害が出ている」というようなコメントもあった。
 池内は自分のPCの中の履歴を急いで消去し、撮り溜めた彼女の写真も全て消した。少なくとも彼は、ハッキングはしているけれども、誰に迷惑をかけたわけではない。彼が何かの批判や調査の対象になるとは思えなかった。しかし、そうせざるをえなかった。そうしない限りは、「自分が彼女のことを覗いていた」という行為を消せないように思えた。いや、逆で、そうすることで、必死に自分の覗き行為を隠そうとした。
 それは誰にも知られるはずのない行為だった。だけれども、彼にはどうしても「誰かが自分のしたことを知っている」という思いが離れなくなってきた。SNS上のこの件の関連情報には全て目を通した。もちろん、直接的に彼に言及しているものはない。当然だ。しかし、「地元の中学生がよく通る道で、中学生を盗撮していた恐れがある」というようなコメントがあると、それが自分のことを指しているような気持ちを拭えなかった。学校でまれにそのハッキング事件の話をしている声が聞こえると、それらは池内のことを糾弾しているかのように聞こえてきた。
 だんだんと彼は学校に行くこと自体が怖くなり、中学3年生になる頃には学校を休みがちになってきた。心配した親は学校に何か問題があるのだと確信をして、学校や教育員会と掛け合い彼を転校させた。転校先では彼は前の学校でのような被害妄想に襲われることは無くなった。その代わり、彼女のいない世界、彼女のいない学校にはなんの興味も持てなくなり、ますますインターネットの世界に引きこもるようになった。
 
 高校は地域のトップの公立高校に特に苦労もせずに入った。ただ、地域トップとはいっても、私立のそれの方が遥にレベルは高く、公立のトップ校とはいっても、東大に現役で進学する人が数名、というレベルの学校だった。
 高校に入ろうが、彼にとってその人生が、すでに終わってしまったものであることには変わりはなかった。中学受験の時に能力としての彼は終わりを迎え、そして、ハッキング事件で彼は思春期を失った。男子校というのは彼には少し気楽で、また、進学校で学力レベルの高い子が多いので、みょうに彼に絡んでくるような奇特な人もほとんどいないことも中学校よりはよかったが、それだけのことで、部活に入ることもなく、特定の友達を作ることもなかった。成績は高校に入ると中程になった。上位の中では特別に成績がいいというほどでもなくなっていた。
 
 文化祭についても彼は特に何にも関わらなかった。クラスの出し物(クラスで迷路を作ることになった)についても参加をしなかったし、それを誰も特に咎めなかった。池内はまあしょうがない、ということで。ただ、学校は文化祭の日は登校日で行かなければいけないので、しょうがなく登校はしていた。
 文化祭の喧騒、そして、男子生徒たちの積極的な行動とそのバイタリティは彼には不思議なものに見えた。そんなに女子と会いたいならば、そもそも男子校を選ばなければいいのに、この騒ぎようは一体なんだろう。そして、誰がどの子と歩いていたとか、あいつが隣の高校の女の子と2人で歩いていたとか、誰彼の友達が3人女の子を連れてくるから、などなどに一喜一憂している男子たちと、自分が、決定的に生き物とした何か違いあるのではないかとすら思えた。
 でも、それは違った。
 池内も、そんな彼らと流れている血はすでに同じものだった。
 
 2日目の午後、特にすることもなかった彼は、中庭におり、体育館の方に向かう。体育館では合唱部が出番を迎えてて、それでも覗いてみようと思った。下駄箱で靴を履き替え、校門の横のくすのきのそばを通った時、彼の視界の左側にはいった映像に、彼は強烈な電気信号を受ける。あまりにもその電気信号は強すぎて、彼の頭か心の中の何かを焼き尽くす。
 そこには、沙織がいた。中学校の時に彼が恋焦がれハッキングという形でストーカー行為を働いた、その対象である沙織が、ラグビー部の、土で少し汚れたジャージを着た高田と座って何かを食べている。2人の距離は1mもなく、彼にはその間は極めて親密なものに見えた。
 池内は立ちすくむ。文字通り立って、動けなくなる。3度目の絶望が彼を襲う。
 彼の明晰だったはずの頭脳は、この事象の持つ意味を考えることはできなくなっていた。夏の恵みをたっぷりと吸収し、ふくよかに葉を広げるくすのきの下で彼らはとても祝福に満ちているように見えた。彼らが幸せなのかどうか、彼らがうまくいっているのかはわからない。けれども、彼らが世界から祝福されていることは間違いないことに見えた。そして、その一方で、凛々しく人々を迎えるくすのきの反対側で、池内は強烈なカウンターパンチをみぞおちに受けうずくまっている。彼には、彼がこの人生において、すでに誰からも祝福されることなく、誰からも歓迎されることのない人間であるように思えた。どんなことが起きようとも、どんなに彼が足掻こうとも、彼にはすでに沙織と2人でくすのきの木陰で昼下がりを過ごすことはできない。たとえ地球の地軸の南北が入れ替わろうともそれだけは絶対に起こらないことは間違いなかった。
 彼はくすのきの横に立ち、ただただ彼らを見つめる。いや、正確に言えば、彼らのいる世界、異世界の絵を無機質に見遣り続ける。そこにはすでに感情はなく、彼にとっては無意味な世界で無意味な営みが行われている様子を、感情を無くしたロボットのように見続ける。
 一瞬だけ、沙織は彼のことを見る。彼のこと、あるいは、彼のいるあたりの景色を見る。しかし彼女は池内には気づかない。
 池内には、沙織が確かに自分を見たことがわかった。あるいは、彼女の視界に自分が入ったことがわかった。そして、自分の姿が彼女にとっては、何の反応ももたらさないものであり、後ろにある水道の蛇口たちと変わらない、祝福された世界の一つのオブジェクトでしかないことを悟った。彼は首を上に傾け、空を見る。しかし、秋の空は大きなくすのきの枝と葉に覆われ見ることができない。しかし、くすのきが祝福し見守っているのは彼ではない。断固として彼ではない。僕であるものか、僕であるはずがない。池内は心にそう唱える。そう唱え続ける。

