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眼鏡

「別れようか・・」
小夜子がその衝撃的な一言を聞いたのは、いつもの学生食堂。
驚いて、麩のみそ汁から顔を上げ小夜子は真正面から圭悟を見つめる。「今、なんて」
あれ今一体何の話をしていたっけ?そんな言葉に繋がるような話なんてしていた?小夜子には何も思い当たるふしがなかった。
確か、今日の味噌汁辛いねって言って、圭悟のB定食のアジの塩焼きの方が私のオムライスよりおいしそう、とっかえて。今日は帰りにバーガーショップによってね、って。
この前の日曜は確かリバイバルを観に行って。
こんな言葉が突然出るような状況じゃない筈よ。私たちは。
「小夜子、俺たち別れようか」圭悟はもう一度繰り返した。そのひとみはとても冗談には見えない。
涙ってほんとうに悲しい時には止まってしまうものだな。小夜子は変に、冷静にそんな事を思っていた。でももう昼食の続きなんてできない。けして強い口調ではないものの、圭悟の言い方に小夜子は気圧される何かを感じていた。
納得できない、でも続きの言葉が言えない。ただただ圭悟の顔を見つめたまま凍りついたように動かない小夜子に、圭悟は声をかけた。「さよこ?」
思考停止ってこれだ。
何と言っていいか判らない。小夜子はそのままトレイをつかんで立ち上がる。圭悟をおいたまま学食をあとにする。一人になりたくて走る。どこに行けば良いだろう。私はどうすれば良いのだろう。どうすれば良かったのかな。何も思いつかない、ただ付き合って3年目、あまりにも突然な大好きな人との別れ話に耳を塞ぎたいだけ。
圭悟は小夜子を追ってはこなかった。小夜子はグラウンドの外れの旧校舎のところで走る足を止めた。くたびれた木の扉を背に、大きく息を吐く。
どうしちゃったのだろう、圭悟。
私は何がどうして駄目なのか、判んないよ。
「誰も来ない」一人つぶやいた。ずずっと制服の背中、扉にもたれたまますべらせる、座り込む。
小夜子の頭にはもう次の授業のことなんて考えられなかった。
高校3年生、後期のまとめの、大事な授業だ。優秀な圭悟と同じ大学に行く為なら必須だ。
でも、今別れを告げられてしまった。そしたらもう必要ないのかな。
泣きたい気持ちで考える。もう判らない何もかも。
さぼりが先生に見つかったら面倒だな。小夜子はそれだけ考えて、部室に閉じこもることにした。旧校舎の中は文化系クラブの部室棟になっている。美術部のところで足を止める。
小夜子と圭悟の出逢いも美術部だ。確かに告白してきたのは圭悟の方だったけど、あれから3年、圭悟と一緒に過ごして私も圭悟を好きで、一緒にいたくて、それ駄目なのかな?
根っから絵の好きな小夜子はこの部屋に来ると落ち着く。
もうさすがに卒業の、3年の今は部活動には参加していないが、たまについ帰りがけに足が向いてしまう。油絵の具のにおいをかぐと、なんだか胸がすっとした。
「はあ」
部室の扉を閉めておいて、小夜子は自分のキャンバスを部屋の真ん中に置いた。
それは描きかけの油絵だった。受験が終わったら、終わったらきっとと思い、肝心なところは描かないでいる。未来像、縁側でざるいっぱいのさやえんどうをかかえてひとつひとつそのすじを剥く。小夜子の隣にいるのは、もちろん圭悟。
そこにはまだ簡単なデッサンのみで、小夜子のさやえんどうのすじを剥く姿は描かれていたが、「隣の誰か」はまだデッサンもされていなかった。隣は空白のまま。
 今「悲しい」と言うか、どうしていいか判らないと言うのが現状だった。身近だったはずの人を、言葉で心をつなぎとめられない。それがこんなに怖いことだとは思わなかった。小夜子はまだ片付けを済ませていない部室の個人ロッカーを開く。圭悟と共同のそこは、いつのまにか整頓されている。ふと気づく。あれ?つい最近まで圭悟の画材も色々入っていたように思うけどな。右端のコーナーに立てられた、何冊かの小夜子のスケッチブックはそのままだ。でも圭悟のスケッチブックは、その中に混じってはいなかった。
「もう絵は描かないつもりかな?圭悟」小夜子はつぶやいて、自分のスケッチブックを一冊取り出して、ぱらぱらめくった。
「あー少しは上達したって言えるのかしら私」
