絶望は幸福への伏線である
最近読んだ本である「運命の恋をかなえるスタンダール」に次のような一節があった。
「絶望は幸福への伏線である」 ・・・・言葉の意味がわからずに首をかしげると、スタンダールは続けた。
「人は不幸な出来事に遭遇して絶望すると、その出来事の裏側に隠された真の意味が分からなくなる。だが、その絶望から立ち上がり、前に進み、幸福を手に入れたときには、はっきりと分かるのだ。絶望的だと感じたあの出来事こそが、自分を幸福へと導く最も重要な伏線だったということに」
この文章が、心に響いた。
◆
少し昔の話を。
ちょうど10年ほど前、仕事で手痛い経験をした。
はじめての大負け(考える猫の本業は弁護士なのです)。
もう、悔しくて、悔しくて。
今でも時々思い出すんだけれども、
そのときに感じたことは、
「守りたいときに守る力がないことがこんなに悔しいなんて思わなかった」
ってことなんだ。
そこからは相当必死になったものさ。
スラムダンクの安西先生が流川楓に対して
「とりあえず、君は日本一の高校生になりなさい」
って言ったシーンを思い出して(お前は流川じゃないっていうツッコミはとりあえずしないでくださいw)、
自分の携わっている分野においては、
日本一だと言えるように頑張ろうと思った。
時は流れて昨日、
わりとシビアな争いの事件で、
裁判官に
「とてもわかりやすかった。代理人(俺ね)の言うとおりだと思う」
と言ってもらえたときの達成感。
こちらの言い分が綺麗に伝わりきったときの喜び。
あのときの絶望は、
このときの達成感を得るための、
そしてそこに至るまでに自分を叱咤激励するための、
伏線だったのかもしれない。
とりあえず仕事の話を例にしたけれども、
仕事以外にも、主観的には辛いなぁと思う経験を多々してきたように思う(もちろん、幸せなことも多々ある)。
悩みには大小があるって言うけれど、
でも当人にとってはどんな悩みであっても、
大きいものだったりするんだよね。
(だから、誰かに悩み相談されたときに、一番言ってはいけないのは「そんなことで悩んでるの?」っていう台詞だよね)
ただ、一方で、
冒頭で引用した文章にあるように、
絶望や、
絶望とは言えないにしてもある種の失敗、
悩み、
そういったものが、
未来の幸福の伏線であることは、
きっと多いのだろうと思っている。
だから頑張れなんていう陳腐な言葉を吐くつもりはないけど、
失敗をしたり、
悩みを抱えたりしているときに、
「絶望は幸福への伏線である」
といった捉え方をしてみると、
ほんの少しだけ心が軽くなるかもしれないなと思ってる。
仮に絶望の淵にいるときにそういう捉え方ができなくても、
きっと、そういう捉え方をできるときがくる。
絶望の淵にいるときはあらゆる言葉が耳に入らなくても、
時という魔法は偉大だから、
いつのまにか気づかないうちに過去の絶望が「幸福への伏線」と変わっているものだ。
人間って、
走って、転んで、立ち上がって、歩いて、走って、転んで。
そういうことの繰り返しで、
自分の人生の意味を知っていったり、
人生が深まっていったり、
幸せになっていく。そういうものだと思っている。
転ぶのは怖いけど、
転んでも立ち上がれるのが人間だし、
傷だって時間が治してくれる。
そして、傷が治ったらもっと強くなる。
ここまで言ってきたことについては、科学的な、論理的な根拠はないかもしれない。
けれども。
けれども。
そのように信じて生きる権利が、
きっと人間には与えられている。
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