 その日の夜、彼は家には帰らず学校の教室に居続けた。教室に最後まで彼が残っていても、誰1人なんとも思わなかった。21時を過ぎると守衛が見回りにやってくる。どこかのクラスの誰かが急いで廊下を走る。水泳部の部室の方から何やら歓声が上がる。しかし、その5分後には学校には静かな秋の夜が訪れる。文化祭の後だろうが、普段の夜だろうが変わらない。真っ暗な校舎に少しの風が吹き、所々で何かわからない音がする。池内は、教室の一番後ろの窓を開ける。大きく開け放つ。
 ああ、なんていい風なんだろう。
 彼はまとわりついてくるような少しの風を全身で感じる。両手を少し脇から離し、手のひらを広げて、控えめに胸を開いて空気を吸い込む。コオロギの鳴く音がする。コオロギか、コオロギには脚に感覚器があり、そこを刺激されると体が硬直する。そして、自分を捕まえようとするものから逃げようと小さな隙間に飛び込んでみたり、あるいは、擬死状態に自分からなったりすることがある、彼は小学生の頃、ありとあらゆる昆虫について膨大な知識を得ていた。その中でも、死んだふりをするコオロギには特に不思議な愛着を持っていたことを覚えている。
 もう、強がるのはやめよう、と思った。
 彼には、自分がこれ以上生きていても、すでにどこにも行けないであろうことが、数学の定理のように明確に思えた。沙織を好きになった時、何かが起こるような気持ちがした。高校に入った時にも、もしかしたら新しい啓示が降りてくるのかもしれないとわずかに期待をした。
 しかし、実際に起こったことは彼の期待とは正反対のことだった。そして、抜け殻である彼には、これからの人生でも、何かに期待をすれば、必ずその逆の結果が起こるのだろうと思えた。そして、彼には3度目のこの衝撃を経た今、もうこれ以上同じ思いに耐えられるとは思えなかった。もう一度同じようなことがあれば、自分が自分でなくなり、恐ろしい行動をしてしまのではないかと思えた。だから、彼には、生きていくためには「自分に何も期待しないで生きる」ことしかもはや選択肢はなくなっていた。
 そう、だから、もう強がるのはやめよう。
 自分に、何も期待できないならば、自分として生きていく価値はないだろう。自分が、生きていくことに対して、何の期待もできないない人間が、この世界で生きてく価値が何かあるとしたら、それは自分の存在をいち早く消すことしかないと思う。
 彼は椅子から音もなく立ち上がり、黒板に向かう。
 「自分の存在が消えること、それのみが、自分がこの世界から期待されていること」
黒板の真ん中あたりに小さく白いチョークでかく。名前はいらない。名前などすでに必要ない。

 教室を出て、4階の廊下を渡り、屋上へと進む。そして、屋上の給水塔の梯子を登る。
 ああ、ここまでくると、くすのきと同じくらいの高さなんだ。彼は左手に見えるくすのきのその一番てっぺんを見る。
 
 この木のこの一番上の部分を見たことがあるのは、もしかしたら僕しかいないのではないかと思う。上から見た彼は、まるで緑の手を大きく広げて僕を迎えてくれているように見える。暖かい緑色。そして、それを支えるように広がる茶色の枝たち。
 
 いいんだよ。何も恐れることはないんだ。君は君でいればいいし、君が考えたことを躊躇せずにやればいい、君の人生に対して私は何も言えない、けれど、どんな決断も、どんな後悔も、どんな幸せも、どんな不幸も、どんな憤りも、どんな怒りも、どんな人生も、みんな綺麗だ、みんな美しい。でも、これは運命ではない。運命を呪うのは、君たちのすべきことではない。運命を呪いたいならば、その運命を、宿命を、生きて断ち切るべきだ。命をかけて、自分の運命に立ち向かうべきだ。

 No fate.
何かの映画の言葉を呟く。そして右手をぐっと握り締める。
「わかっている。ただ自分に絶望しているだけなんだ。それだけなんだ。」
 そして彼は、くすのき目掛けて空に飛び込んだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?