自分で頭を抱えそうになる。でも好きなのだ。絵美大に行こうなんて大それたことは思ってないけど、絵を好きなことは事実だから、行った先の大学で美術部があるのなら、やはり圭悟と入部したいと小夜子は思っていた。
「あれ?」
そこで小夜子は自分のスケッチブックの異変に気づいた。それは破りとられた跡だった。小夜子はいくら自分の絵に自信がないと言っても、一度描いたスケッチブックのデッサンを自分で破ったりしたことはない。破った覚えもない。このページは、そのスケッチブックは「ひまわり」の習作だった。去年小夜子が高二の時の文化祭で出展したそれ。「ひまわり」を見つめる少女の絵。ひまわりと、ひまわりの習作の間に気分転換もかねてたしか、男の子も描いた筈。モデルは、確か私の好きな眼鏡の顔。眼鏡をかけた男の子の絵を描いた。自分も家族も視力が良く、眼鏡の人が身近に居ないせいもあるかもしれないけど、小夜子は眼鏡に憧れた。眼鏡をかけた顔に何故か惹かれる。友達にも変だと言われた事はあるけれど。
「そう言っても、小夜子の好きになる男ってだれも眼鏡なんかかけてないじゃないの」そうなのだ。圭悟も含め今までつきあった男に誰も、眼鏡の人なんていないのに。多分それって、眼鏡をかけた男の人の「顔」が好きなだけで、そのひとそのものがそう好きじゃないってことだと思う。外見だけで恋をしている訳ではないから、と小夜子は友達に話したことがある。
そして無くなっていたのは、その眼鏡の男の子のページだけだった。モデルはたしか美術部の後輩、眼鏡の彼。
そこで小夜子はぴんときた。
圭悟には、きっと眼鏡をかけてない彼には気分が良くないだろうからと、小夜子はその眼鏡の話をしたことがないのだ。小夜子が眼鏡に憧れている事。
「何か誤解?」
小夜子の当てが外れていなければ、圭悟が別れを切り出したのは圭悟の誤解が原因だ。自分の彼女のスケッチブックに自分ではない男の顔があったのを、多分圭悟が見つけて、そして誤解して別れようとか言い出したのだ。きっと。
そうであればいいと小夜子は願う。
共同のロッカー、片付けられた圭悟の荷物。破りとられた2ページ。眼鏡。そんなことが災いするなんて思っても見なかったけど。眼鏡の顔が好き、なんていう私の変な趣味がいけないのかな。
でも昨日今日の付き合いではないのだもの。きっと話せば圭悟も判ってくれる筈。

煙草の煙で目が覚める。
小夜子は安心したせいか、そのまま机に突っ伏していつのまにか眠ってしまっていた。頭を起こして、小夜子は開口一番「こら部室は禁煙」と煙の向こうの、見えない煙草の主に向かって言った。
煙の向こうには三辺(みなべ)がいた。眼鏡のモデルの後輩だ。
「あれ副部長か。吸う人だっけ?」
三辺はその質問には答えなかった。かわりにすっとぼけた表情で
「おはようございます、小夜子先輩」と笑う。「さぼりですか?珍しい」
小夜子の腕時計は昼の2時ちょうどを指していた。あぁもう次の授業始まるなあ。
「びっくりしましたよ。こんな時間に先輩、寝てるから」
「んと、ちょっとね」言いかけて小夜子止める。どうしよかなあ。でも圭悟との誤解を解かないままで、こんな気持ちでは勉強どころではないか。
「たまにはいいのよ。三辺君はよくさぼるの?」
「そうですね、吸いたくなった時に来る位かな。先輩いやなら消します」
小夜子は不思議と嫌ではなかった。久々の煙草の匂い。
「ううん、いい」そうか、と気づく。小夜子にとって煙草は亡くなった父親の思い出だ。煙草くささが今は好きになっていた。
煙草の煙の中、先に圭悟に言われた事など忘れる位、不思議と小夜子は落ち着いていた。

その日の帰り、圭悟の自転車の前で小夜子は待っていた。午後から雨になっていた。
もちろん圭悟の誤解を解きたくて話したくて。しかしそこに現れたのは中学からの親友の理加だった。
「小夜子」「あ、理加。圭悟見なかった?もう終わって良い時間なのに」
「小夜子、野山君来ないよ」
え、だって圭悟の自転車はここに。
「伝言頼まれたの。先に帰ってくれって」「だって話したいことが」
「話が出来ないって。小夜子が帰るまで野山君ここに来ないって」
矢継ぎ早に話す理加に、小夜子は何も言えなくなる。
「理加。圭悟何か言っていた?」小夜子にはいつもの理加の顔が何故か冷たく感じた。「伝えてよ、誤解だって。話したいことがあるって」
理加は動かない。
