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ココにいます「土偶と縄文の仲間たち」東村山から生まれた宝もの

今回訪れたのは、埼玉県との県境にある東京都東村山市
都心からは電車で約1時間余りのベッドタウンながら、ところどころに田園風景が見られる、ゆったりした雰囲気のある街です。


東村山と聞いて思い浮かべるのは、志村けんさん。
奇しくも今日3月29日は命日です。
2020年に亡くなられてから早丸三年がたちます。
長い間、数えきれない笑いを有難う!

東村山駅前の銅像

そしてここ東村山は、縄文時代から人々が住み文化が栄えた場所でした。
考古好きにはよく知られた低湿地遺跡である「下宅部しもやけべ遺跡」がそれを伝えてくれます。

低湿地遺跡とは
湖沼や河口などの周辺の低い土地にあった集落などの遺跡で、長い間水分を多く含む場所であったために、通常であれば酸素に触れて時間と共に腐ってしまう、植物の種や、動物の遺体、木・草・皮製品などが残されていることが多く、縄文時代の様子を知る手がかりとなることがあります。

その下宅部しもやけべ遺跡」特別展が、市内の「八国山たいけんの里」で開催されています。

展示のほか自然・伝統文化等の体験ができる施設です。


下宅部しもやけべ遺跡」の復元図からは、起伏に富んだ地形が広がり穏やかで豊かな様子が伝わってきますね。

パンフレットから

この遺跡は縄文時代~中世にかけての複合遺跡ですが、特に縄文時代後期(約3,500年前)の遺構・遺物が多く見つかっています。
この展示では、他の遺跡では見られない〝木製品〟や〝植物〟を利用した痕跡を見ることができます。

ウルシ塗りのあれこれ

特に注目するのは、縄文時代から始まっていたとされるウルシ塗りの技術
全国各地の縄文遺跡からウルシ塗りの土器や装飾品などが出土していますが、ここではウルシ塗りの裏側を見せてくれます。

樹液を採取したウルシの樹が残っていた!

縄文時代にウルシ塗りをするためには、先ずは原料の調達から始めなければなりません。
ウルシの樹に石器で傷をつけて、そこから樹液を採取します。

写真のウルシの樹には、石器で付けられた傷跡(ヨコの線)が残っています。樹液を採取した後のウルシの樹は、川底の抗として再利用されていました。

この頃には既にウルシ林を管理していたとされ、樹液を採取した後にウルシ林を維持するために間伐し、それらを再利用したものだと思われます。


ウルシ塗りのための道具類

ウルシの樹液を攪拌・加熱し水分を蒸発させると、黒色の漆になります。赤色にするためには顔料として水銀朱やベンガラを混ぜます。

樹液や顔料を入れる専用容器や刷毛の跡?が残る専用パレット(左下)などの道具類も出土しています。
パレットは壊れた土器を再利用しているとのことです。


技術とセンスが光る木製品

木製のウルシ塗り匙。
柄の先端には細かい装飾が施されているようです。
繊細な手仕事の様子が見られますね。


ウルシ塗りの杓子(左は復元品・右は柄の部分のみ)。
工夫を凝らした造形が生み出されていました。


樹皮を裂いて円筒形にした容器の一部です。
全体に黒色漆を塗った後、赤色を塗り重ね、ところどころ塗り残した部分から黒色が覗いています。
赤と黒のコントラストが効いたおしゃれな漆器であったことでしょう。


美だけにとどまらないウルシのこんな使い方も!

ウルシは装飾として使うだけでなく、補強材や接着剤としても使われていました。
壊れた注口土器の注ぎ口も、漆で補修しています。


こんなものも眠っていました

ウルシの他にも、樹木や植物を利用した跡、そしてもちろん土偶も存在していました。

建物の柱に技あり!

カヤの樹で出来ている高床建物の柱は、先端にホゾ加工(接合部を凸型と凹型にし差し込むことで接合させる方法)が見られます。日本伝統の釘を使わない建物が縄文時代からあったことを教えてくれています。


常備食はオニグルミ⁉

クリ、トチノキ、ドングリなどの堅果類は貴重な食料として、秋に大量に収穫して貯蔵していたと考えられています。
写真の大量のオニグルミの殻は、常備食作りの痕の様です。


縄文人はマメ好きだった?

貯蔵できるものとしてマメ類も重宝されたようです。
野生のマメよりも大きなサイズのマメの痕が見つかっていることから、縄文時代にはマメの栽培が始まっていたと考えられます。

写真は土器底に残っていた炭化したアズキ。
砂糖が無かった縄文時代の煮豆は、どんな味であったのでしょうか?


そして土偶たちも

山形土偶がちらほら確認できますが、そうでない土偶たちもいるようです。
ひょっとすると、ここではあまり土偶は作られていなかったのかもしれません。周辺の集落との交易で、優れたウルシ製品と交換として土偶がもたらされたのかもしれませんね。

見かけないカオのこちらの土偶、どこか面白みを感じます!
人間のようなそうでないような、でも乳房の表現があるのでやはり女性を表しているのでしょうか。



遺物を見た後は、ここから徒歩で5分ほどの下宅部しもやけべ遺跡はっけんのもり」へ。
今は住宅に囲まれた静かな公園になっています。
ここでウルシを作っていたと思うと、何だか不思議な気分になります。


心豊かに暮らしていた人々がいた東村山。
「だいじょうぶだあ~」
あの笑顔が懐かしいです。


*参考資料
下宅部しもやけべ遺跡展 パンフレット
縄文人の植物利用 工藤雄一郎・国立歴史博物館編 新泉社

最後までお読みいただき有難うございました☆

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