「理加?」雨足は強くなる。
そして自転車置き場の向こうから見覚えのある、緑の傘が現れる。「圭悟」
突然表れた圭悟の表情は固く、小夜子に向かって冷たい声でこう言った。
「話すことは何もない。知っているよ俺は。俺に遠慮しなくても良いよ、小夜子」
「えんりょ?なんのよ。圭悟きいて。あのね」
小夜子が言いかけるのもかまわず、圭悟は理加と立ち去ろうとする。
「待って」でも小夜子には傘がなく、思わず走り寄るのをためらってしまった。
それだけではない、冷たい、小夜子を寄せ付けない雰囲気が圭悟にはあった。
知らない人みたいだ、小夜子は思った。はじめて圭悟を怖いと思った。
理加も。あんな理加を私は知らない。
「嘘」
嘘だ。こんな現実。
追いすがったらいいのかな、私は。判らない、判らないよ。
雨に濡れたまま自転車に乗り、小夜子は家路を急いだ。

「とうとう気づいたのね」
小夜子のスケッチブックから破り取った2枚の絵、圭悟ではない顔。端を握りつぶした跡がある。圭悟に理加はそう言った。
「江上お前、知って?」
信じられないものを見たかのような圭悟の表情を、理加は冷静に受け止めていた。
圭悟がそれを見つけたのは、昨日の三辺との引継ぎのときだった。
誰もいない放課後の部室。三辺に部長の業務を引き継ぐ為に、必要な書類をロッカーから出していた時だ。小夜子のデッサンスケッチブックの一冊。「ひまわり」の習作の一冊がそこにあった。ぱらぱらと開いてみたのは、ほんの好奇心からだった。しかし、そこには正に、これから引継ぎをしようとする、三辺の顔があった。浮気、この二文字しか圭悟には浮かばない。
とりあえず圭悟は、小夜子の親友で共通の友人である理加に相談に行ったのだ。そして圭悟を見た理加が開口一番、これだった「とうとう気づいたのね」
「私、野山君がいつ気づくのかなって思ってたの」
「小夜子は江上には言っていたのか?」「ううん私には全然。でも私あの絵のモデルをしたから」
「ひまわり、か」
でも確かあれは去年の夏だ。1年以上も小夜子は俺をだましていたということか?圭悟の心の中には、疑惑の念しか生まれない。
「そうか、俺の予想が」外れていればいい、圭悟はそう思っていた。でも圭悟は理加の言葉で確信してしまった。
「野山君」理加がうなだれる圭悟の肩に手を置く。
「うん。大丈夫だよ。悪かった江上、いきなり」
勉強中に。と圭悟は続けた。高3の受験前、圭悟が理加に会えたのは放課後の図書室だった。
「ううん、いいよ。それよりも野山君の方が」
誰が見てもお似合いの2人だと思われていた、そんな相手に裏切られたのだから、圭悟の落胆は並大抵のものではないだろう。理加はそう思った。
「言うよ、明日小夜子に」
それだけ告げて、圭悟は理加と別れた。それが圭悟が学食で小夜子に別れを告げた、その前日のことだった。

圭悟と理加と自転車置き場で別れて、雨の中ようやく小夜子は自宅にたどりついた。それでもどうしても事情を訊きたくてまず電話をかけたのは理加のところだった。圭悟にはすぐ切られてしまいそうで怖かったからだ。
「はい」受話器の向こうに理加の声。「理加?私、小夜子。あの今日ね」
つらい、と小夜子は思った。電話でも判るのだ。理加の冷たい雰囲気。
「うん、なに?」
「えっと今日、どうして誤解を話そうとしても聞いてくれないのかなって」
「なにが、誤解?小夜子」
「理加?圭悟となに話したの?」
理加が圭悟と私の知らない話をしている。小夜子は二人の今日の雰囲気からそう受け取った。
「何話したって。小夜子、どうして自分が野山君に別れを告げられたか判ってないの?」
「判るよ。私がスケッチブックに圭悟以外の男の人を描いていたこと。それでしょう?でもあれってただの誤解だよ、眼鏡をかけた男の人が好きなだけ。中学のとき、ほら私よく言っていたでしょ?理加。ねえ」
向こうで理加のため息が聞こえた。
「それは誤解じゃないよ、小夜子」「え?」
「自分で判らないの?」
理加の言っている意味が小夜子には判らなかった。
「私は去年から気づいてた。小夜子が彼に恋をしていること、ひまわりの向こうの彼を見てること。小夜子が自覚していなくても、あれはきっと恋だ。野山君が怒るのも無理ないよ」
小夜子の受話器を持つ手が震える。
私が、三辺君に、恋?圭悟よりも好き?
「小夜子?判ったの?きちんとね、きちんと野山君には言うんだよ」
理加の声もうまく聞こえない。ああ判った私は。どうして別れを言われた直後涙が出なかったか。
別れを告げられたのが悲しいのではなくて。
知らない内に大事な圭悟を傷つけたこと、これが悲しい。
「ごめん、ありがと理加」今の小夜子にはこれだけしか言えず、そのまま受話器を置いた。
そうか、もう圭悟とさよなら。
学食も映画館も、ハンバーグが好きなこととか茶碗蒸しとか。そんな大切な記憶ももういらない。あの約束も、あの絵も。みんな、さよなら。
小夜子がすべてを悲観して、机に突っ伏したその時、今置いたばかりの電話が鳴った。
「はい」条件反射だな、思わず小夜子は無視できず、受話器を取った。
「あの岡田先輩のお宅でしょうか。僕、同じ美術部の後輩の・・」
あれ珍しく丁寧な。でも小夜子には声で判った。三辺の声だった。今日の気まずい午後のこともあるし、特に今は聞きたくない声だったかも。小夜子はそう思いつつも返事をする。まあでも彼には何の罪もないのだ。
「三辺君ね?私よ、小夜子」
「小夜子先輩ですか。なんか声判らなかった。えと今日はどうも」
「電話だと、声違って聞こえるのかな。でもどうしたの?三辺君が電話なんて珍しい」
三辺君は後輩たちの間でも、電話無精で有名なのに。そう小夜子は続けた。「僕だって、用のあるときはちゃんと自分からかけますよ。小夜子先輩、明日お暇ですか」明日は、土曜日だ。ほんとだったら毎週土曜は、圭悟と学校の図書室で待ち合わせて勉強する約束だ。確かいつも10時。明日も来ているのだろうか、だめもとで行ってみようか、図書室。そしてもし来ていたら、もう一度話だけでもできないだろうか。電話の向こうの三辺を置き去りにしてしまい、小夜子はしばし思いにふける。
「もし用事あるならいいんです」「ううん。ごめんちょっと考え事。大丈夫よ、何か急用?」
「いや、長らくお借りしていたデッサンの本をお返ししたくて。明日じゃ迷惑ですか?」
「そんなの、いつでもいいのに」
「明日、部室に来てもらっていいですか」珍しく三辺は強い口調で言った。「お願いします」
小夜子は悩みながらもそれでも、明日圭悟に会う前に三辺に会っておくことは、気持ちの整理が付いていいかもしれない。そういう風に思うことにした。
「いいわよ、何時?」「明日俺、後輩たちに絵の指導する予定なんです。だからその前に、9時でお願いできますか?」
三辺と明日の約束をして、小夜子は電話を置いた。なぜかさっきの気持ちとは別だ。明日何が起こるかは判らない。でも圭悟にあえたら勇気を出してなにか言えそうな気がした。

翌日、三辺との約束の時間には少し早すぎるくらいに小夜子は部室に着いた。
8時半か、いつもの学校があるときの時間に来てしまったなあ。なんか早く目が覚めて、だけど家でゆっくりする気もなかったからだ。
あれ。部室の扉は少し開いていた。三辺君かしら、早いわねと小夜子は一人ごと。
小夜子が部室の扉のノブに手をかけた時、中から男の人の声が聞こえた。
「昨日の電話と同じで、俺は何もしていません」三辺の声だ。「俺の思いが小夜子先輩や部長に迷惑をかけたのなら謝ります。でも俺は小夜子先輩には何も言っていないし何もしていない」
え?三辺と話しているのは
「じゃあなぜ小夜子はこの絵を」くしゃくしゃのスケッチブックの一枚。それは小夜子の描いた眼鏡の、三辺の絵だった。
「これはお前だろう」
圭悟の声だった。小夜子はノブから手を離せない、ここにいてはいけない、でも動けない。
「さっきもお話ししたとおり、俺は小夜子先輩が好きです。でも小夜子先輩には部長という恋人がいることは承知の上で、俺はこの思いを告げようなんてそしてほかの誰かに伝えようなんていちども思ったことは無い。部長に昨日電話で尋ねられるまでは、ただのいちども」
「俺には、判らないよ。お前も、小夜子も」
圭悟は頭を抱えて座り込む。「小夜子をどうやってあきらめたらいいのか、俺には恥ずかしながら判らない。だからお前の口から、小夜子とよろしくやっているという言葉を聞きたかったんだ」
こんな圭悟はとても見ていられない。小夜子はそっと部室から離れた。
圭悟に会わないように、小夜子はそっと体育館裏の方へ離れた。
ここには夏、ひまわりが咲いていた。
ひまわり、あの絵の時に私が軽い気持ちで、眼鏡の男の子をデッサンしたせいで。すべてがみんな誤解して。私にはそんなつもりはなくて、ただ描きたいものを一生懸命仕上げただけだったのに。あの女の子はひまわりを見ていただけだったのに。ひまわりを通して眼鏡の男の子を見ているだなんて、誤解されて。あれは1年以上も前に描いた絵なのに。その時私が三辺君をモデルにスケッチなんてしたから、
あ、それが元凶か、全部私のせいね。小夜子、少し自嘲気味に笑う。
体育館からバスケ部の練習の音がする。さて「どうしよ」一旦部室から離れたは良いけど。でも9時には三辺との約束がある。時計の針は8時45分。
何も聞かなかったふりして、用事だけすまそうか。偶然知ってしまった三辺の気持ちなど、小夜子には関係なかった。圭悟には会いたい、でもどうしたらいいのか。圭悟と三辺のあんなやりとりを聞いて、それでも小夜子に出来ることはただ自分の気持ちを素直に伝えることだけだ。よし、もう一度圭悟に会いに、と小夜子は足を部室へ戻ろうと向ける。
「小夜子じゃないか。どうしたこんな早く」小夜子の目の前から現れたのは圭悟だった。やだ、あんまり思い詰めると幻覚かしら、小夜子そんなこともちらりと思ってしまう位、圭悟は突然現れたのだった。
「圭悟、どうしてここへ?」体育館裏なんて来たの?小夜子は続ける。
「どうしてかな。何となく。小夜子、でも丁度良かった。これ預かってたんだよ」圭悟は本を一冊右手に、頭上に掲げた。
それは、小夜子が三辺に貸したはずのデッサンの本だった。今日返してもらえることになっていた筈だった。少し色あせたその本を小夜子はそのまま受け取る。
「さっき偶然三辺に会ってね、小夜子に会うなら渡してくれって」
「私に、会うなら?」
そりゃ小夜子は望んでいた。今日いつもどおり圭悟に会えることを。いつもの土曜日みたいに図書室にふたりで、一緒に勉強できることを。でも昨日の圭悟の態度と言葉を知っているから、それは小夜子の願望でしかないと思っていたのだ。
言葉に詰まって戸惑う様子の小夜子に気づいた圭悟は、優しい声で続けた。
「図書室、行くだろう?ちょっと今日はいつもより早いけどな」
「圭悟。うん、行く」あのあと圭悟と三辺が何を話したかなんて、小夜子には判らない。しかし、さらりといつもみたいに、図書室に行こうと告げる圭悟がそこにはいた。ああなんにも特別な言葉はいらないのかも。とそう強く小夜子は思った。昨日の別人みたいな圭悟なんてとうに、どこかにいってしまったみたいだ。そこにいるのは、小夜子と今までずっと一緒にいた、小夜子の好きな圭悟だった。ふたりはそのまま言葉も無しに一緒に図書室に向けて歩き始めた。
「あ」しかし小夜子ははたと、自分の両手が手ぶらなことに気づく。
「圭悟ごめん、自転車にバッグ置いたままだったわ」「お前ね、勉強しにきたんだろ。なに考えてんの?」「うーん。朝からぼんやり。ちょっと取ってくるね、先行ってて」
圭悟と離れた小夜子は、自転車置き場に戻る。バッグを手に、圭悟の待つ図書室までの、短いその道のりの途中。律儀な小夜子が少し気になるのは部室のこと、三辺のこと。昨日した約束のこと。
そっと、そっとのぞいてみようか。なんにも知らないふりして一言。「圭悟からちゃんと返してもらったからね」うん、それくらい。
美術部室の前で深呼吸。そっと扉のノブに手をかけた。
むせかえる、煙草のにおい。部屋の中心には三辺の姿があった。ひとりで足を組んで座る三辺の、その目の前に置いたキャンバスにはあれは。
それは小夜子の「ひまわり」だった。彼の目はその絵をまっすぐとらえたまま、それでも背中を軽く震わせているのが小夜子には判った。眼鏡の奥のその瞳には、あれは涙?三辺に気づかれないように小夜子は、扉をすぐそっと閉める。直感で、すぐに判った。これは他人が侵しては行けない領域だということが。入ってはいけない、誰も声をかけてはならない空間がそこにはあった。
ひとの気持ちは他人にはとうてい計り知れないものだけれど、それでも小夜子にできるのはそっとしておくことだけ、それだけ。
そっと部室を離れた小夜子は、考え事をしながら足元を見て歩き出す。しかしそこにすぐ自転車が停めてあるのに気づいた。あれ?小夜子が顔をあげるとそこには顔見知りの後輩がいた。
「あら、大月さんじゃない」
「小夜子先輩。お久しぶりです。受験勉強のほう、どうですか」
「それを言わないでよ」「あっでも、先輩には野山さんがいるから大丈夫ですね」
そうね、うん。圭悟がいるから。後輩にまで言われてしまって、小夜子は少し昨日のことを思った。昨日は、別れを一方的に告げられた昨日はもう無理だとあきらめた、圭悟と同じ大学への進学。でも今、今日は。
「もう、だから困ってるのよ。同じ大学に行くためにはどれだけ勉強したらよいのやら」今の小夜子にはこんな冗談が言える位だった。
「でもお似合いですよ、お二人ぜひ同じところに受かってほしいな。私応援してますから。でも今日学校休みなのに、どうして?」
う、そうか。部室から出てきたように見えたかな?うん、やばいかな?小夜子はそう思いながらも、後輩に向かって何でもないように取り繕った。
「ああ,副部長から昨日電話があってね」「三辺先輩から?」
「なんか返しておきたい本があるからって,私そんなのいつでもいいって言ったんだけどね。デッサンの本。でも忘れない内にって、今部室で会って返してもらったとこよ。」小夜子は右手に持つ、さっき圭悟から渡してもらった本を軽くちらと見た。「まあ私も図書室に用あったし。大月さんは」そこで昨日の三辺の電話を思い出した。「ああそういえば後輩の指導するって言ってたわね。頑張ってね」
「はい。先輩も」
そのまま部室に入っていこうとする大月の背中をちらりと見ながら、小夜子はそれでも思わず首を横に振って図書室まで歩く。
自分にとって一番大切な、圭悟の元へ急ぐ。
一緒の大学に無事合格して、そうしていつかは未来像を現実にするために。
陽の当たる縁側でさやえんどうのすじを剥く、小夜子の隣にいるのはきっと圭悟の筈だから。


                     初出 2001/5/3 am3:40
                    推敲2005/2/18 am2:12
                    再推敲2020/10/01 14:05

小1の時に小説家になりたいと夢みて早35年。創作から暫く遠ざかって居ましたが、或るきっかけで少しずつ夢に近づく為に頑張って居ます。等身大の判り易い文章を心がけて居ます。